第六章 選択編 第9話 小さな模倣
ミレスで討議の場が増え始めた頃、その噂は近隣の町や村にも少しずつ伝わっていった。
帝都の布告そのものより、ミレスでは住民が集まって物事を話しているらしい、という話の方が早い。人は理念より、具体的な風聞を面白がる。酒場で誰かが話し、行商人が尾ひれをつけ、半日後には別の町で“あそこでは民が役人に代わって決めている”という大げさな話になっている。
その一つが、東の中規模都市セイランへ届いた。
セイランはミレスより豊かで、街道の交差点にあるため商いも活発だ。石造りの議事堂があり、旧来から有力商人と地主が町政に強い影響を持っていた。外から見れば整っている。だからこそ、新しい変化に対しては“整った形”を真っ先に作りたがる癖があった。
ミレスの話を聞いたセイランの市政官たちは、すぐに一つの結論に飛びついた。
討議所が必要なら、公式の討議所を設ければいい。
住民の意見反映が流行りなら、それらしく場を用意すればいい。
かくして三日後、セイランでは旧税務館の広間が急ごしらえで“市民討議会場”とされた。入口には立派な看板。中には机と椅子が並び、壇上には司会役まで用意される。見た目だけなら、ミレスの倉庫二階よりはるかに洗練されていた。
だが最初の会合で、すぐに歪みが出た。
「本日の議題は、北通りの舗装補修および市場税の一時調整について――」
そう読み上げたのは、市政官の部下だった。
議題はすでに上が決めている。
発言順も決められている。
しかも最前列には有力商人と地主が座り、後ろの方に一般市民が押しやられていた。
「ではまず、ギラン商会殿」
名指しされた大商人が立ち上がり、ゆったりとした口調で話し始める。北通りの舗装は物流のため急務であり、市場税の調整は商業活性化のため必要である、という理路整然とした演説だ。間違ってはいない。むしろ筋は通っている。だがそれを聞いている荷運び人足や市場の小商人たちは、自分たちが“呼ばれただけの観客”であることをすぐ悟った。
後列から一人の女が手を挙げた。魚売りだった。
「市場税をいじるなら、屋台の場所代の方も考えてもらわないと困るんだけど」
しかし司会役は困った顔をして言う。
「順番にお願いします。まずは主要関係者から」
「主要って何さ」
「市に対する納税額の大きい――」
そこで、もう場の性格は決まってしまった。
意見を聞くために人を集めたのではない。
“意見を聞いている形”を整えるために人を集めたのだ。
形だけの参加は、参加していないことより時に人を苛立たせる。
セイランに出入りする行商人からその話を聞いたミレスの討議所では、しばらく妙な静けさが続いた。
「立派なもんだな。椅子まであるのか」肉屋が皮肉を言う。
「こっちは樽をひっくり返して座ってるのに」誰かが返す。
だがリュシアは笑わなかった。
「笑ってる場合じゃないと思う。形だけ真似されたら、外から見れば“これが討議所だ”ってことになる」
「それの何がまずい」
「場が最初から決まった力関係のまま運営されるなら、住民が決めているように見えて、実際は今までと何も変わらない」
ネヴィルはその言葉を黙って書き留めた。
模倣は早い。
だが、本質を伴わない模倣は、変化そのものへの不信を広げる。
数日後、セイランからミレスへ一人の若い役人が視察に来た。名はオーウェン。まだ二十代半ばで、真面目そうな顔立ちだが、どこか疲れている。レオネルの部屋で彼は少し躊躇したあと、率直に言った。
「正直に聞きたいんですが、ミレスではどうやってああいう場を機能させているんですか」
「機能しているかどうかは、まだ何とも」
「いえ、でも少なくとも、うちのように最前列の連中が全部持っていく空気にはなっていないと聞きました」
レオネルは少し考えた。
どうやって、というほどの手法はない。
むしろ不格好に始まったからこそ、最初から権威の椅子が置かれなかった面もある。
「たぶん……立派な場所から始めなかったことかもしれません」
「場所?」
「倉庫とか、寺院の裏庭とか。最初から公式に整えすぎると、皆、その場の“正しい振る舞い”を演じ始めるんです」
オーウェンは目を瞬いた。
「そんなことで違うものですか」
「そんなこと、で変わる時もあります」
「では、役人は出ない方がいい?」
「場合によります。ただ、最初から司会者の顔をして立つと、人はそちらを見ます。横を見る前に」
オーウェンは黙り込んだ。
彼は悪い役人ではないのだろう。
だからこそ、何が失敗だったのかを理解しきれないまま困っている。
「うちの上は、“住民の声を聞け”と言いながら、結局、声を並べる順番まで管理したがるんです」
「わかります」
「……本当ですか」
「少しは」
レオネルは苦く笑った。
役所というものは、秩序を作るためにある。
だから新しいものが生まれると、すぐに秩序の型へ流し込みたくなる。
それは悪意ではなく、半ば職業病だ。
その晩、オーウェンは倉庫の二階の討議所を見学した。灯りは暗く、床は軋み、誰が仕切っているのかも曖昧だ。肉屋が大声を出し、薬草師が話を整理し、途中で酒場の主人が水差しを持って割って入る。秩序だった会合ではない。だが、人が自分の言葉を持ち込める余白だけは確かにあった。
「ひどく雑ですね」見終えたあと、オーウェンが呟いた。
「ええ」レオネルは答えた。
「でも、うちにはこれがなかった気がします」
その言葉に、アリアは路地の奥から小さく目を細めた。
模倣は失敗を通って本物に近づく。
最初から正しい形などない。
それもまた、彼女がこの変化をすぐ制度化しない理由の一つだった。
宿へ戻る途中、エリオンが言う。
「放っておけば、妙な真似をする町も増える」
「増えるでしょうね」
「なら、最低限の型を先に示した方が早いのではないか」
アリアはすぐには答えなかった。
夜風が彼女の髪を少し乱す。
「型は必要になる。でも、今はまだ早い。早すぎる型は、未熟な場を守る前に窒息させることがあるの」
「相変わらず、人の不器用さに賭ける」
「賭けてるのかもしれないわね」
「王のする賭けじゃない」
「でも、王しかできない賭けでもある」
彼女の声は淡々としていたが、その響きにはどこか寂しさがあった。
うまくいかなかった模倣も、いずれ王の責として数えられるだろう。
それでも彼女は、今すぐ整えすぎることを選ばなかった。




