宿を楽しむ
その後、夕方まで楽しく遊んだ俺達はくたくたになって黄昏の砂浜を後にした。時和の車に揺られて旅館まで向かう。俺が一所懸命地図を見ながら時和に道を指示している後ろで、三人はすやすやと眠っていた。何度も宿をとった小林君を起こそうと思ったが、彼を起こすことで女子も起きてしまいそうだと思い、そのままにしておいた。
到着した旅館は、小さいながらも手入れが行き届いている和の宿であった。狭いながらも整えられた枯山水が俺達を出迎えてくれた。
「おいおい、小林、こんなに立派な所なのかよ。」
「うん。そうだよ?」
小林君はケロリと答えた。彼の話によると、いわゆる訳有りの部屋だそうである。と言っても幽霊だとか、死人が出たとかそういう類のものではないそうだ。単にシーズン前で割引しているのと、海辺の宿なのにその二部屋からは海が見えないという理由で、大学生でも泊まれる程度の料金になっていたのだ。ちなみに、時和は行き帰りの車の運転をお願いしているため、彼の宿代は俺達で割っている。
仲居に連れられて案内された部屋は、申し分のない部屋だった。確かに窓からは海が見えず、むしろ遠くに山がうっすらと見えている。
「では、お夕食は今から一時間後の十九時にご用意させて頂きます。五名様ともこちらのお部屋で準備させて頂いてよろしいでしょうか。」
「はい。」
遊んで疲れ果てた上の空の男共が、誰ともなく返事をした。
「では、失礼いたします。」
仲居はそう言って礼をし、去っていった。部屋の説明などもあったのだが、朝食が八時頃というのと、温泉があるということしか頭に入らなかった。
「晩ごはん食べたら、一緒に温泉に行こうね。」
小林君はのんびりと答えた。しかし、彼の言葉の調子に反して、俺と時和は一気に全身に力を取り戻す。
「温泉?」
「うん。温泉。嫌?時和。」
俺と時和は居住まいを正して正座をし、どうする、どうしようかと小声で話し合った。
「何?何を小声で話してるの?教えてよ。」
小林君も、俺達の態度の変化に気づいて、自分の言動に何か不備があったのでは?と心配そうな表情を浮かべていた。
正直な話、俺は渋っていた。この話をすることで気持ち悪がり、嫌がる人達がいるのを知っていた。更には嫌な距離を置かれる同情をされたり、時には歪んだ自慢と取られることもあった。小林君はどうなんだろう。二十歳を超えてもなお、純粋さを湛えるその目に、自分の事はどう映るのだろう。楽しかった海の時間が嫌なものにならないだろうか。そして、なにより。
彼は、これからも親しい友人でいてくれるだろうか。
自分は、彼の心を上手く推し量れずに、胸が苦しくなった。小林君がじっとこちらの事をじっと見ている。そして、背中を力強い手が撫でた。
「藤咲。俺が保証する。小林は大丈夫な奴だ。」
はあ。まったく、いつもながらに何の根拠もないやつだ。しかし、俺は時和の力強く発せられた温かみのある声に、幾分か救われた。
「藤咲君。僕が保証する。僕は何を言われても大丈夫な奴だよ。」
俺は伏せていた目を上げて、小林君の目を見据えた。腹は決まった。
窓から緩やかに差す夕日が暖かく見守っている。眩しさに目を細め、一つ瞬きをして口を開いた。
「実は……。」
そういって一言前置きをして、服をめくり上半身を露わにした。小林君の目は俺の下腹部に着目し、瞳孔が大きく見開かれた。
「どうしたの?その傷。それが話しにくいこと?」
俺は黙って頷いた。時和もハラハラと見守ってくれている。小林君は困惑した表情を浮かべた。ツルをつまんでじっくりとよく見ている。眼鏡の奥の瞳に、どのような感情がこもっているのか読み取ることができない。憐れみとも心配ともとれる冷静な対応に、俺は何とも言えなかった。裁判所での判決を待つように、次の小林君の言葉を待った。
「藤咲君。」
「はい。」
彼はその細い腕と小柄な肩を広げ、抱擁を受け取るように促した。俺も腕を広げ、それに応えた。身長差があるためにかがんで調節し、眼鏡のツルを押しつけられる右の頬の痛さを我慢する。ちょっと痛い。しかし、その痛さを忘れさせるほどのしっかりとした抱擁に胸が熱くなり、目頭に何か熱いものが蓄積していた。時和もこの光景に何か思うものがあったのだろう。顔が引き締まり、大きな拍手で俺達を迎えた。窓の外に見える欠けた月も、ほっとしたようだ。そっと微笑んでいるように感じた。
直後、小林君は大きく息を吸い込み、一度咳き込んで、喉が久しぶりに大きな声を出すのに備えて大きく鼓動する。
「僕を見くびるなよ!その程度じゃ、僕と君の関係は何も変わらないよ!」
射程ゼロの大きな音玉が身を隠している鼓膜を射抜き、三半規管を大きく揺さぶらせる。
頭の奥に残響する声が、俺達の抱擁をやめさせた。
「馬鹿、小林。うるせえ!」
「あははー。ごめんね!藤咲!」
「やめろ!左耳も死ぬ!」
小林君はお腹を抱えて笑っている。俺も時和も、彼が何がそんなにおかしいのか分からず、思わず笑ってしまった。ひとしきり笑った後、俺達は笑い疲れてその場に座り込んだ。
「僕ね、嬉しかったんだ。僕だけ、君達とは大学からの付き合いだったから。君達二人の間に何か入れてないような気がしてさ。だから。だから、そういう話をしてもらえるほどに信じてくれたんだって思ったら……。」
「小林―!」
「時和―!」
小林と時和も熱い抱擁を交わしあった。満足するほど抱き合った後、小林は冷静になって、俺の方へ向き直った。
「でさ、どうしたんだよ。その傷。」
「ああ。これな。脳味噌の腐った奴に刺されたんだ。高校生の時に。」
「うわ、マジで脳味噌腐ってるね。ゾンビみたい。」
「ゾンビか。言い得て妙だな。そんな奴らだったよ。あ、ただ、」
「ただ?」
「どうか、最上さんには言わないで欲しい。」
「言わないよ。僕がするべき話じゃないし。」
ほっとして、胸をなで下ろしていると、コンコンとドアを叩く音がして、仲居さんの声が聞こえた。
「失礼いたします。ご夕食の用意が出来ましたので、準備をさせて頂いてもよろしいでしょうか。」
そう言うやいなや、日頃培った技量を発揮して瞬く間に準備が整う。最上さんも俺達の部屋に集い、楽しい会食が始まった。
運ばれてきた会席料理に、一同目を輝かせた。時和が感激して何度も携帯で写真を撮っている横で、最上さんも微かなお腹の贅肉を気にしつつも、ダイエットは明日から。と覚悟を決めたようだった。
お膳の上に散りばめられた豪華な食事。俺は何度も生唾を飲み込む。時和も小林も同様に待ちきれない様子だ。仲居さんの料理の説明を誰もが聞いているふりをして、その実誰もが聞いてはいなかった。固形燃料に火が灯り、乾いたグラスにビールが注がれ、いよいよ会食が始まった。
「乾杯!」
時和はノンアルコールビールを掲げて音頭を取る。俺たちも意気揚々とグラスを掲げ、グラス同士がぶつかる音が響き渡った。
乾杯も終わり、食事に手をつけようとした途端、仲居さんの話を聞き流したことを後悔した。これは何と言う料理なんだろう。トマトを半分に切って器にしたものに、焼いたネギなどが詰められている。他に詰めてあるものは何か分からない。が、口に入れてみるとシャキシャキとして美味しい。次は小鉢に入った、トウモロコシの粒が入っているペースト状の何かを食べてみる。最初はポテトサラダと思って口にしたのだが、違うようだ。でも、これも美味しい。粘度のある、バジルオイルのような香りが鼻から抜けていった。どうせ、こっちも、カボチャをポテトサラダに仕上げたもののように見せかけて、実は違うものなんだろう。……これはそのままであった。
まあ、なんにせよ、ビールが進む味付けには違いなかった。時和は、既に四回グラスを空けていた。空く度に彼の彼女がグラスを満たし、飲んでいる様子を上目遣いでじっと眺めているので、どんどん喉に流し込んでいた。最上さんは艶やかに、右手で持ったグラスの底に左手を添えてちびりちびりと呑んでいた。小林は既に赤い。
次に運ばれてきたのはてんぷらだった。タラの芽かな。ふきのとうかな。やはりよく分からないが、塩につけて食べてみると、アスパラガスではないことだけ分かった。そのお隣は燻製肉だ。違うのかもしれないが。この宿特製のたれと思われるものにつけて食べてみる。美味しい。筍のご飯が進む。何の動物の肉なのかな。牛かな。豚かな。羊かな。どこの部位なんだろう。まあいいか、美味いし。
小林はうつらうつらと、時和はがつがつと、最上さんはニコニコとし始めた。次は刺身だ。うん、これは分かる。サーモンとマグロとカンパチだ。回転すし屋で見たことあるネタが皿に乗っている。ワサビを効かせた醤油につけて食べると、油が乗りに乗ったマグロが舌の上で泳いだ。
ぐつぐつと煮立った鍋に、野菜達を放り込む。しゅうしゅうと音を立てて煮込まれていく。豚肉をしゃぶしゃぶしてはご飯と共にかきこみ、しゅわしゅわと音を立てるビールで流し込んだ。棒が口から突き刺された、鮎と思しき焼き魚を食べ終わると、抹茶のアイスがデザートとして出てきて、その濃厚さを楽しんだ。アルコールで熱くなった頭を、キーンと冷やした。
時和がごちそうさまと、またも音頭を取って会食はお開きとなった。
「そういえばよ、ここ、温泉あるってよ。」
至れり尽くせりである。火照った体が多少冷えたら、入りに行こう。酔った頭でそう考えた。
酔った頭で風呂に入るのは危ないことだと承知していながらも、温泉があると聞いてはいてもたってもいられない。丁度良く理性も飛んでいるので、ますます湧いてくる温泉への欲に耐えることができなかった。
温泉と言っても大衆浴場に毛が生えた程度のもので、リウマチや冷え症に効く、三十九度の湯。冷水、サウナ、露天風呂と、基本をしっかりと押さえた印象を受けた。
男三人で背中を流しあったり、お互いの太ももや背中に現れた運動不足をからかいあいながらも、和やかに温泉を楽しんだ。
「あー。来て良かったなー。な、藤咲。」
「あー。そうだな。めっちゃ気持ちいい。」
「二人とも、おじさんみたいだよ。」
「ほっとけ。」
二人のツッコミがシンクロした後、時和と小林は男を競い合うと言って、サウナに入っていった。一方の俺は、露天風呂と向かう。
すりガラスの重いガラスの扉を二つ開けると、満点の星空が待っていた。よく晴れ渡っているので、月の明かるさが良く分かる。その効果を狙ってか、温泉の照明も若干暗めに抑えられているようだ。近くには海も見え、穏やかな波の音をここまで届かせていた。
俺は白く濁ったお湯を身体にかけて、ゆっくりと足から浸かっていった。熱めのお湯が、骨の髄まで暖める。下腹部の傷を労わりながら、肩まで浸かると、あに濁点がつくような、奇妙な声が口から漏れ出た。本当にいい湯だ。家ではこんなに広いお風呂で、限界まで足を延ばせないからな。体中が溶けていくほどまで楽しんだ。
夜も遅いからか、露天風呂には誰もいない。あるのは、夜の静けさに響く海の音と、綺麗な景色。俺は幸せだった。
俺が出てきたところとは、違う扉がゆっくり開いて誰かが入って来た。湯煙で良く見えないが、時和と小林ではなさそうだ。その人物はこちらへとどんどんやってきて、俺のすぐ隣りからで奇妙な声を上げた。微かな夜風が頬を撫で、湯煙を払って見えたのは、彼女だった。
「最上さん?」
最上さんは心底驚いた顔をし、濁り湯で身体を隠す。水着は堂々と晒せるが、裸には流石に羞恥を憶えるようだった。
「ここ、男湯?」
俺は首を横に振った。湯煙がさっと晴れた時に見えたのだ。混浴と書かれた看板が。
「ここ?ここは混浴らしい。」
最上さんは既にのぼせているのか、酔っているのか、恥ずかしいからか、顔が赤かった。
濁り湯を一メートル挟んで、俺達は裸で座っていた。俺の胸の鼓動をよそに、最上さんはのんきに夜空を眺めている。
「あれが多分、夏の大三角形だよ。」
彼女が左手で空を指し示す。本来夏の大三角形であれば、強く光を発しているので、街中でも発見できる。しかし、今はどうだ。いつもは見えない星空に埋もれて、俺にはどれがどれだか分からなかった。正直、最上さんもあやふやな様子だ。それをとり繕うように最上さんは話を続ける。
「なんで星の物語って、悲しいものばかりなんだろうね。」
「例えば?」
彼女はふわふわとした頭で、うーんと少し考えて、
「織姫と、彦星とか。」
と、舌足らずに答えた。最上さんの頭にはいよいよアルコールが回っているようだ。
「確かにそうだね。」
「何で、一年に一回だけなんだろう。」
「それはね。」
「私だったら、毎日会いたいな。」
最上さんは、俺達の間に流れている一メートルの牛乳のように白く濁った湯を乗り越えて、俺の右腕をがっしり掴み、耳を俺の若干柔らかい二の腕にぴったりくっつけた。
「こんな風に。」
彼女はニコニコと笑っている。
「最上さん、酔ってる?」
「酔ってない。」
「酔ってるって。」
「酔ってないって。」
ああ、これは、もう駄目だ。俺も彼女に密着された興奮で血流が速くなり、あっという間に頭の中は訳が分からなくなった。
「藤咲君。今日は本当にありがとうねえ。」
「いいんだ。楽しんでくれて、本当に良かった。」
「うん。とっても楽しかったな。また来たいね。」
「そうだね。」
彼女はふと、思いつめたような目をして、微かに俺の下腹部の傷に触れて、
「私、君と釣り合うような、もっと良い女になるね。今はダメダメだけどさ。」
耳元でそう呟いた。俺は、彼女の手を払うのも忘れて、
「そんなことないよ。君は素晴らしい女性だよ。昔から。織姫にだって負けないさ。」
と、軟派な台詞しか吐けなかった。海からの風が強くなり、湯気が完全に晴れた。
「どうやらのぼせたみたいだ。先に上がるね。」
そういって最上さんは立ち上がり、女湯の方へ戻っていく。どうやら彼女は湯浴み着を着忘れているようだ。俺は顔まで熱くなって、目眩がする。耳の中に湯が入り、視界が白くなって、出てくる言葉が気泡になっている。遠くで、誰かが俺の名前を叫ぶ声がした。
次に目を開けると、そこは一面のジンジャーの花畑だった。遠くに一人の白い衣服を着ている人が見える。俺は、その人に見覚えがあった。俺がかつて博士と呼んでいた人であった。その人だと認識した時には俺の全身の毛が逆立ち、身構える。気付くとその博士の傍らに男が現れた。その男は全身血にまみれている。その博士を抱きかかえた血にまみれた男は俺の方へ歩いてきた。博士を指し示して彼は言う。
「どうする?」
抱きかかえられている博士は言った。
「人殺し。」
俺は何も言えずに、ただ立ち尽くして目を閉じることしかできなかった。。
眩しい。瞼の裏の暗闇が明るくなって、薄く目を開けると朝日が顔にかかっていた。確か、俺はさっきまで温泉に浸かっていたはずでは。はっと身体を起こして周囲を確認すると、自分が借りている部屋の中だった。
「よう、起きたか。藤咲。」
声のする方に目を向けると、窓際で時和が煙草を吸っていた。
「ああ、うん。おはよう。」
「おはよう。」
「俺、温泉に居なかったっけ?」
「いたよ。昨日な。大変だったんだぜ。お前、温泉で溺れかけててさ。小林はガタイが小さいから、俺が部屋まで運んでよ。」
「そうだったのか。すまない。……ありがとう。」
「いいってことよ。」
時和は口から煙を吹き出した。小林はいびきをかいて眠っている。
「俺も謝らなきゃいけないことがある。」
「なんだよ、時和。今なら何でも許すぜ。」
「それ聞いて安心したよ。俺、運ぶときに焦ってさ。全裸のお前をお姫様だっこして走ったからよ、何人もの人に全裸を見られちまったよ。」
「は?お前は?お前も全裸だったんだろ?」
「俺は浴衣までちゃんと着てから運んだよ。」
「焦ってねーじゃねーか!」
俺の投げた枕は空を切り、窓ガラスにぶつかった。
「あぶねっ、俺、タバコ吸ってんだぞ!いいじゃねえか。腹の傷は見えないように運んだんだから。」
「うるせえ、燃えろ!」
俺は寝てる小林の枕を奪い、頭を枕で覆い隠した。
「おいおい、藤咲。昨夜、お前の衣服を運んだのは小林だぜ?」
「着せろ、馬鹿野郎。」
寝ぼけ眼の小林を巻き込んで、枕投げが行われた。その後、仲居さんが馴染みのある和食の朝食を持って来てくれたが、味がよく分からなかった。
楽しい思い出となる最後の日の朝は、あっという間に過ぎゆくものだ。さっさと荷物をまとめた後、小林がチェックアウトをして時和の車に乗り込む。行きとは反対の窓に見える海を見ながら、誰もが既に懐かしい出来事の一つになりつつあった海を思い出していた。
「楽しかったね。海。」
最上さんがぽつりとつぶやく。車内の全員が静かに賛同した。
「また、来ような。」
俺がそう締めくくる。後部座席は睡魔に襲われてまどろみ始める。運転席の時和と助手席の俺は、家に着くまでひたすらに、馬鹿げた話を繰り広げ続けた。




