もう既に味はしなくなった
不穏な空だ。灰色の雲が空を覆っていた。雨はひっきりなしだった。自動車は速度を緩めやしなかった。踏み潰されたヤモリ。かろうじて手の形でわかった。こんな物騒な世界で、こんな物騒な場所で、どこに行こうとしていたのか。
なにしろ湿気ていた。息が詰まりそうだった。うんざりするような暑さではないのが、せめてもの救いだった。雨は絶えず降っていた。おれはその中を歩いていた。大丈夫。こんな気分はいまだけのことだ。大丈夫。こんなことはいままでだって何度もあった。繰り返し、繰り返し、同じようなことがひっきりなしに、寄せては引いて、また繰り返す。ひっくり返そうと試みたことだって、また何度もあった。無駄なことだ。事態は悪化するばかりだ。こんなもん、どうしようもありゃしない。どうにもこうにも。なりゃしないんだよ。
フランク・ザッパ、忌野清志郎、あとひとり有名な誰か。暇空をこの三人となぞらえたやつがいるらしい。頭が沸いているとしか言いようがない。だったらおれの方がよっぽどこの三人と近い位置にいるってもんだ。あとひとりが誰かは思い出せないのだが。
クソ野郎はただ黙っていればいい。害悪しかもたらさないのだから。認知の歪みきったチンピラナードに夢中になるようなやつは、もう手遅れだ。処置なしだ。悪意を撒き散らして、歪んだクズどもの親玉を気取っている見下げ果てたやつ。そんなのを持ち上げて祭り上げてどうしたいんだ。あんなのを褒めそやすのはハッキリと罪であると、なぜ自分で気づかないのだろうか。一発でわかるだろう。暇空が冗談抜きにやべえやつだってことくらい。それがまあまあ有名な会社の社長だって言うのだから、本当に終わっているね。ため息すら、もう出ないよ。とことんイカレてやがるぜ。おれに不愉快な思いをさせることだけは得意な連中。もうどうしてくれようか。
まあどうもしないが。愚かさが溢れているのはなにもいまに始まったことではない。ないのだが、何故こんなにも今は底抜けな気がしてしまうのだろう。アホがはしゃぐ時代。それは惨劇の前触れ。血がたくさん流れるだろう。たくさんの人間が死ぬだろう。そしてもう二度とこんなことは起こさないと誓うのだ。何度も、何度も、そう誓うのだった。繰り返し、繰り返し、だが、いよいよその繰り返しに耐えるだけの強度が人類には無くなってきているのではないか。力のエスカレーションに対抗できる精神は、ついに育まれることのないまま、その短い一生を終えようとしているのだった。あまりにも多くのものを巻き込みながら。
まったく迷惑な連中だ。誰も認めていやしないのに、求めていやしないのに、勝手にデカいツラしやがって、威張り散らして我が儘放題した挙げ句、仲間割れで自滅しやがった。救えない連中だよまったく。どうしてあんな連中が生まれてきたのだろう? 連中の役割はいったいなんだったのだろう? 神はいったいなにを考えておられたのだろう?
神はサイコロを振らない。ベロ出しちょんまはそう言ったが、おれの見立てでは、やっこさん、相当のサイコロキチガイだね。あんたがダイスロール判定に失敗し続けた結果、こんなんなりましたけど。もうすこし気合いを入れてサイコロを振ってほしいものである。
してほしいものである。こんな適当な文章の締め方をするやつに信頼を置いてはいけない。しかし、いったい何に信頼を置くべきなのか。こんな問題に頭を悩ませている自分の立場を思うと、悲しみの塊がまた喉元に突き上げてくるのだった。本当に独りぼっちなんだ。でもとどのつまりはここから抜け出すことができるだろう。おれは根拠無しの一縷の望みを失ってはいないのだ。
そろそろ貧困と窮迫を申し立て、借金でも申し込むか。返す当てなどありゃしないが、どうってことない、金なんてあるところにはあるもんだ。また金の話をしている。しょうがない、おれにはあの紙切れが必要なんだ。誰にだって必要なんだ。それなのに誰にでもあるってわけではないのが、おれは不思議で仕方がないよ。で、あるところにはあるのだろう。で、過剰に生産されて、余剰は廃棄されて、路上では少なくない人数が腹を空かせている。これはいったいどういうことなのだろう。なにがしたいのだろう。
迷宮入りのミステリー、有閑ミセスのヒステリー、迫害加害のヒストリー、ワン、ツー、スリー、ルック・アット・ミスタ・リー。
すべて忘れてしまえ、そう言うのか。都合の悪いことは無視してしまえ、と。そう簡単にいくわけがあるか。と思ったら、案外簡単にことが進んでしまいそうで、頭を抱えるきみとぼく。一方で腹を抱えて笑うブリーチャーズの愉快な面々。
連中、生きていて楽しそうだ。そりゃそうだ。地獄仕様に脳がカスタマイズされているのだから。楽しくてたまらんだろうよ。おかしくておかしくてしょうがないだろうよ。その嘆きも、その悲劇も、その歯ぎしりも、その地団駄も、ロープで吊され揺れる身体も、いとをかし。端的に言って、頭おかしい。
そして第三の警官が現れて、すべてはオムニアム、そう言って去っていった。
はあ、そんなものですかねえ。明らかに納得のいっていない様子の御仁、それはつまりは、おれだった。そりゃ総体を一言で表すのは気持ちの良いことに違いない。そしてきっとそれは正解なのだろうとも思う。だがそんなことをして何の意味があるのだろう。
おれ自身が総体の極々一部に過ぎないわけで、それはあんたも事情は変わらないわけで、極々極々一部の末端からの視点からのお話にだって、傾聴に値する部分はあると思うの。部分部分に目を凝らせば、語り尽くすには途方もなく長い話になることは必定。それをノーカットでお送りしたいと、つまりはそういうわけで?
そこまで大袈裟な話ではないの。ただ殿上人のように振る舞うのはおやめなさい、だっておまえはまるで冴えない一匹の猿じゃないか、そう言いたいだけ。おまえの視点、目線、立場、それはなんだ、なんなんだ。おれとどんな違いがあると言うんだ。違いがあるのなら教えてくれよ。懇切丁寧に教えてくれよ。心を込めて教えてくれよ。おれを再教育してくれよ。できるものならやってみろよ。ただ、そう言いたいだけなのでした。
それからまた、日々は移ろい、虚ろの穴の中に不要なものがどんどんと投げ込まれていきました。虚ろの穴が一杯になるには、まだまだ気の遠くなるような時間が必要です。その日その時まで、ぼくたちは存在し続けることはできるでしょうか。
それは無理ね。死の貴婦人が、なにを馬鹿なことを、とでも言うように言いました。もう少しだけでも、ぼくたちに気を遣った話し方をしてもいいのではないのでしょうか。
それも無理ね。と、死の貴婦人はとりつく島もありませんでした。ぴっちぴちのタイトスカート、てっかてかのロングブーツ、その中身のおみ足はきっと、むっれむれに違いないのです。なにもこんな季節にそんな通気性の悪そうなロングブーツを履かなくとも……。そう言いかけましたがやめました。では代わりになにを履くのか。サンダルでは格好つかないし、スタンスミスなどを履かれても興ざめもいいところ。ダンクのようなごっついスニーカーを履いている死の貴婦人も、ありと言えばありだが、その場合は貴婦人の看板を下ろした方がよさそうだ。
虚ろの穴の淵、そこにしゃがみ込みんで、おれは死の貴婦人としばしの歓談を楽しんだのだった。また会えますか。そう尋ねると、死の貴婦人は攻撃的に笑い、もちろんよ。そう答えた。
おれはいまからその時が楽しみでたまらない。




