第六章 選択編 第8話 見ているだけの王
帝都からの使者は、夕方の赤い空の下でミレスに入った。
馬は泡を吹き、使者の外套は乾いた土で灰色になっている。町の者たちはすぐにそれとわかった。王都から何かが来た時、人はそれだけで少し姿勢を変える。布告板の前に群れができ、役所の窓は慌ただしく開閉し、誰もが“今度こそ上が何か決めるのではないか”という期待と恐れを同時に抱く。
だが届いた文は、短かった。
地方判断を妨げず、記録を怠るな。
必要に応じて経過を詳報せよ。
以上。
南堰補修についての明確な是非も、ルーナの件への言及もない。
要するに、王都はまだ何も引き取らないということだった。
役所の会議室でその文が読み上げられると、最初に机を叩いたのは河川監督官ダルスでも会計吏マイナでもなく、年配の行政長官補佐代理だった。普段は温厚で、書類の不備にだけうるさい男だが、その日は珍しく頬を赤くしていた。
「これでは同じことだ! 詳報せよ、とは何だ。判断だけこっちにさせておいて、あとで検証するための材料を集めたいだけじゃないか」
「実際そうでしょうね」マイナが冷静に言った。
「笑い事ではない!」
「笑ってません」
部屋の空気はぴりつき、誰も次の言葉を選びかねていた。
レオネルは帝都からの紙を見つめた。
そこにあるのは、露骨な放任ではない。
けれど救いでもなかった。
“やれ”とも“やるな”とも言わず、ただ記録を求める。
その姿勢は、責任を育てようとしているようにも、冷たく突き放しているようにも読めた。
「王都は本気なんでしょうか」
書記見習いの少年が、思わずそう漏らした。
誰もすぐには答えなかった。
夜、その噂は討議所にもすぐ広がった。
王はやはり何も決めないらしい。
王都は地方の苦労を見て楽しんでいる。
いや、帝都にも余裕がないのだ。
様々な憶測が飛び交い、どれも半分は感情でできていた。
倉庫の二階では、いつもより強い口調の言葉が行き交った。
「見てるだけか、王は」
「見てるだけなんだろうさ」
「それで人が飢えたら?」
「それでも“地方の判断でした”で済ませる気か」
リュシアが炭筆を置いて言った。
「王が全部決めてくれる時代がそんなによかったなら、なんで今まで皆、文句ばかり言ってたの」
「文句を言うのと、何もしてくれないのは別だろ」
「何もしてないかどうかも、まだわからない」
「わからないことばかりじゃないか!」
その怒鳴り声に、場が静まった。
怒鳴ったのは、普段あまり喋らない皮なめし職人だった。男は自分で驚いたように少し息を荒くし、それから低い声で続けた。
「こっちは暮らしで手一杯なんだ。試されてるみたいで気分が悪い。正しいかどうかなんてわからんのに、決めろと言われる。決めたあとも、不安が消えない。なのに王は何も言わない。……それで平気でいられる奴ばかりじゃない」
誰もすぐには反論できなかった。
その言葉は粗いが、町の奥底にたまっている疲れをよく表していたからだ。
その頃、アリアは宿の裏庭で一人立っていた。日が落ちたあとの空は群青に沈み、遠くで荷車の軋む音がかすかに聞こえる。彼女の手には、帝都から各地へ送られた文の写しがある。自分が承認した文だ。
「こんな顔をすると思ったか」
後ろから来たエリオンが言った。
「少しは」
「少し、か」
彼はアリアの横に立ち、同じように夜空を見上げた。
「民は王に答えを求める。責めるためでもあり、縋るためでもある。お前はそれを知っていて黙っている」
「黙ってはいないわ」
「決めてもいない」
アリアは紙を折りたたみ、しばらく言葉を探した。
「今、私が明確な答えを出せば、皆はまたそれに慣れる。迷ったら待つようになる。考えるより、王都の機嫌を読むようになる」
「それで国が長く強くなる、という理屈か」
「理屈だけじゃない。必要だと思ってる」
「必要だからといって、目の前の痛みが軽くなるわけではない」
「わかってる」
その声には、少しだけ疲れが滲んだ。
エリオンは横目で彼女を見る。
王座に座る人間の疲れではない。
自分が手を出せば助けられるかもしれない場面を、あえて見送る者の疲れだった。
「介入しないのは、勇気か臆病か」
彼が問うと、アリアはかすかに笑った。
「両方かもしれない」
「珍しく正直だな」
「王はいつも正直じゃないもの」
「それも珍しく正直だ」
二人のあいだに、短い沈黙が落ちた。
風が植え込みの葉を揺らし、宿の壁に影を動かす。
「私はね」アリアがようやく言った。「全部を放っておきたいわけじゃないの。人が自分で決めるための時間を奪いたくないだけ。まだ早いのよ。今ここで答えを配れば、きっとそれは国中に広がる。でもその広がりは、自分の足で立つ前に杖を渡すようなものだわ」
「杖がなければ転ぶ」
「転ぶわ」
「骨を折る者もいる」
「いるでしょうね」
「それでも?」
アリアは目を閉じた。
風の音が少し強くなる。
自分が何を選んでいるのか、彼女はよく知っていた。
痛みを避けないこと。
そのことで恨まれること。
それでも先を見ているふりをしなければならないこと。
「それでも」
小さな声だったが、揺れてはいなかった。
翌日、町の南市場で、王に対する不満を公然と口にする者が増えた。
怠け者の王。
責任逃れの王都。
地方に尻拭いをさせるだけの改革。
どの言葉も耳障りは悪かったが、レオネルにはそれを無理に取り締まる気になれなかった。怒りは、少なくとも人々がこの変化をただの噂ではなく、自分の暮らしに関わる現実として受け取り始めた証でもあったからだ。
一方で、少数だが違う声もあった。
「決めないってことは、任せられてるってことじゃないのか」
「任せられてるなら、こっちももう少し考えないとな」
そう言う者たちはまだ少ない。
だが少ないからこそ、言葉の輪郭がはっきりしていた。
夜、ネヴィルは討議記録集の欄外に新たな一文を書き足した。
――王都の沈黙は不信を招く。
――しかし同時に、沈黙があるからこそ自発的な判断の必要が意識される。
書いたあとで彼は自分の文を見つめ、少し嫌な気分になった。
まるで他人事のように整いすぎている。
本当はもっと混乱しているのに、文字にすると秩序だった顔をしてしまう。
彼はその下に、珍しく感情をそのまま残した。
――ただし、その代価が誰に落ちるのかは重い。
そこまで書いて筆を置く。
王は見ているだけだ、と人は言う。
けれど本当に“見ているだけ”でいられる者がこの国にどれほどいるのか、ネヴィルにはまだわからなかった。




