第六章 選択編 第2話 裁可のない書簡
南堰の補修が始まったのは、その翌朝だった。
工兵たちは夜明け前から叩き起こされ、まだ眠気の残る顔で杭と石材を荷車に積んだ。作業着の裾には泥がつき、口元には不満が残っている。だが手は動いた。現場に出る者にとって、命令の出どころは時にどうでもいい。必要な時に、必要な仕事がある。それが現実だ。
問題は役所の中に残った。
レオネルは机の前に座り、三通目の書簡を前にしていた。帝都へ送る追送文。すでに補修を開始したこと、その理由、転用した予算の額、想定される損失。どの言葉を選んでも、書き終えた瞬間にそれは言い訳と責任の両方になる気がした。
紙は白い。
白すぎて、決めたことがまるごと自分のものに見える。
彼は筆を取って一行目を書き、すぐに消した。
――中央の新布告に基づき。
それでは逃げているようだ。
――南堰の危急により。
それでは単独判断の色が濃すぎる。
――住民保護を優先し。
それでは誰が住民を見捨てると言うのか、と鼻で笑われそうだ。
窓の外では、朝の鐘が二度鳴った。書記見習いの少年が廊下を走る音がして、どこかの部屋で言い争いが始まる。役所はいつも通りに騒がしい。いつも通りなのに、紙一枚が全部を違うものに変えてしまう。
「まだ書けていないのか」
顔を上げると、会計吏のマイナが戸口に立っていた。四十を過ぎた女で、痩せた頬と鋭い目をしている。帳簿を扱う指先は細いのに、口調は刃物のように無駄がない。
「文面を整えていて」
「整えるのは後でいい。先に出しなさい。遅れるほど印象が悪い」
「印象で済めばいいですが」
「済まないから、せめて早く出すの」
彼女はそう言って部屋に入り、机の端に置かれた以前の帝都からの返答文を指で弾いた。どれも短い。許可、不許可、差し戻し、補足要求。決定の文はいつだって簡潔だった。迷いを含まないからだ。
「あなた、勘違いしているわ」
マイナは帳面を抱えたまま言った。
「何をです」
「中央はね、いつだって全部を見て決めていたわけじゃない。見えないものを、見えているふりで決めていただけよ。だから地方は楽だった。間違っても“上のせい”にできたから」
レオネルは黙った。
「今は、その布が一枚剥がれたの。だから寒いのよ」
言い残してマイナは去った。励ましではなかった。だが彼女なりの正直さだった。
レオネルはしばらくその場に座り、やがて新しい紙を引き寄せた。筆先にインクを含ませる。逃げ道のない字で書き始める。
――ミレス地方行政局より帝都政務院へ。
――南方灌漑堰の損壊危険に対し、地方判断により緊急補修を開始した。
――理由は以下の通り。
書いてしまえば、文面は案外すらすらと続いた。恐怖が消えたのではなく、恐怖より先に記録しなければならないことが多すぎたからだ。被害予測、費用試算、現場の証言、天候の見立て。紙の上に並ぶ数字は、彼の手を少し落ち着かせた。数字は感情を持たない。だが数字を採用する人間は、感情から自由ではない。
昼近くになって使いの騎手が出立し、三通目の書簡は帝都へ向かった。
その背を見送ったあとも、何も解決した気はしなかった。むしろ、ここからが始まりなのだとわかっただけだった。
午後、役所の裏庭でレオネルは河川監督官ダルスと立ったまま食事を取った。固いパンと薄いスープ。春とはいえ風はまだ冷たく、石壁の陰には昨日の雨の湿りが残っている。
「若い頃にな」ダルスが突然言った。
「はい」
「私も一度だけ、上の裁可を待たずに橋を閉じたことがある」
レオネルは顔を上げた。ダルスはスープを啜りながら、遠いところを見る目をしていた。
「商隊が怒った。町も怒った。損失が出たからな。三日後、橋は半分落ちた。閉じていなければもっと死人が出た。だが、誰も褒めはしなかったよ」
「……助かったのに?」
「助かったとわかるのは、起きなかった惨事の方だからだ。人は、失った金の重さは数えられるが、起きなかった死者の数は数えにくい」
「それでも、やるしかないと」
「役人というのはな、感謝されるためにいるんじゃない。誰かが罵る先になるためにいる時がある」
ダルスはそこでスープの椀を置いた。
「ただし、今までは最後に“帝都の判断です”と言えた。これからは少し違う」
その言葉は静かだったが、レオネルにはずしりと響いた。
午後の終わり頃、南堰から使いが戻った。第一段階の補強は順調。水位はまだ持ちこたえている。現場の工兵長グレンは、今夜じゅうに二列目の石積みを終える予定だという。ひとまず胸を撫で下ろしかけたその時、今度は別の報せが入った。
北の村々で、穀物商人が買い占めに動いている。
「噂を聞いたんでしょう」マイナが眉間を押さえた。「備蓄予算を削った話が漏れたのね」
「早すぎる……誰が」
「誰だっていいの。人は、決定より先に不安を流通させる」
すぐに市場監督を呼び、値の監視を強める手配がされた。だが法的にどこまで介入できるかは曖昧だった。これもまた帝都へ照会すべき案件のひとつで、本来なら判断を仰ぐところだ。
けれど今、その“本来”が揺らいでいる。
夕暮れ、レオネルは倉庫通りを歩いた。空は低く、赤銅色の雲が町の上に重く垂れている。荷運びの男たちは早口で何かを話し、店先では女主人たちがいつもより鋭く客の目を見ていた。噂が町を巡る速さは、行政文書の比ではない。
通りの先、古い羊毛倉庫の前に人だまりが見えた。何事かと足を止めると、中から年若い声と老いた声が交互に聞こえる。口論というほど荒れてはいないが、ただの雑談でもない。誰かが言った。
「だったら、帝都を待っているあいだに川が来たらどうする?」
「しかし勝手に金を動かしていいのか」
「勝手かどうかを決めるのが、今はこっちになったって話じゃないのか」
レオネルはしばらく立ち尽くした。中へ入ることはできなかった。役人の顔を見せれば、場が変わるとわかっていたからだ。羊毛倉庫の二階、半ば空き家になっていたその場所で、誰かが誰かに問いを返している。答えではなく、問いが行き来している。それは今までこの町であまり聞かなかった種類の声だった。
「補佐官さま」
不意に呼ばれて振り返ると、近所の粉挽き屋の娘が立っていた。まだ十六、七だろう。小麦粉のついた腕で籠を抱え、少し困ったような顔をしている。
「うちの父が聞きたいって。堰のこと、本当に危なかったんですか」
単純な質問だった。だがレオネルは一瞬、答えに詰まった。
本当に危なかったのか。
現場の見立てでは危なかった。だから補修を決めた。だが崩壊はまだ起きていない。起きていない以上、町の人間には“起きるかもしれなかった危険”と“減った備蓄”のどちらが本当か見えにくい。
「危なかった」
そう言えば、自分の判断を守るための言葉になる。
「わからない」
そう言えば、人々の不安を増やす。
「危ないと判断するだけの理由がありました」
結局、そう答えた。
娘は少し考えたあと、小さく頷いた。
「じゃあ、決めた人は大変ですね」
その言葉に、レオネルは返事ができなかった。
夜、帝都からの返書は当然まだ来ない。
だが来ないことそのものが、もはや空白ではなくなっていた。
裁可のない書簡。
返答のない沈黙。
その沈黙のなかで、人は少しずつ、自分の言葉で世界に触れ始める。
役所の灯りが一つ、また一つと消えていく頃、アリアは宿の窓辺に立っていた。ミレスの屋根のあいだを抜ける夜風は乾いていて、遠くで犬の吠える声がする。
「町がざわついている」エリオンが言った。
「ええ」
「まだ見ているだけか」
アリアは闇の中に浮かぶ役所の塔を見た。
「人が自分の判断で最初に学ぶのは、正しさじゃない。重さよ」
「潰れる者も出る」
「出るわ」
「それでも?」
「それでも」
彼女の声は柔らかかったが、そこには冷たい決意があった。慈悲がないのではない。慈悲だけでは、誰も選べるようにはならないと知っている声だった。




