最上さんの家で
先日のグラビアのお礼にと、最上さんの家にお呼ばれすることになったので、大学の講義の終わりに彼女の家へ寄ることにした。青い屋根の一軒家で、うちの家よりも大きい。丁寧に整えられている庭に色々な鉢植えが並んでいたが、植物に疎い俺にはどれが何と言う花か一つも分からなかった。少なくとも向日葵は植えられてはいないみたいだ。庭を通り過ぎて呼び鈴を鳴らすと、インターホンから最上さんの声がした。ドアを開けて出迎えてくれた彼女は、赤とオレンジのチェック柄のエプロンを身に着けていた。
「いらっしゃいませ。どうぞ。」
「お邪魔します。」
リビングに通され、ダイニングテーブルに案内される。席に着くと、キッチンの方から甘い香りがしていた。
「もうすぐ、ケーキが焼き上がるから待っていてくれ。」
「最上さん、お菓子作れたんだ。凄いよ、本当。尊敬する。」
「やめてくれ。まだまだだよ、私なんて。」
「手伝おうか?」
「いや、座っていてくれ。もてなしたいんだ。」
キッチンからコーヒーポットとシュガーステックを持ってきて、目の前で注いでくれた。コーヒーの匂い立つような苦味が鼻をくすぐる。口に少し含んで舌の上で遊ばせる。いつも飲んでいるインスタントコーヒーよりも手間のかかった味がした。
「美味しいよ。」
「そう。淹れるのは初めてだったんだが、上手くいって良かった。」
しばらく談笑をしていると、短い軽快な音が聞こえてきた。シフォンケーキが焼き上がったようだ。
「すまない。デコレートするから、好きにくつろいでいてくれ。」
「ああ。教科書でも読んでるよ。もうすぐ試験だしね。」
「そうしてくれ。」
最上さんはキッチンへ急いだ。彼女の事だからきっとうまく焼けたのだろう。彼女が鼻歌を歌いながらデコレーションをしている間に教科書を読む。
「私が焼いた割には上手く出来たよ。」
両手には立派なデコレーションケーキが乗せられていた。
「美味しそう。」
「そう言ってくれると嬉しいな。」
テーブルにはケーキとコーヒーとクッキーが並んだ。
「ちょっと、いいバニラエッセンスを使ったんだ。これだよ。」
彼女は小瓶の蓋を開けて手渡してくれたが、俺の手は空をつかんだ。小瓶は机の上で一度跳ね、床の上に転がった。中身は宙を舞い、俺の視界が一瞬遮られた。
視界が戻った俺の目に最初に映ったのは、最上さんの申し訳なさそうな顔だった。直後に悲鳴が耳を貫いた。
「ごめんなさい。本当に申し訳ない。」
彼女は九十度身体を折り曲げて謝罪した。顔は真っ赤に上気し、目の端に涙を浮かべ、まるで俺の親族を事故にでも合わせたのかと錯覚させるほどの錯乱ぶりである。俺には別に実害は無かったので、自分の頭は静かに動いているようだ。
「別にいいよ。ここに来るまでに汗をかいていたから丁度良かったよ。」
何が丁度いいのか。自分が冷静だと思っていたのは勘違いだったようだ。最上さんの取り乱した姿に感化され、頭が回っていないのかもしれない。
「良い訳ないだろう。」
彼女がキッチンから濡れタオルを持って来て、俺の手から腕にかけて拭きはじめた。指の谷間から一本一本丁寧に拭いてくれる。腕が終わると、今度は上半身を脱ぐように言われた。俺が何か言うと彼女が泣いてしまいそうで、黙って従い続ける。筋肉の合間をなぞるように濡れタオルが走り、全身に鳥肌が立っていた。
「じゃあ、あの、次は下半身……。」
「いや、大丈夫だよ。下半身にはかかって無いはずだから。」
「本当にごめんね。服は洗って返すから。」
「えっと、ああ、うん。じゃあ、頼むよ。」
「何か着るものは。えっと。」
「今日、体育の講義があったから。ジャージがあるよ。」
彼女はバタバタと洗濯を始めた。その間に身体のあちこち嗅いでみたが、そもそも家中に甘い香りが漂っているため、拭けているのかどうか分からなかった。しかし、少なくとも教科書からは強く甘い匂いがしていた。
ゴンゴンと洗濯機が回る音がして、最上さんが戻って来た。
「どうだろうか。大丈夫かな。」
彼女はそう言うと、俺の肩を掴み、上半身を嗅ぎ始めた。手、腋、首筋、髪、お腹と次々に鼻先が移動する。移動するたびに彼女の髪から良い香りが発せられる。俺と最上さんは互いの身体を浴びるように嗅ぎ合った。シャンプーの匂いとバニラエッセンスの香りと混ざり合い、頭がくらくらした。
「まだ少し甘い香りがするけど。」
「も、もう大丈夫だよ、これ位は。」
「そう。君がそう言うなら。」
彼女は目じりを濡れタオルで拭った。頬笑みを少しの努力で作って、
「言いにくいんだけど、もう一度、もてなし直させてもらえないか。」
「もちろん。構わないよ。」
俺は彼女の手首を引いて、ダイニングテーブルへと誘った。彼女もいじらしくそれに従ってくれる。甘い匂いを充満させながら、俺はケーキを頬張った。
ようやく最上さんとのお茶会が始まった。正直、どれも美味しい。噛む時にはサクサクとし、唾液と混ざるとホロホロと崩れていく香ばしい紅茶クッキー。飾り付けは流石にパティシエに劣るものの、味はなかなかのケーキ。切ると、切断面から甘く温かいチョコレートが流れ出て、口内でも舌に良く絡む。甘さが脳まで達して苦しくなるが、それをやわらかくもすっぱりと流す苦味のあるコーヒー。鼻から爽やかな香りが通り抜けた。ミルクを入れるのは野暮だな。そう思った。
「流石に作り過ぎたな。」
「確かに量あるね。でも、美味しいから、もう少し食べられるよ。」
「そうか。なによりだ。」
そう強がって見たものの、俺は正直限界だった。机の上にはまだまだ残っている。甘いものを口にするのも久しぶりだったのだ。最上さんはハンカチで口の周りのチョコレートを拭い、こめかみを押さえて苦しそうに呻いた。彼女のお皿の上にはケーキが一欠片残っていた。
「すまない。私の最後の一口、君、食べてくれないか。」
彼女はフォークで自分の皿から一欠片すくい取り、俺に差しだした。そのようにされては断る訳にはいかなかった。味わいながら微笑むと、彼女も微笑み返してくれた。
しばらく、お互いにぐったりしていると、玄関の鍵がガチャリと開き、誰かが家に入ってきた。
「な、何?この甘ったるい匂い。」
聞き覚えのある声だった。リビングに顔を出したのは、妹の友人である結衣ちゃんだった。今日は緑の妖精では無く、貝殻をあしらった青い髪飾りをつけている。
「おかえり。」
「ただいま。」
そのように簡単な姉妹のやりとりを交わして、妹を紹介してくれた。
「紹介しよう。妹の結衣だ。」
「知ってる。」
「こんにちは。千穂ちゃんのお兄さん。」
「こんにちは。」
視線を結衣ちゃんから最上さんに移すと、目が泳いでいた。
「ん?ええと、どうして。」
「うちの妹の友人なんだ。」
「お姉ちゃんのお友達だったんですね。」
「そうだよ。」
「あ、そうそう、キーホルダーもらったんだよ。ほら。」
結衣ちゃんは血みどろ男爵を姉に見せつけた。
「妹にプレゼントまでしてくれて。本当、君からはもらってばかりだな。ありがとう。」
「いいよ。別にお礼なんて。」
「あ、お姉ちゃんケーキ焼いたの?食べていい?」
「ああ。持て余してたんだ。」
結衣ちゃんは黙々と食べ始めた。次から次へと胃の中に収まっていく。その食べっぷりに若さを感じた。
「そういえば、お姉ちゃん、ちょっと太った?」
「うっ、分かるのか?」
「もちろん。毎日会ってるし。」
妹は姉のお腹を軽くつまんでいた。俺には正直よく分からなかったが、高校生の時代に比べると、大分血色が良くなっていることは分かった。
「しかも、ここ最近、毎日作っては試食してたじゃない。」
「料理下手の私がお客をもてなすんだから、当然のことだ。」
「下手じゃないよ。こんなに美味しいし。ねえ?」
結衣ちゃんは俺に共感を求めて来たので、頭を縦に振った。現に美味しかった。
二人と仲良くお話をしていると時刻は十八時を回った。
「そろそろお暇するよ。今日はお招きありがとう。」
「いや、こちらこそ、楽しい時間をありがとう。」
「また来てね!」
二人に玄関まで見送られ、夕日に向かって歩き出した。結衣ちゃんは元気良く手を振ってくれている。俺も元気良く手を振り返した。
先日の雨が嘘だったかのように空が晴れ渡り、気持ちの良い風が吹いていた。鞄の中から参考書を取り出して嗅いでみると、バニラエッセンスの香りと、仄かな彼女の匂いが残っていた。
最上さんが淹れてくれたのはサントスコーヒーです。