第二章 その9
五、六限は音楽だった。これほど鑑賞に堪えない交響曲一番はない、と思って、外を眺めていた。近くの小学校のグラウンドが見えた。小学生くらいの子供たちが、キャッチボールを楽しんでいた。
(すっかり日が落ちるのが早くなったな……)
白野は、指を折って、残りの月日を計算した。
授業の終わりを告げるチャイムが響いた。白野は、久しぶりに図書館に寄ろうと思った。
時期が時期だけに、一部の受験生は、快適な図書館を勉強の場にあてていた。白野を散々に語る生徒たちの一部も、嘗て瀬川と初めて会った書庫の机を占領していた。
「あら、川奈さん。生憎ですが、ここは使えませんよ。私たちのグループが使うことになっていますので」
生徒の言葉を無視して、白野は、文学書が置かれたスペースに向かった。黒一色の帯に覆われた本は、既に埃を被っていた。
「川奈さん、聞いていらっしゃいますか」
白野は、全集の一冊を手に取った。ジッドの、狭き門が収められていた。
「川奈さん、川奈さん」
白野は、にやり、と笑って、生徒の方を振り向いた。
「狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おおし……」
「何ですって」
生徒は顔をしかめて聞き返した。白野は、再び笑って本を手渡した。
「一度くらい読んだ方がいいわ。興味が無いのなら戻しておいて」
白野は、きょとんとした生徒たちをあとに、部屋を去った。白野は、懐からカレンダーを取り出した。細やかな笑みを浮かべて、カウンターに向かった。嘗て、数度見かけたことのある図書委員が、椅子に腰かけて、何か分厚めの本を丹念に読んでいた。
白野は、近くの本棚に置かれていた参考書を取った。一年前に購入し、とっくに学習し終えた、薄っぺらい文法書だった。
「これを借りたいのですが」
「分かりました。お待ちください」
事務的なやり取りの間に、感情は籠らなかった。貸出カードにサインした白野は、軽くお辞儀をして図書館をあとにした。
日は既に傾き始めていた。忙しそうな父を慮って、迎えはなしにしてもらったので、普通の生徒と同じく、歩くことになった。街道を埋め尽くす木々は、すっかり紅や、黄に染まり、吹き抜ける風が幾分肌に痛かった。
(もうすぐ、高校生活が終わり、受験が始まる。結局のところ、何も出来なかったな)
側溝は、たくさんの落ち葉で埋め尽くされていた。一葉を取った。最期まで傷つくことなく、これもちょっとした運命なのかもしれないと思った。
「白野ちゃんなの?」
聴き慣れた声だった。木の陰から現れたのは、普段着の小田原だった。
「小田原さん……」
白野は、一葉を元あった場所に戻して、小田原の元に寄った。
「綺麗、ですね」
「本当に、そうね……」
白野は、小田原の手を取って、強く握りしめた。
「白野ちゃん、どうしたの」
これまで幾度となく、白野の心中を察してきた小田原であったが、今回ばかりは、突然の成り行きで、頭が追い付かなかった。それでも、大切な人を慈しむような白野の目を見ている内に、決心がついた。
「人が見てるわよ」
小田原は、今夜、全てが終わるかもしれないと思った。募り募る感情を抑えられない恐怖と、妙な高揚感が胸を締め付けた。
「別に、いいんです」
「よくないでしょう、学校の生徒に見られたら恥ずかしいでしょう」
「ねえ、小田原さん」
白野は、小田原の口を遮った。
「暗闇に堕ちた天使を救う光になって頂けませんか」
小田原は、白野の瞼を伝う涙を手で拭った。
(白野ちゃんを守れるのなら、喜んで闇に堕ちよう)
小田原は、羽織っていたコートを脱いで、白野に着させた。既に太陽は沈みかけ、車のテールライトが、二人を眩しく照らすようになった。漆黒を纏った空に散りばめられた星々が、薄雲から時折顔を覗かせる望月を望むように、踊り始めた。




