オリジナリティ・シンギュラリティ
世の中に流通しているものの殆どはトリップするためには作られていない。トリッピーなものは徹底的に日陰に追いやられ、ちゃかちゃかせこせこしたものが市場には溢れることになる。即効性はあるが奥深くまでは決して入り込んでこない、まるでヒロポンのような底の浅いものだけが大手を振って迎え入れられる。それはなぜか。トリップは金にならないからだ。トリッパーは金を稼ごうともしないし、金を使おうともしない。クソ! 金、金、金。ぜんぶ金だ。
そりゃまあ、おれだって金について真剣に考えてみたりすることもあるにはある。つまりは、おれがおれとして生きるためには、これからいくらの金が入り用なのだろうか。そのようなことを考えてみることがある。でもそれだけだ。考えてみることがあるということだけ。考えたって何もなりゃしない。だっておれは何もしないのだから。それよりも、やっぱりトリップしていたい。
トリッピーな音、文章、セックス、その他諸々がごく稀に誘発してくる、痺れに近い、スローなハイスピード。あからさまに言ってしまうと、マリファナを吸った後みたいな……肺一杯に煙を溜めるだけ溜めて、涙が出るほど窒息しそうなほど煙で身体を一杯にして、煙を身体の中で転がして、それで思いっきり放出した後のような、そんな感じ。ハイなのかローなのか、ローなのかロウなのか、ロウというよりもラウ、そんな感じ。トリッピーなものと付き合っていると、煙なしでそういった状態になれることがある、おれはそう言いたいだけだから、眉をひそめたりはしないでほしい。おれだってマリファナが合法だったら、毎日吸うさ。吸いまくってやるさ。だけどそうではないし、そうなりそうもないから、代替品としてトリッピーなものを探し続けているってわけ。
でも最近のこの国は、みんなシャブでもやっているのではないか? そんな勘ぐりをしてしまうくらいパキパキなやつらばかりだ。勘違いされがちだけど、パキパキとトリップはまったく違う。戦争と平和くらい違う。でもいつだって両立している。いつだって地球上のどこかはパキパキで、地球上のどこかはトリップ状態にある。この国はいまパキパキ状態に入ったってことか。いや、もしくは世界の大半が? いやん、もう勘弁してほしい。
トリッピーという言葉で思い起こすのは、家出のドリッピー……結局あれはどんな物語だったのだろう? シドニイ・シェルダン。時代を感じる名前だ。皆が皆、ゲームの達人を目指していた頃の話だ。もしおれがゲームの達人が書棚に収まっているような家庭に生まれていたとしたら、おれの人生もまったく違ったものになっていたのだろうか。まったく違ったものの考え方、まったく違った好み、まったく違う質の冗談を言う。それってもう別人だ。そういうことを親ガチャという言葉で表しているのだろうか。だとしたらおれは当たりを引いたってことか? んなわきゃないだろう。
というかガチャに外れたってため息つくのなら、そんなの納得できないと言うのなら、社会主義、共産主義でも目指していればいいじゃないか。でもそうじゃないんだろう。結局は自分さえ当たりを引ければそれでいいってのか? 見下したいのか? 見下されたくないのか? どっちなんだ? どっちでもいいか。そりゃそうだ。本当にそうなのか?
確かに見下すに値する人間はいる。いまくりだね。飲み下したくない汚らわしいものを、驚くほど簡単に飲み下してしまう人間たち。疑問も持たず、吐き出しもせず。一片の躊躇もなく。悠長なことを言っている場合ではないって、必死になって失神寸前で、実質賃金の低下に嘆きながらもゲームの達人に成り上がるチャンスをうかがう。隣人は疑うために存在している。狂いに狂った新陳代謝の中でだって、元気いっぱいに挨拶さえしていれば、いつかはきみも見下す側に回れる未来が待っているんだってよ。そりゃいいな。おれも言ってみようかな。おはようございます! お疲れ様です! のろまな皆さん、お先に失礼します!
AIに駆逐されるような創作連中はさっさと退場すればいい。それってすごく素敵なことじゃないか。いったいなにを騒ぐことがある? そもそもが創作って食えないものだ。食えなくて当たり前。音楽だろうが小説だろうがなんだろうが、そいつを金に換えてやろうって魂胆がまるっきり狂っているってことを理解した方がいい。
AIは適切に運用すれば、人類の福音になり得ますよ? 多くの苦しみからおれたちを解放してくれる可能性がありますよ? 本当に人間がやらなければいけない仕事以外はAI任せで良くないっすか? 創作だって凡庸なものはAIに生成してもらえば良くないっすか? そういうのが好きな連中はただ餌を与え続けていればハッピーなんだろう。餌を作るプロセスなんて食う側にとっちゃ関係ないだろう。AIが一瞬で作れる餌を別にわざわざ人力で作る必要はないでしょう。おれだって毎日文章を書いているけど、コンピューターがあるからできるだけで、こんなことわざわざ手書きでやりたくはないって。
で、こういうのが生身の身体感覚を伴う感情なわけで、このあたりをAIが芯から理解するのはまだまだ時間が掛かりそうだから、そっちの方は我々人間が担うと。AI様のサポートに回らせていただくと。もうそれくらいしか、おれたちの価値ってないだろう。このままAIが進化を続けていくのならば。
まあおれが言いたいのは、凡庸な作者の出番はもうなくなりつつあるってことだ。でもそれが心から好きでやめたくないのなら、勝手にやり続けていればいいじゃんってだけで。作者のモチベーションが下がってしまうとか、文句にもなってない文句を言うなって。著作権が云々とかもそうだよね。もう古いんだよね、そういう考えが。プロが作ろうがアマチュアが作ろうが、どうせ似たようなものばかりなんだから。枝葉の違いだけでケチくさいことをギャーギャー抜かすなってことよ。
それでもまあ、あと10年、20年くらいは凡庸の寿命はあるんじゃない? 知らんけど。って、本当に誰も知らないからね。これからどうなってゆくのか。おれだってもちろんAIの知識なんてまったくないですよ。触ったこともないし。知識も経験もまったくないのにこれだけ偉そうに述べることができるのが、おれっていう人間の素敵なところだということをなかなか理解されないのは悲しいことだけれども、それでもそうだな、こうして今日も書き続けているわけだ。
書き続けているわけだが、今日はちょっとチューニングを失敗してしまった。これじゃマジの独り言おじさんだ。しまっちゃうおじさん。あれこそが恐怖だよ。なんでもしまわれてしまうのは、おれのような混沌の中で生きている人間にとっては、恐怖以外のなにものでもないのだった。
でも、しまわれてしまうんだよ。気づいたときには、安っぽいカラーボックスの中にぶち込まれていたりするんだ。勝手に脳の中をいじくり回されたような気分になってしまうね。まあそれが共同生活ってことで納得するしかないのだけど、それにしたって勝手な判断でしまいすぎだろう、そう異議を申し立てたいけど、しまわないことは悪だという価値観は覆りそうもないのだった。これは怠慢ゆえに散らかしているのではなく、アクセスしやすいように整理されている状態なのだ、そう真剣に訴えたって聞く耳持っちゃくれないのだった。なにかが間違っているとしか思えない。




