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灰冠(はいかん)の大陸アルメリア  作者: たむ


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第六章 選択編 第1話 風が届く町

 帝都で何かが変わったらしい――その噂が辺境都市ミレスに届いたとき、人々はまず笑った。


 笑ったというより、うまく聞き取れなかった、という方が近い。王が決めない。王が命じない。王が答えを先に示さない。そんな話は、耳に入った途端に意味を失った。意味を持たないものは、笑うしかない。市場の秤屋は干した豆を袋に詰めながら鼻を鳴らし、革職人は小刀を研ぐ手を止めずに「帝都の連中は暇だ」と言い、井戸端の女たちは水桶の縁に肘をかけて「決めない王なんて、ただの怠け者じゃないか」と声を潜めもせず言った。


 ミレスは帝都から遠い。地図の上では一本の街道で繋がっていても、実際には幾つもの丘と乾いた河床と、盗賊の出る林と、冬に崩れる石橋を越えた先にある。帝都の理念はいつも、道中で泥をかぶり、形を変え、最後には別のものとして地方へ届く。届いた時には大抵、命令か増税か徴発だった。だから今回は、それがどれにも聞こえないことが人々をいっそう戸惑わせた。


 その日、ミレスの役所の前には朝から人だかりができていた。


 大きな布告板に新しい紙が貼られたからだ。紙はまだ新しく、四隅の蝋も乾ききっていない。文面は長くはなかった。王都からの通達を写したものだと役人は言ったが、読み上げる声はどこか頼りなく、聞く者たちは途中で顔を見合わせた。


「……ゆえに、各地の行政においては、従前のようにすべての案件を帝都の裁可に委ねるのではなく、土地の実情に即した判断を優先し――」


「優先し、なんだ?」


「最後まで読め、最後まで」


「つまり、どうするんだよ」


 布告の意味は、最後まで聞いてもなお曖昧だった。中央は今後、地方が自ら判断すべき案件を増やす。王都はすべてに即答しない。各地は記録を残し、後日報告せよ。乱暴に言ってしまえば、そういうことだった。


「丸投げじゃねえか」


 誰かがそう言って笑い、何人かが追随した。


 だが笑わなかった者もいる。布告板のすぐ前、影の薄い色の外套を着た若い男が、じっとその紙を見上げていた。地方行政官補佐、レオネル・サーヴィス。二十八歳。眼鏡をかけた痩せた男で、顔立ちは弱々しいのに、几帳面に整えた襟元だけがひどく神経質に見える。彼は人混みのざわめきを聞きながら、指先が少し冷えていくのを感じていた。


 布告の意味はわかった。わかってしまった。


 これは理念でも理想でもなく、実務だった。

 判断しろ、と書いてある。

 自分たちで。


「補佐官」


 後ろから呼ばれて振り返ると、役所の書記見習いの少年が青い顔をして立っていた。


「河川監督官がお呼びです。南堰の件で、至急」


 南堰。レオネルの喉がかすかに動いた。


 やはり来たか、と思う。春先の雪解けで上流の水量が増え、南の灌漑用水路を支える古い堰が、先週から危ないと報告されていた。すでに二度、帝都へ裁可申請の書簡は出している。補修には予備費の転用が必要で、その承認がなければ本来は手を出せない。だが返答は来ていない。例年なら苛立ちながらも待っただろう。中央が決める。それが秩序だった。


 けれど今日は違う。布告は今朝貼り出された。


 待つな、と紙は言っている。

 決めろ、と風のように言っている。


 役所へ戻る途中、レオネルは市街を横切った。朝の市場はいつもと同じように騒がしい。羊毛、乾果、塩魚、香草、錆びた鉄器。値段の駆け引きと荷車の軋み。けれど、彼の耳には妙に遠く聞こえた。自分ひとりだけが急な崖の縁に立たされ、周囲の人々はまだ平地にいるような気分だった。


 河川監督官の部屋には、既に三人がいた。監督官のダルス、会計吏のマイナ、工兵長のグレン。机の上には南堰の見取り図と、亀裂の位置を示す赤い線。グレンは木炭で囲った部分を太い指で叩いた。


「ここです。三日。持って四日」


「断言できるのか」ダルスが問う。


「断言はできん。崩れないかもしれん。だが崩れれば、南の畑は半分沈む。家畜小屋も流れる」


「補修費は」レオネルが聞く。


 マイナが帳面を開いたまま、顔をしかめた。


「予備費では足りません。穀物備蓄の購入予定分を削れば可能です。ただし初夏に冷え込みでも来れば、秋まで持ちません」


「帝都の返答は」


「来ていません」


 来ていない。

 当たり前のように返されたその言葉が、今日はまるで責任の扉を閉める鍵ではなく、逆に開ける取っ手のように思えた。


 部屋の空気は乾いていた。窓の外で風見鶏が鈍く回る音がする。


「中央の新しい布告は読んだな」ダルスが言った。彼の声には、老いた役人に特有の慎重さがあった。「あれをどう解釈する、補佐官」


 年長者たちは、さりげなく彼に言わせようとしていた。まだ正式な行政長官ではない。だが若く、字が読め、計算ができ、王都の文言にも慣れている。だから“解釈”を押しつけるのにちょうどいい。


 レオネルは机の上の地図を見た。南の農地、用水路、堰、小村。線と数字。だがその下に、人の暮らしがある。洪水に呑まれる納屋。削られる備蓄。飢えないための金。今日の判断は、どれを残してどれを危険に晒すかを選ぶことになる。


「……補修を優先すべきです」


 言った瞬間、心臓が一つ強く打った。


「根拠は?」マイナがすぐに聞く。


「堰が崩れた場合の被害が大きすぎます。備蓄不足はまだ先の危険だが、水害は近い。防げる破局を先に防ぐ」


「先の危険が現実になれば、飢えるのも人だぞ」


「わかっています」


「わかっていて言うのか」


「はい」


 自分の声が思いのほか静かで、レオネルはかえって怖くなった。言葉がもう自分から離れ、記録として残る未来を持ってしまったからだ。


 ダルスはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。


「では書け。地方判断として記録する。帝都への追送も出す」


 それだけだった。雷も落ちなければ、壁が崩れることもない。世界は変わらずに見える。けれどレオネルには、その一言のあと、自分の肩に見えない重量が乗ったのがはっきりわかった。


 部屋を出たとき、廊下の窓から風が吹き込んだ。紙束の端がめくれ、まだ乾ききらないインクの匂いが立つ。その匂いを嗅いだ瞬間、彼は奇妙な感覚に襲われた。今まで役所の紙は、どこか別の場所――帝都、王宮、遠い決定の場――から来るものだった。だがこれからは違う。この町で書かれた字が、この町の未来を変える。


 それは誇らしいことではなく、ただ恐ろしかった。


 夕方、居酒屋で布告の噂はさらに形を変えた。


「王が病だそうだ」

「いや、王女が政を握ってる」

「違う、帝都で貴族どもが争ってるから地方に押しつけたんだ」

「どうせ失敗したら、あとで地方のせいにするつもりさ」


 どの話も確証はないのに、どれも妙に人の気分には馴染んだ。真実より、納得できるかどうかの方が早く広がる。


 店の隅でその話を聞きながら、旅の途中らしい女が一人、薄く目を細めた。灰がかった青い外套、目立たない装い、旅塵を帯びたブーツ。年の頃は二十代半ば。彼女は杯に口をつけもせず、風に揺れる戸口の布だけを見ていた。


「変わると思うか」


 向かいに座る男が低く言った。長身で、剣を帯びているが傭兵には見えない。無駄口を嫌う顔立ちだった。


「もう変わってる」女は言った。「人は、わからないものを笑う。でも、本当に怖いものは、笑ったあとに来る」


「介入しないのか、アリア」


「まだ」


 彼女――アリアは、そう答えた。


 町はまだ、王の名を噂としてしか受け取っていない。

 だが噂の次に来るのは、いつも現実だ。


 風が届いた町は、まだその冷たさを知らない。

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