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9/12

9 逢

 あの日夫はこの国の西の外れに出張しており、事前に一週間ほど家を離れると聞かされたはずだ。

 夫は妻のすべてを信じられないので、よもやと思いつつその期間、妻の浮気を心配している。

 もっとも単に従者ナンバーワンに妻の監視を命じただけだが、もちろんヤーウェイアウンは夫の命令に忠実に従う。

 わたしたち非夫婦の白い家に若いナルセが偶然現れたのはその期間のことで、彼との出会いには一つの小さなエピソードが伴う。

 そのエピソードがなければ、わたしは彼を家の応接間に上げることはなかっただろうし、またその後の展開もなかったはずだ。

 そのときまで自分が何をしていたが想い出せないが、不意に家の外に人の気配を感じ、わたしが応接間の椅子から席を立ち、玄関に向かう。

 そのままドアを開けて辺りを窺う。

 あれはまだ朝のうちだったはずだが、あの国の太陽の耀きはいつでもわたしの意識を飛ばしてしまう。

 ……にも関わらず、わたしがナルセの接近に気づいたことに意味はあったのか。

 一週間後の夜に起こったまた別の偶然の伏線とも、わたしには思えないのだが……。

「何か御用ですか……」

 と白い家に見惚れるナルセに向かい、わたしは無意識に言ったかもしれない。

「いや、用はないのですが、きれいな家ですね」

 とナルセがそれに応えたかもしれない。

 あのときヤーウェイアウンが家の敷地内の何処にいたのか知らないが、いずれにせよ身を潜めるでもなく身を潜め、持ち前の無表情でわたしの動向を探りながら、内心では絶好のチャンスだと思っていたのは間違いない。

 わたしを夫から永遠に引き離す絶好のチャンスだ。

 もちろんその考えは当時を振り返ったわたしが下したものだ

 あのときわたしは、そんなことを考えていない。

 いや、それ以上に思いつきもしない。

 わたしにとってあの国にいた殆どの期間は曖昧でとりとめがなく、時間さえ直線的に進んで感じられたかどうか。

 雨季以外には尽きることのない太陽の耀きも日々わたしの意識を飛ばす役に立つのみだ。

 自分があって自分がない。

 あるいは自分がなくて曖昧で不確かな非在だけを感じるというか。

 形ははっきりしないけれども、どこかわたしに似たような非在。

 わたしは自分の結婚を通じ、最初から最後まで夫を嫌っていたが、あの時期夫がいなければ、またわたしもいないことに気づいていない。

 それ以前の自分にとって、母がいなければ、自分がいなかったのと同様に……。

 自らの意志など殆ど遺されていなかったのだろう。

 それが当時のわたしの正確な姿。

 言葉は喋るし、問われれば応じるが、ただそれだけのこと。

 鸚鵡返しでなければ、嘗て何処かで使った言葉を無意識の内に探し出して返答するか、毀れるか。

 ときには正気に戻ってほぼ完全に自分を取り戻すも、それがどんな自分なのかと問うてまた毀れる。

 その繰り返し。

 自分がいなくなる、あるいはわからなくなるとは、当時のわたしにとってそういうことだ。

 だからわたしがナルセを、あるいは他の誰かの存在を感じることなど、本来ならば有り得なかったはずなのだが……。

 しかし――

 わたしが瞬きを一回する間にナルセが数歩前進する。

 それは、どうやらわたしが知らない非在のわたしがナルセと会話をした結果のようだ。

 それでもう一度瞬きをするとまた近づく。

 更にもう一度瞬きをするとまた近づく。

 その繰り返しが数回続き、ナルセがタマリンドの木を映す池にかかった橋を渡り、玄関まで数メートルの位置に近づいている。

 手を伸ばせば届くほどではないが、それに極めて近いような距離感。

 わたしがそれを認識する。

 そしてわたしもまた玄関に続く数段の階段を降りている。

 未だ地面には達しないが、すぐそこだ。

 風にでも飛ばされたのか、木の枝が無造作に転がっている。

 見ず知らずの客人のため、非在のわたしがそれを取り払おうと手を伸ばすと、

 赤い舌/素早い動き/シャアと聞こえる威嚇の声……。

「危ない」

 木の枝に取り付いた一匹の蛇が驚き、ついでわたしに向かってジャンプする。

 それをナルセが素手で払う。

 土地の暑さゆえ、端から闘う気力のない蛇が全速力でその場から去り、橋の途中から池にスルリと落ちる。

 もちろん溺れるわけはなく、優雅に泳ぐ。

 数十秒前の出来事を忘れたように……。

 いや、それ以前に何事も起こらなかったかのように……。

 既に蛇にはわたしを襲った記憶がない。

 だから無心に己の状況に対処する。

 わたしへの威嚇をナルセに阻まれ池に逃げた蛇がわたしよりも幸せだと言う気はないが、記憶喪失が生涯続くことは至福だろう。

 気づくと、あのときにはまだ名前を知らないナルセが腕から血を流している。

 蛇の牙が傷つけたのだろうが、細く糸を引くように……。

「まあ大変、お怪我をされてしまって……」

 あのとき、わたしは本当にそう言ったのか。

 それとも只の記憶違い。

「ヤーウェイアウン、いるんでしょ。早く出て来て、この人の手当をしてちょうだい」

「いえ、わたしは大丈夫ですから……」

 ナルセとわたしの押し問答が暫く続き、やがてヤーウェイアウンが庭から顔を覗かせる。

 ナルセの右腕の治療は家の応接室で行われる。

 軟膏を塗って包帯を巻き、すぐにヤーウェイアウンがその場を去る。

 それからナセルとわたしが会話する。

 初めは英語だったが、二人して思い出したように懐かしい日本語に移行すると、わたしの心が過去に戻る。

 その日、ナルセは二時間近く家にいたはずだ。

 約束はしなかったが、翌日も家を訪ねてくれる。

 その翌日も家を訪ね、わたしが、

「お仕事はどうしているの」

 と尋ねると曖昧に答をはぐらかす。

 そしてその次の日からは早朝と夜にやってきて、それぞれ一時間くらいずつお茶を飲みながら会話をする。

 ナルセの訪問は夫が家に帰るまで絶えることなく続き、夫が家に帰る予定の前日、わたしが見た夢に魔が現れる。

「殺せばいい。それが一番簡単な方法」

 魔がわたしにそう言い、優しく微笑む姿をわたしが見る。


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