① 信長との出会い
1568(永禄11)年、足利義昭を奉じ上洛を果たした織田信長は、柴田勝家らに三好三人衆が支配する河内(大阪府東部)への侵攻を命じます。その軍勢の中に「鈴木孫市 重意」の名がありました。
記録上、信長と孫一に接点が生まれたのはこれが初めてです。もちろん、織田家に従属したとは考えられず、あくまで傭兵として雇われたのでしょう。
結局、河内高屋城主の三好康長は戦わずして逃亡し、河内には守護大名の血統を継ぐ畠山昭高が入国。これを皮切りに、「天下布武」を目指す信長と畿内を奪回したい三好三人衆など諸大名との争いは激化していきます。
その中で孫一や雑賀衆も、否応なく戦いへと巻き込まれていきます。
翌々年の1570年7月。信長に追われて阿波(徳島県)に逃げていた三好三人衆が1万3千名の兵を引き連れて摂津(大阪府北東部)に上陸しました。
信長は前の月に姉川の合戦を勝ち抜いたばかりで疲弊していましたが、敢然として4万名もの軍勢を率いて出撃しました。
織田方には雑賀衆の一部(孫一らと仲の悪かった宮郷、中郷、南郷の軍勢と思われます)が加勢。三好方には孫一率いる雑賀、根来、湯川など紀伊の豪族、合わせて2万名が鉄砲3千挺を携えて援軍に駆けつけ、彼らを中心として空前の大砲戦、銃撃戦が展開されました。
「御敵身方の鉄砲、誠に日夜天地も響くばかりに候」と「信長公記」にも記されています。
物量に劣る三好方や孫一らは激戦の末、次第に大阪市周辺地域へと追い詰められていきます。
ところが9月14日の夜半、事態は急転します。石山本願寺の挙兵です。
思いがけず側背を脅かされた織田勢は切歯扼腕しながら後退。折悪しく近江方面でも朝倉・浅井勢の侵攻が報じられたため、信長は主力を率いて摂津を去ります。
こうして通称「野田・福島の合戦」は三好方の優勢勝ちのまま年の暮れに和睦が結ばれました。同時に10数年に及ぶ「石山戦争」が、孫一たちを巻き込んで幕を開けます。