第22話 名もない帰還
地上への道のりは、いつもより何倍も長く感じられた。
傷の痛みを噬み殺しながら一歩ずつ階段を上る。十三階層からの道は、普段の帰路とは比べ物にならないほど険しく、何度も壁に手をつきながら、ようやく浅い階層まで戻ってきた。
ふらつく足取りで門をくぐった瞬間、受付にいたギルド職員が顔色を変えて駆け寄ってきた。
「ど、どうしたんですか、その怪我は!」
「……大丈夫です。応急手当は済ませてあるので」
「大丈夫なわけないでしょう! すぐに治療院へ!」
半ば引きずられるようにして、ギルド併設の治療院へ連れていかれる。手当てを受けながら、僕はぼんやりと、先ほどの死闘を思い返していた。
「深い傷がいくつかありますが、命に別状はありません。ただ、しばらくは無理をなさらないように」
治療師の言葉に、僕は小さく頷いた。処置を受ける間、ようやく落ち着いてきた頭の中で、何度もあの紫の瞳が過っていた。あれが何だったのか、問いへの答えはまだ、どこにも見つからなかった。
拠点に戻る頃には、すでに夕刻を過ぎていた。扉を開けると、心配そうな顔で待っていたニーナが、僕の姿を見るなり駆け寄ってきた。
「ちょっと、その怪我……! 何があったのよ!」
「す、すみません。少し、無茶をしてしまって」
「少しって量じゃないでしょ、これ!」
騒ぎを聞いて駆けつけたオスカーさんとセレスティアさんの顔が、みるみる険しくなっていく。
「坊主、何があった。正直に話せ」
静かな、それでいて有無を言わさぬ声に、僕は深く頭を下げた。
「約束を破りました。五階層までと言われていたのに、十三階層まで潜ってしまって……そこで、知らないモンスターに遭遇しました」
「知らないモンスター?」
セレスティアさんが、怪訝そうに眉を寄せる。
「図鑑にも載っていない見た目でした。小さな獣で、月のような色をした毛並みで……正直、自分でも何だったのか、全く分かっていません」
懐から取り出した結晶と角の欠片を見せると、オスカーさんの表情が一瞬、強く引き締まった。
「……これは」
「心当たり、あるんですか」
「いや……分からん。少なくとも、俺が知ってる魔物じゃねえな」
オスカーさんが珍しく言葉を濁す。その反応に、僕は少し胸がざわついた。
「とにかく、今日はもう休め。説教は明日、たっぷりしてやる」
「はい……」
「それと」
オスカーさんが、ドスの効いた声で続けた。
「よくも無事に戻ってきたな、坊主。……お前が一人で死んでたら、俺は一生自分を許せなかっただろうよ」
ぶっきらぼうな言葉の奥にある、確かな心配の色に、僕は言葉を失った。
「すみません、心配かけて」
「わかってんなら、二度目はねえようにしろ」
厳しい言葉の裏に、安堵がにじんでいるのが分かった。クレアさんが丁寧に傷の様子を確認し、ロズリーンさんは珍しく何も言わず、ただ黙って温かい飲み物を用意してくれた。
バルトさんも厨房から顔を出し、普段の豪快さとは違う、静かな声で言った。
「……飯、多めに作っといたからな。たくさん食って、ちゃんと寝ろ」
「ありがとうございます」
いつもより口数の少ない夕食の席だったけれど、その静けさの中には、皆の心配と安堵が、確かに滲んでいた。独りで立ち向かった戦いの重さを、こうして分かち合ってくれる誰かがいることが、何よりもありがたかった。
セレスティアさんが、食事の後、静かに僕の隣に腰を下ろした。
「一つだけ、聞いてもいい?」
「はい」
「怖くなかった?」
「……怖かったです。今でも、思い出すと手が震えます」
「それでも、逃げなかったのね」
「はい。……どうしてか、足が動かなかったんです。理由は、自分でもまだ、うまく言葉にできません」
セレスティアさんは、しばらく何も言わずに僕を見つめ、それから静かに微笑んだ。
「その『うまく言葉にできないもの』が、きっとあんたをここまで連れてきたんでしょうね」
その一言が、不思議なほど胸の奥に染み渡った。
その夜、僕はベッドに横たわりながら、懐の結晶を見つめた。淡く発光するその欠片が、今日の死闘が確かに現実だったことを、静かに物語っていた。
――あれは、一体何だったのだろう。
答えの出ない問いを抱えながら、僕はいつしか、深い眠りに落ちていった。




