黄金の夜明け
深く腰を掛ける。ため息を吐く。首に掛けたタオルで顔の汗を拭く。風呂上がりの暑くて不快な夜。ひとくち水を飲む。天井をしばらく見上げて、それからこいつに取り掛かった。落ち着きのない空っぽの頭で考えるフリをする。本気で考えるべきことなんてない。それでも、空っぽ頭のままでは何も進んで行きやしない。ずいぶん長いこと、おれはこうしているみたいだ。
誰であれ、なんであれ、おれは自分の生き方を妙なふうにいじくりまわしてほしくはなかった。おれが何者であったとしても、なかったとしても、余計なことに煩わされたりすることなく、ずっと穴の中に閉じこもったままでいい。動じたくないし、崩されたくない。最初からそうだった。スケジュール帳など持ったことはないし、なにかをメモするといったこともしたことがない。だいいち、メモするほどのことがどこにあると言うのか。自分の中から出てきたものでも、誰かが言っていたことでも、なんでもだ。メモ帳とペンを持ち歩くやつは馬鹿だ。なにもかもに価値があると思ってしまっている。なにもかもを余さずに使い倒してやろうとしている。欲張りなやつらだ。すぐに写真を撮りたがるやつ、メモを取りたがるやつ。おれは大嫌いだ。
さあ、一気に終わらせてしまおう。こんなことに大した時間を掛けてちゃいけない。なにより大事な睡眠時間が削られちまう。そうだよ、おれは寝ぼけ野郎だ。まったくお笑いぐさだ。おれが7時間も眠りたいと心から願っているなんて。こんなに眠たいものだったのだろうか。悪夢のような夜明けと共に、おれの時計が動き始める。驚きだ。早起きの連中がこんなに沢山いるなんて。なんて眠たいことだらけだろう。あくびしたその場所で、誰かが昨夜も泣いていた。
辿る道、交わる道、逸れる道、回る道。どんなルートを選ぼうと、結局はここに来てしまう。大それたことなど出来やしない。おれの肩に、重く何かがのし掛かる。きっと大したものじゃない。はね除けようとすれば、余裕ではね除けることができるような代物だ。いつだって逃げ道は確保してある。逃げる準備だって怠っちゃいないさ。逃げ道の先に何があるのかはわからないが、なに、それだってきっと大したことじゃない。おれがひとり生きる隙間などは至るところにある。よくわからない壁の窪み、建物のひび割れ、使われていない屋根裏部屋……どんな場所にだって潜り込んで、くつろいで見せよう。馬鹿みたいに高いワインをどこからかくすねてきて、一晩で一本飲み干してしまおう。
おれは道に迷ったことなどはない。どんなルートを選ぼうと、結局はここに辿り着いている自信があるんだ。迷うくらいなら道を選ぶ。その方が物事は早く進む。おれはさっさと先に進めてしまいたいんだ。おれには答えを待っている暇などありゃしないんだ。
いつまでも生きているのは間違いだ。長く生きれば生きるほど、どんどん差が開いてゆく。おれと他人との差。おれがぶっちぎっているのか、それとも周回遅れしているのか、どっちなのかはよくわからないと言うことにしておくが、おれには人間という連中の殆どが恐ろしく単純に見える。やっていることはとてつもなく複雑なのにだ。手続きやら、報告やら、調査やら、試験やら。そんなしち面倒なことは軽々とこなしてしまうくせに、話してみるとなんとも素直で空っぽで拍子抜けしてしまう。信じ込んでしまっているんだ。おれがどうしても信じられないでいることを。人間社会というやつがまともに回っているということを。
羨ましいとは思わない。楽しそうだとも思わない。なんとも思わない。ただ、おれが引き籠もっている間に、挽回できないほどの差がついてしまったというだけだ。
おれは勘違いをしているだろうか。おれは思い上がっているのだろうか。おれはそうは思わない。なんとも思わない。静かなもんだ。迷惑を掛けることもなく、嫌がらせをするでもなく、結局はどいつもこいつも自分のことしか考えていない。自分が安全圏の中に居続けられるのなら、一切なにも問題はない。本気でそう思い込んでいる。狂っている。誰も彼もが狂っている。おれはまともだ。おれがまともなんだ。そう考えるしかないじゃないか。だって、おれはおれなんだもの。
昨夜に誰かが泣いていたのは、涙の跡でよくわかった。ぽつぽつと刻まれた涙の跡は涙を誘う。だが、おれは泣きはしなかった。朝っぱらから気分が暗くなっただけだった。おれがしてやれることなど何もない。その事実が、おれの肩にのし掛かっていたんだ。
それで、おれは今日の仕事を休むことにした。しばらくその辺をぷらぷら歩いた。今日はそこまで暑くない気がする。それでも気づくと汗が額をつたっていた。ヴェローチェに入って、二階席に直行した。もちろん、コーヒーは頼んだよ。煙草を吸いまくった。ヴェローチェはいまだに煙草が吸えるから好きだ。煙草の吸えない喫茶店に用はない。
タールとニコチンに塗れている間に武器屋の開店時間が迫ってきたので、ヴェローチェを出て裏門通りを進んだ。外は空気が美味い。煙草の煙の中にずっといるのは喫煙者でも結構辛いんだ。それだけは知っておいてほしい。おれたちだって人間だよ。みんなが嫌なものはおれたちだって嫌なんだよ。おれは分煙社会を歓迎している。今までがマジで異常だった。おもねっているわけではない。本当にそう思っています。
「なんだ、客か」
片目に眼帯をした武器屋のオヤジが、おれをじろりと睨んで言った。ものすごい腕だ。おれの太腿くらいある。でも背は小さい。髭を数本の三つ編みに結ってある。洋ゲーのドワーフって感じだ。
「おれはPOWはそこまででもない。SPDもあんまり。DEXはどうだろう、人よりはあるかもしれない。INTは数字上は無いに等しいが、おれ自身ではちょっとあると思っている。VITは今は底だが、少しの鍛錬で平均以上にはなる。LUKは自信あるね」
「で?」オヤジが面倒そうに言った。
「そんなおれに合う武器をアンタに見繕って欲しい。好みはハンマーとかの鈍器なんだけど、やっぱりPOWが足りないかな」
「あんたが扱える鈍器だったら」オヤジがおれを上から下まで見ながら言った。「こんなもんだろう」
「フライパン?」
「そうだ」
「冗談だろう?」
「本気だ」
「そんなもん、イトーヨーカドーにだって売ってるじゃねえか! なんで武器屋で調理器具を買わなきゃいけねえんだよ」
「最初はみんなそんなもんだぜ。それにこいつはおれが打ったフライパンだ。結構、硬いぜ」
「でも、格好悪いよ」
「最初はみんなそんなもんだぜ」
「じゃあ、刃物だったら?」
「刃物ねぇ……」オヤジがおれを上から下まで見ながら言った。「止めとけ。刃物は手入れも難しいし、素人が使うとすぐに使い物にならなくなるぜ。あんた、刃研げるのかい」
「いいや」
「それじゃ、止めとけ」
「じゃあよ、飛び道具とかないのかよ。弓とかボウガンとかスリングショットとか」おれは食い下がった。
「経験は?」
「なんの?」
「無理だな」
「まあ、確かにおれもそんな気がするよ。でもフライパンじゃな……」
「兄ちゃん、なんでウチの武器が欲しいんだ」
「いや、ちょっと旅に出ようと思って。二度と戻らない旅によ」
「動機は?」
「動機? そりゃアレだよ。絶望と虚無ってやつだよ」
「なるほどね……ちょっと待ってろ」オヤジははじめて少し笑顔を見せて、奥の方に積んである段ボール箱をゴソゴソやり始めた。「こいつなんてどうだ」
「おお、モーニングスター!」
「ウチではモルゲンシュテルン呼びだがな。明けの明星……旅立ちにはぴったりじゃないか、なんとなくな」
「これ幾ら?」
「五万でいいよ」
「よし、買った!」
と言うわけで、おれは旅に出ることにした。もう帰ってくるつもりはない。どこかで野垂れ死ぬに違いないが、戦う姿勢は右手のモルゲンシュテルンにしっかり表れているだろう。あんまりおれを舐めない方がいい。こいつで引っ叩かれたら痛いじゃ済まないぜ。
おれはもう飽きた。すべてにうんざりなんだ。最後くらいはメチャクチャやってやろうと思っている。でも、いいアイディアが思いつかない。ま、なんとかなるでしょう。これまでだってなんとかなってきた。これからもそうだ。たぶん。きっと。おそらく。じゃあな、あばよ。




