第二章 その2
校舎から少し離れた小高い丘にそびえ立つ聖堂は、生徒のみならず、地元のカソリック教徒の集いの場になっていた。熱心に祈り続ける信者がいる一方で、大方は、イギリス様式の茶会で雑談を繰り広げるおばさまたちのコミュニティーに成り下がっていた。洗礼を受けたのが数十年も前で、宗教儀式がいつからか形骸化していた。
(パンを食べられない子供を一人救うことよりも、肥え太った金持ちを殺す方がよっぽど簡単かもしれない……)
(天使の歌声が幾重にも重なって、良心の琴線を揺らす。神様がいらっしゃったのだと、一時心を弾ます。カンタータの響き、フーガの響き、ミサの響き。全てを細かく暗記することが出来る。全てを完璧に忘れることが出来る)
白野は、高齢の女性の力でも十分開けられるほど軽い扉を開け、中に入った。おばさまたちの笑いならまだしも、級友の馬鹿げた生徒たちがカンタータの練習をしているのを見て、足を止めた。
「川奈さん……。何をされに来たのかしら」
「私たちの練習を見に来たの。生憎、忙しいから相手をする暇はないの」
白野は、生徒たちの会話が耳に入らなった。聖堂の天井に記されたキリストをただ見ていた。
(マリア様が濁って見える)
白野は、苦笑いを浮かべて、木製の階段を一段ずつ昇り始めた。
(今の私は、一秒後の私と同じなのだろうか)
木々の軋む音が微かに響いた。
(この腐りかけているかもしれない木が、一秒後に折れて死ぬかもしれない)
最上段に到着した。生徒は元より、昼の余暇を楽しむ人々も、白野と、パイプオルガンのほうを興味深く見守っていた。
「何が始まるのかしら」
生徒の一人が呟いた。
「まさか、弾けないでしょう」
別の生徒がそう呟いて、自分なら、トッカータとフーガぐらいは弾けると周囲に自慢した。
白野は、鍵盤の前に指を置いた。目を閉じた。古びた金属の冷たさがはっきり感じられた。
(オルガン曲は、バロックを中心に作られた。当時の演奏者、あるいは、教会に通う信者たちの心意気に近づければ、それでいい)
白野は、もう一度目を閉じた。深呼吸を二回して、Dの鍵盤を強く叩いた。ピアノが奏でるそれとは大層違うことに、誰よりも驚いていた。
「あれは……。深淵な、レの響きね」
生徒が言った。パイプ全体に、数秒間伝わった。
(538番は、フーガの中でも、スピードが速い方だ。時に息苦しさを感じる)
白野は、若干のミスを犯しながらも、演奏を続けた。十分の演奏自体は、ショパンなり、リストなりの曲を練習していく内に慣れたものだったが、オルガンは全く別物だった。上手に演奏できた心地がしなかった。奏でる旋律は、全て乱れていて、聴くに堪えない、途中で止めてしまいたくなるほど打ちのめされた。
(単なる出来心だから、多めに見てください……)
白野は、改めてオルガンを見渡した。身体が一本一本のパイプと同期していたのだ、と思った。
「白野お姉さま……」
瀬川が聖堂に着いたのは、ちょうど曲の中盤あたりだった。




