⑫ 流浪の孫一
国破れて山河あり。雑賀衆滅びたりといえど、雑賀の人々はたくましく生きていきます。
旧敵・秀吉に仕えた者あり、帰農した者あり、のちに紀州国主の桑山氏や浅野氏、紀伊徳川氏に仕官した者あり。
物語の最後に、我らが主人公・孫一のその後を追ってみましょう。
以前より秀吉に仕えていた孫一(孫三郎重朝)は小田原征伐に鉄砲頭として参加し、朝鮮征伐では名護屋に在陣して主に秀吉の警護を担当しました。比較的平和な時代に、傭兵たる彼の活躍の場はありませんでした。
最後の機会は秀吉の死後、1600(慶長5)年に訪れました。徳川家康と石田三成、天下分け目の決戦に際し、彼は西軍に属して戦うことになったのです。
伏見城の攻略部隊に加わった孫一は勇戦し、城攻めの終盤では城に乗り込んで城将の鳥居元忠を討ち取る大手柄を挙げ、豊臣秀頼から感状を得ました。
決戦自体は周知のごとく西軍の完敗で、孫一は一時奥州に逃れて伊達政宗に匿われますが(この時、重臣の片倉小十郎の肝いりで騎馬鉄砲隊の創設に関わったとか関わらなかったとか)、1606(慶長11)年に政宗の口利きで徳川幕府に知行3000石で仕官、数年後に徳川頼房に付けられて水戸徳川藩の家臣となりました。
エピソードがあります。天下泰平となったある日、孫一の子・重次は、鳥居忠政という大名のもとへ「貴公の御父上の形見を持っているが、これをお返ししたい」と使いを出します。言うまでもなく、忠政は伏見城で討ち死にした鳥居元忠の息子です。
忠政は「ぜひ拝見したい」と返答し、重次が自ら元忠の遺品を携えて鳥居邸へ赴くと忠政は彼を奥の間に招じ入れ、兜や刀に触れて「父と再開したようだ!」と涙を流しました。
翌日、忠政は使いを立て「これらはあなたの家にとどめて子孫にその武勲を伝えられたい。それでこそ、当家にとっては弓馬の道のよい遺戒となろう」と遺品を全て返却し、さらに毎年お礼として着物5着を重次に贈り続けました。
これを聞いた水戸藩主・徳川頼房は深く感じ入り、鳥居家の使者が来訪するたび道路や橋梁を修築して丁重に迎え入れさせたそうです。贈り物は忠政の死後まで続きました。
孫一は姓を「雑賀」と改め、彼の家系は藩の重臣として幕末まで続きました。当主は代々「孫一」の名を受け継いだといいます。




