道化と魔女
小さな六畳程の部屋で、古びた丸椅子に座りながら麗子は自己嫌悪に陥っていた。
ベッドと椅子以外には何も置かれていない、窓すらないその部屋で電球の光に照らされた彼女の顔には、悲痛な表情が浮かんでいる。
麗子はジョーカーなる手合の策に嵌り、この部屋に軟禁されていた。
得意の転移魔術で脱出しようにも、麗子のいる部屋を含む高木教会の敷地全体を覆う特殊な結界により麗子は一切の魔術を封じられていた。
さらに、何かの拍子で結界が解除された時の為の対策なのか魔力の流れを狂わせる奇妙な鍵付きの鎖で彼女は床に繋がれていた。
恐らく欧州方面で稀に発見される魔力を帯びた鉱石が含まれるのだろうと彼女はその鎖について分析していた。
魔術を使う為には術を動かす為の動力となる魔力を丁寧にコントロールしなくてはならいのが、体の近くに自分のモノとは関係ない魔力が存在する……例えば他の術者が密着するほど近くに居て魔力を放出したりすると、魔力同士の干渉が起きて術を発動することが困難となってしまう。
そのため、もし結界が解かれたとしても物理的に鎖に繋がれた状態から脱出する為には鎖を物理的に破壊するしかないのだが、それも麗子にはハードルが高かった。
「フッ……日頃偉そうなことを言っておきながらこのザマか……」
彼女は自嘲気味に口の端を吊り上げた。
自らの置かれた状況を客観的に見れているが故に、彼女は自分の迂闊さを恥じていた。
ただ、彼女が何よりも恥すべきだと考えているのは、自分の迂闊さではなく、部下達が危険に晒されていると教えられてなお、目的の為の自己保身を選んでしまう自分の醜さだった。
麗子の魔術……というより、魔術そのものを封じている結界は、特殊であるが故に結界内で《 魔術的な現象 》を行使する方法は幾つか存在している。
麗子はその事を知っていて、かつこの部屋を抜け出す為の手段も持ちえていた。
だが、彼女はそれを使うという選択に踏み切ることが出来なかった。
彼女を嵌めた相手……ジョーカーと名乗る黒いフード付きマントの男が言っていたことが頭の片隅で引っかかっていたのだ。
『ここ、近くに対魔課の支部があるんですよぉ』
そのセリフがブラフであると断じることは麗子には難しかった。
──もしも、ジョーカーの言葉が本当なら
──もしも、正体がバレてしまったら
──もしも、奴らに辿り着けなくなってしまったら
そう考える度に麗子の中から、体を動かすための、意思の力の様なモノが抜け出てしまっているようだった。
現時点で麗子は自身の命が危険に晒されているとは考えていなかった。
もっと言えば、自分の生命が脅かされるまで彼女は奥の手を出す気になれないのだ。
今、対魔課や魔術協会に目をつけられる様なことになれば、麗子は身動きが取れなくなってしまう。
それを彼女は何より危惧している。
ただ、麗子としては実際のところ命すら惜しくないと思っている。
とある目的さえ達成出来れば他人も自身もどうなっても良いと思っている……いや、いたのだ。
しかし、彼女自身信じられないことに、現在の麗子には変化が起きた。
それ故に彼女は苦悩していた。
「……私は、なにも変わっていない。何よりも自分が大切で……契約が無ければ他者と関わることが出来ない、性根のねじ曲がった存在だ……」
額に手を当て弱々しく笑いながら彼女はそう呟いた。
精神状態が最悪に近いことは彼女自身、自覚していたが、このまま無為に時間を使うのは自分で自分の首を締めるようなものだということも理解していた。
麗子は深呼吸をして気持ちを入れ替えようと試みた。
しかし、まるで狙ったかの様なタイミングで、カチャっという扉の施錠が外される音が響く。
身構えた彼女の視界に映ったのは、光を吸い込む真っ黒なマントを纏った人物だった。
「何の用だジョーカー」
「アハハァ……思ったより元気そうですねぇ?」
魔術が使えない状況だというのに、ジョーカーの声は電子音声の様な響きのままだった。
どうやら、わざわざボイスチェンジャーの様なモノを仕込んでいるようだが、フードの奥には闇が広がるばかりで麗子には実物を確認することは出来なかった。
そもそも、あのフードの中に人が入っているのかどうかすら麗子は疑っていたが。
「御託はいい。とっとと用件を言え」
苛立ちを隠さない麗子に対し、ジョーカーは大袈裟に肩を竦めて見せた。
「連れないですねぇ……まあ、良いでしょう。私としても早く仕事を済ませたいですからねぇ。それで考えて頂けましたか?」
「……貴様と手を組め、というふざけた提案か」
「ですですぅ。悪い話じゃないですよぉ? 私は貴方のご両親を利用した相手を知っていますしぃ、そいつらを潰すために動いてますからぁ」
相変わらずフードの中を見通すことが出来なかったが、麗子にはジョーカーが感情を逆撫でする様な笑みを浮かべているであろうことが容易に想像出来た。
眉間に皺を寄せ、貫くような視線を相手に浴びせながら麗子は言った。
「……そもそもお前の様な奴を信用できると思うか? こんなところに閉じ込める真似までされて」
「仕方ないじゃないですかぁ。こうでもしないと鎖間那さん私とお話してくれなかったですよねぇ? それにぃ、ココの人達にも貴女の正体はバラしてませんしぃ、ただ閉じ込めているだけで直接危害を加えたりもしてないじゃあないですかぁ」
ヌルりとした口調を崩さないジョーカーにますますイライラしながらも、麗子はどうにか感情をコントロールしつつ言葉を続ける。
「……確かにお前は私に危害を加えるつもりは無いのかもな。だが、貴様は私の部下を危険な目に合わせている」
「だからぁ、それも仕方ない事なんですってぇ。私はどうしても貴女を貴女が納得する形で連れ帰らないといけないんですよぉ。貴女の手駒に無血の鬼をけしかけたのはぁ、交渉の手札を増やすためなんですってばぁ」
手駒、の部分に苛立ちを覚えたものの、麗子はどうにか感情のコントロールに成功した。
彼女は声のトーンを変えることなく呟いた。
「……それが本当の話かどうかも疑わしいがな」
「本当に信用ないですねぇ……じゃあ仕方ないから証拠をお見せしますよぉ」
ピラり、とジョーカーが懐から一枚の写真を取り出した。
そして、それを掲げるようにして麗子に見せつけてくる。
そこに写っていたのは薄暗い林の様な場所で、傷つき血塗れの状態で地面に横たわる緋志の姿だった。
「これ、は……」
麗子は自分の顔からサッと血の気が引いていくのを実感した。
浮遊感が彼女の体を包み込み同時に体温が数度下がってしまった様な錯覚に彼女は陥った。
部屋の中が冷凍庫にでもなってしまったかと彼女は一瞬本気で考えたが、そんなはずはなかった。
彼女は意志力を振り絞りどうにか写真から目を逸らすと、あらん限りの怒りを投げつけるかのようにジョーカーを睨みつけた。
口を開こうにも思考が纏まらず、のたうち回る激情に耐えるように彼女は歯を食いしばった。
「く、くふ……フフ、フフフフ……アハハハッッ、ハハハハハッッッッ!!」
だが、麗子とは逆に、ジョーカーは歓喜した。
両手を大きく広げ、上半身を逸らしながら狂ったように笑い続ける。
「良いッッ! 実に良い表情ですよぉ!! 悲しみ、後悔、怒り、憎しみ……全てが最高の濃度で混ざりあった、実に素晴らしい表情ですッッ!! アハハハハハッッ!!」
欲しかった玩具を手に入れた子供の様な純粋さと、虐げることに愉悦を感じていることがありありと伝わる陰湿さが同居した笑いだった。
「……」
尚も麗子が沈黙していると、笑い終えたジョーカーが機械音じみた声で更なる爆弾を投下した。
「クク……あぁ、安心して下さいよぉ。今野君は死んではいません。まさかとは思いましたが無血の鬼と相打ちになるとは……紅道の血の力も凄まじいのでしょうが、彼自身の力もぉ、相当な様ですねぇ。侮っていた訳ではありませんけど、やはり歴代最高の素質を持つ彼は違いますねぇ」
先程までの怒りをかき消してしまう程の驚愕が麗子を襲った。
麗子と、とある人物のみが知るはずの事実をジョーカーは把握している。
なぜ、どうやって、何のために。
グルグルと廻る思考を落ち着かせることは出来ず、麗子は呆然と呟いた。
「貴様……何故それを……」
「クフフ……内緒ですよ、内緒。だってズルいじゃないですかぁ、私ばっかり喋らされて。という訳で話を戻させて頂くとぉ……彼は生きてますよぉ、辛うじてね。ただ、こんな写真を撮れてしまうくらい近くに私の手駒が待機してます……この意味、お分かり頂けますよねぇ?」
「……」
「実を言うとぉ、彼もリストに入ってましてぇ……いずれは殺そうと思ってたんですよぉ」
「リスト……?」
どうやら、ジョーカーとその後ろに居ると思われる勢力は幾人かのターゲットを定めているらしい、ということを麗子は相手の言葉から察することが出来た。
同時に、麗子は僅かばかり落ち着きを取り戻し、これ以上相手のペースに呑まれるのを防ぐべく高速思考を開始した。
「おおっとぉ、口が滑っちゃいましたぁ。うっかりうっかり……それでですねぇ、まあ私としても彼は殺しておきたい存在なんですけどぉ……もし、貴女が私達の仲間になって頂けるならぁ……」
ジョーカーの言葉を遮るように麗子は鋭く言い放った。
「いい加減猿芝居は止めたらどうだ」
「何のことですかぁ?」
「お前が父と母を殺したヤツらの一員だということは分かっている」
それはジョーカーが両親のことを持ち出した時から抱いていた疑念だった。
もしかしたら本当に両親の仇とジョーカーが敵対しているかもしれないという疑いも、もちろん同じ様に彼女の胸中に存在した。
だが、ジョーカーから感じた吐き気を催すような悪意は、麗子から両親を奪い人生を狂わせた存在との繋がりを感じさせるものだった。
「何を根拠にそんなこと仰ってるんですかぁ? 私はその一味とやらと敵対しているぅ……」
うそぶくジョーカーに、麗子は口の端を釣り上げ精一杯の虚勢を張りながら畳み掛けた。
「気付かないとでも思っていたのか? 同類の気配に」
「………アハハ、本当に貴女は素晴らしいですよぉ。ますます欲しくなりました……」
麗子は正体を表したジョーカーに、憎しみを込めて言った。
「ふん、結局全てをかき混ぜて壊すしか脳のない下劣な輩が……」
「心外ですねぇ。まあ否定もしませんけどぉ」
「どうせ、少し前に死んだ細井という男の死にも貴様は関わっているのだろう? あの力を使える存在は限られているからな」
どうせはぐらかされるだろうと踏んでいた麗子だったが、ジョーカーから返ってきたのは予想外の反応だった。
「あ〜、彼ですかぁ……誤解の無いように言っておくと彼についてはノータッチですよぉ。あの時は別件で忙しかったですしぃ……それに、私はあんな雑な後片付けの仕方はしませんよぉ」
ジョーカーの声からは隠しようのない喜びが滲み出ている。
細井のことを知っているのは否定しない、つまりジョーカーは細井が死んだ時点でも麗子達を監視していた、もしくは細井を殺した存在と面識があるのは明らかだった。
ただ、そのことを指摘するのは無意味だろうと判断した麗子の口から出たのはごく短いセリフだった。
「……随分楽しそうだな」
「だって、仕方ないじゃあないですかぁ。殺して犯して壊して狂わせて……欲望のままに楽しむのが我々の存在理由なんですから」
麗子は大きく息を吸い込むと、毅然とした態度で宣言した。
「やはりお前達とは相容れない。それが私の答えだ」
麗子の返答に、ジョーカーはすぐには答えなかった。
クツクツと肩を揺らし、徐々に音量を上げながら笑い出す。
「ひ、ヒヒヒ……ギャハハハハッッッ!!」
ジョーカーを包み込む空気が一変したのを麗子は感じ取った。
体の主ではない、ジョーカーという人物の奥底に潜む存在が鎌首を持ち上げたのだということが麗子には分かった。
何故なら麗子も、括りとしてはジョーカーと同じ立場なのだから。
「今さら何いい子ブってんだヨォ!? お前だって俺達と何ら変わらネェ! ただ本能の赴くままに、ただしたいようにするだけだ、そうダロォ?」
ジョーカーの口から飛び出したのは慇懃な敬語をかなぐり捨てた、汚らしい言葉だった。
「忘れたとは言わせねぇゼ! お前は何人と殺してきたダロ? ただ、憎いという理由だけで……お前は何人を利用してキタ? アァ? 自分の目的の為に何人を貶めてキタ? 男を否定して、神が定める愛に背イテ、終わらない快楽に逃げてきたのはどこのどいつダヨ?」
「……」
「お前のやってることは俺達と何ら変わらネェ!……いい加減ソレを認めた方が楽になると思いますけどねぇ」
不意にジョーカーの口調が元に戻った。
ただ、それを意識することも出来ないほど、麗子は憔悴していた。
ジョーカーの言葉を否定しようとしても、何より麗子の心がソレを認めてしまっていた。
自分は奴らと何ら変わらないことをしてきたのだと。
「ま、良いでしょう〜……それより、今はもっと大事な話しをしましょうかぁ、貴女の大好きな取り引きのお話ですよぉ」
「……貴様らと取り引きするつもりなどない」
どうにかそれだけを言った麗子に、ジョーカーは尚もネバつく口調で続ける。
「ちょっとちょっとぉ、鎖間那さん分かってますよねぇ? 我々が取り引きを無下にすることが無いというのは……貴女だからこそ、良くわかっているはずですよねぇ?」
「……」
「同意と取らせて頂きますよぉ。そろそろ時間がありませんのでぇ……もう一度だけ提案させて頂きましょうかぁ。貴女が私に力を貸していただけるならぁ、貴女の部下の方達に手は出しませんよぉ。如何ですか?」
「……断る」
きっと、緋志達と出会う前の麗子なら人質を取られても迷わず冷静に冷徹に同じ選択を出来ただろう。
だが、今の彼女は必死に自分に言い聞かせながら、誘惑に耐えながらジョーカーにNOを突きつけていた。
奴らと取り引きをしてはならないと経験から分かっていて、ジョーカーが緋志達を殺せる筈が無いと確固たる根拠を持っていても、麗子は揺らいでいた。
もし自分がジョーカー達と取り引きすれば、緋志達がこれ以上傷付くことは無いのでは……そんな考えがどうしても麗子の頭を過ぎるのだ。
昔の麗子なら微塵たりともその様な迷いは持たなかっただろう。
それほど、麗子にとって緋志達との出会いは大きいものだった。
「ハッキリし過ぎてませんかねぇ……これじゃあ彼等が報われませんねぇ」
「三文芝居もいい加減にしろ。お前らは私の部下を無闇と殺すことは出来ない。そうだろう?」
これは当てずっぽうでも、わざと強気に出た訳でもなく彼女なりの根拠があっての問い掛けだった。
「……チッ」
ここで初めてジョーカーから余裕が消えた。
例え自分がどれだけ汚れていようと、否だからこそ麗子はこれ以上自分の部下を傷つけさせまいと決意した。
「緋志君の秘密を知っているなら、彼を殺した時にかの御仁を敵に回すことになると分かっているのだろう? ルミちゃんについても同様だ。彼女は紅道家を出たが、紅道家の庇護が無くなった訳では無いからな。それと、陣君に憑いているモノも手に余る筈だ、そして何より……」
麗子の双眸がジョーカーを捉える。
「お前達は同類には手を出さない。そうだろう?」
「流石に気付いてましたかぁ」
肩をすくめるジョーカーは、どことなくつまらなさそうな気配を漂わせていた。
霧上への見立てが正しかったことが証明されてしまったのは、新たな頭痛の種だったが、麗子は口を休めなかった。
「当たり前だ。それと、貴様が言った通り私は自分の目的の為なら何でもする、だからこそ……部下が死のうが関係ない。いざとなればお前らと事を構える覚悟もある」
「……そうですかぁ、まあ今はそういうことにしておきましょうかぁ……ぶっちゃけ、まだ彼等を殺すつもりが無いのは本当なんですけどぉ……なーんかシラけちゃったなぁ……」
深々とため息を吐き、扉の方へと向き直ったジョーカーは付け加えるように言った。
「あ、言い忘れてたんですけどぉ、ヤケになって力を使うのはもう少し我慢した方がいいと思いますよぉ」
「ほぉ、まさか解放してもらえるのか?」
「いやいやまさか。私としては今すぐにでも貴女を楽しんでしまいくらいですからねぇ……まあ、ネタバレしちゃうと、貴女の部下……具体的に言うと紅道ルミと霧上恵がオマケ付きで京都に来てましてぇ」
「なっ……!?」
「そうですよねぇ、ビックリですよねぇ。まあ、私としては計画通りで嬉しいんですけどぉ……ええっと、まあ簡単に言っちゃうと彼女達、対魔課と龍平会を味方に付けようとしてましてぇ。何となくそれが上手くいきそうな気がするんですよねぇ。そうなると、ココの責任者の人、頭が弱いので……もしかすると貴女助けて貰えちゃうかもしれませんよぉみたいな」
「……何故それを私に教える?」
「だって、私としてはもう貴女がどうなろうが、ココがどうなろうが関係ありませんからねぇ……」
「……そもそも、お前はルミちゃんを殺すように頼まれたのではないのか?」
「それは嘘ですからぁ、ご心配には及びませんよぉ」
ジョーカーは顔だけで振り返り、笑いを含んだ声で言った。
「それでは、いつかまたお会いしましょうねぇ〜」
フラリと亡霊の様な動きでジョーカーが部屋から出て行く。
結局、ジョーカーの目的が謎に包まれてしまったことを意識することもなく、麗子は呆然と椅子に座ったまま思いを巡らせていた。
ルミと霧上が京都に来ている。
その事実をどう受け止めれば良いのか、麗子は咄嗟には分からなかった。
「彼女達は……逆伎に狙われ私に連絡を取ろうとして異変に気付いたのだろうな……」
全く、大した所員たちだ、と麗子は半ば呆れながら呟いた。
だが、それならば何故緋志はあの写真の様な状態になってしまったのか、それが麗子には謎だった。
「彼のことだから逆伎を足止めする役を買って出たのかもしれないが……」
とにかく緋志に関してはジョーカーの生きているという言葉を信じるしかなかった。
問題はルミ達なのだから。
ジョーカーの言葉通り、龍平会と対魔課の協力を得られたならば、ルミ達は高い確率で麗子の居場所を見つけ出し救出を試みるだろう。
そうなれば、この特殊な結界が張られた拠点に攻め入り、場慣れした相手と、下手をすればジョーカーとも戦闘になってしまう。
それなればルミ達は無事では済まないだろうと麗子は予感していた。
だが、そんな未来を回避する手段を麗子は持っている。
自力で脱出しようと思えば出来てしまうのだから。
あとは決心するのみ、そしてココから抜け出してしまえばルミ達が傷つくのを防げる。
そうと理性では分かっているはずなのに、麗子は動くことが出来なかった。
彼女の魂には自分の命より、他者の命よりも優先しなければならない復讐の誓いが刻まれたままなのだ。
ソレは轟々と燃え盛る憎しみの炎を生み出し、麗子に静観することを強いていた。
しかし、昔とは違い今の彼女には守りたいモノが出来てしまった。
相反する感情に苛まれながら彼女は苦悶することしか出来なかった。
「……パパ……ママ……私は、どうしたらいいのかな……」
麗子は体を丸め、小さく嗚咽を漏らした。
それは彼女が実に数年ぶりに流す涙だった。
麗子が囚われた部屋を出たジョーカーは、真っ直ぐに伸びる廊下を進み一階へと降りる階段前で渋い顔をしている男を見つけた。
「いやぁ、お待たせしましたぁ」
「……予定を二十分も過ぎています」
「まぁまぁ、色々手を回したんですからぁ、大目に見て下さいよぉ」
春日は露骨に顔を顰めると、吐き捨てるように言った。
「貴方の様な人物を登用するとは、幹部の方々は何を考えているのか……」
「そんなに邪険にしなくてもいいじゃあないですかぁ。私、とっても頑張らせて頂いてますよぉ?」
「……本当にターゲットは自らココに現れるのでしょうね?」
「えぇ、保証しますよぉ。彼女……紅道ルミは必ず現れますよぉ」
わざわざルミを狙う為にこの場所までおびき寄せたのは、そうしなければ危険だとジョーカーから提案されたからだった。
しかし、春日はそもそも半分は人間で例の魔道書を所持している自覚すら無いルミを危険視する意味が分からなかった。
そのため、潤沢とは言えない資金を使った今回の作戦への不満が抑えきれない形となって言葉の端々に浮かび上がる。
「ふむ、魔族がわざわざこの場に足を運ぶとは思えませんが……」
「ですからぁ、そこをどうにかするのが今回の私の仕事なんですってばぁ。もう仕込みは終わってますからぁ、後は鎖間那さんを逃がさない様にしてれば勝手に向こうから突っ込んできてくれますよぉ」
「……」
そうならなければ貴方も断罪しましょう、と言いたげな春日を特に気にした風もなくジョーカーは階段に足を乗せた。
「あ、鎖間那さんのこと殺さないで下さいねぇ。まだ使いますからぁ」
それだけ言い残すと、ジョーカーは足音すら立てずに下へと降りていく。
「どんな見物になるのか最後まで観ていたかったんですけどねぇ……」
歪んだ笑いを噛み殺し、ジョーカーはその場を後にした。




