海を楽しむ
椅子に座ってリュックサックに一泊二日の荷物を詰めていく。高校時代に履いていた短パンに似た水着。下着。Tシャツ等、必要最低限のものを詰めているはずなのに、もうパンパンだ。どれを減らそうか思案していると妹がノックもせずに入って来た。
「お兄ちゃん、海に行くんだって?」
「ああ。明日から一泊二日な。」
「いいなあ。私も行きたかったな。海。」
本当は俺も連れていきたかったのだが、丁度学校が開催している夏季特別講習の時期と重なってしまったのだった。妹が行けないということは、当然最上さんの妹も行けないということだ。電話口で一応誘ったのだが、半分泣きそうな声で
「きっと、神様が、今年は海に行ってはいけないと引きとめてくれたんですよ。男爵とお留守番してます。」
と、気丈に振る舞っていたのが印象的だった。
妹は俺のベッドに身を投げ出し、うつ伏せで枕に顎を乗せ、漫画雑誌を読んでいる。
「明日、どうやって行くの?海。」
「時和が軽を出してくれるって。」
「へー。時和の兄ちゃん、免許持ってるんだ。」
「去年取ったって。」
「そうなんだ。あ、これ、ちょっともらうね。」
「いいよ。」
「お、太っ腹―。」
千穂はそう言ってジンジャエールを一口飲み込もうとしたのだが、苦悶の表情を浮かべている。どうも舌が受け付けていないようで、無意味に耳を塞いだり、百面相をしてようやく飲み込んだ。
「これ、辛いやつじゃん。もー。しかも体温。」
「そうだよ。」
「だから快く許可したのかよ。」
寝転んでいるつま先で、お尻をむにむにと突いてくるが、無視しておく。ようやくリュックサックの容量も三分の二程度に抑えることができた。これで準備万端だ。丁度タイミング良く階下から、夕飯が出来たと母の声が聞こえた。
「よし、じゃあ、飯食いに降りるか。」
「うん。」
そう言って立ち上がり、扉の方に向かって歩き出したのだが、不意に背中に温かい体温を感じた。腕がお腹の方に回されて、Tシャツの中に滑り込ませた右手がそっと古傷を撫でる。
「気をつけてね。それだけ言いたかったの。」
「分かってるよ。」
千穂はそれだけ言うと、俺の顔も見ずにさっさと階段を下りていった。俺は何となく気恥かしくなって、背中の体温が冷めるまでその場に立ち尽くした。
次の日の朝。時和が家まで車で迎えに来た。助手席には見知らぬ頭頂部が金髪の女性。後部座席には最上さんと小林君が座っていた。
「よう、藤咲、おはよう。」
「おはよう。今日はよろしくな。」
そう言って車に小林君の隣の席に乗り込んだ。最上さんと小林君とも簡単に挨拶を交わす。時和はエンジンをかけて、車を動かし始める。
「荷物は後ろに置いとけよ。」
「分かった。お前、運転は大丈夫なんだろうな。」
「任せとけ。運なら自信がある。」
「おい。」
そんな冗談をいうもんだから、父親が運転する時と比べてしまう。やはり、ブレーキの強さや曲がるタイミングなど、気になりだしたら怖くなるので気晴らしに話すことにした。
「最上さん、男三人の遊びな上、急なお誘いだったけど、よくOK出してくれたね。」
「丁度暇だったの。あなたのお誘いだったから来ちゃった。それに、折角水着を買ったのに着てあげないと可哀想だと思って。」
「なるほど。」
「でも、ただ水着への同情心で来てる訳じゃない。私もそれなりに海に行きたいなって思ってたんだ。」
「それは良かった。」
「楽しみだな。」
「そうだね。」
和やかに歓談しながら車が進んでいくと、最上さん越しに海が見えた。
「海だ!」
小林君は叫んだ。満面の笑みである。気づくと、みんな笑顔だった。時和が後部座席の窓を開けると潮の香りが車内に充満し、波の音がする。誰もがこれからのことを思って興奮を抑えきれていなかった。
車から降りたって最初に感じたのは、潮風のべたつく気持ち良さであった。駐車場のアスファルトが持つ、身体にまとわりつく熱を一網打尽に払拭する。俺達は砂浜の灼熱を、金切り声を上げつつも飛び跳ねながら乗り切り、海水に足の裏の熱を逃がした。
照りつく太陽光は発汗を促し、着衣のまま飛び込みたいという欲求を芽生えさせる。その欲求に耐えきれなくなったのか、女性達は上半身のTシャツを豪快に脱ぎ捨てると、白日のもとに健康的な肢体を晒した。最上さんは例の水玉模様の水着。
明るい場所で見るボリューミーな肢体は、目のやり場に困った。
車から降ろしたレンタルのパラソルと、時和が持って来た大きめのレジャーシートを設置し終わった後、男どもは誰も下に水着を着ていなかったので、近くの脱衣所でいそいそと着替えた。
海水浴場にはシーズンより若干早いせいか、人はまばらである。家族連れはおらず、俺達のような大学生らしき暇人がちらほらと奇声をあげている。自分達がレジャーシートで占領した領域に帰ると、最上さんは日焼けを親の敵かのように日焼け止めを塗っていた。
「よし、じゃあ海を楽しむぞ!」
力強く宣言した時和の言葉を合図に、三人は一目散に海へと入って行く。俺は自分から進んで、最初の留守番を申し出た。
俺は寝転がり、空を仰ぐ。ゆったりと流れていく雲を眺めながら、日頃の特に蓄積していない疲れが溶けていくのであった。太陽光というものはささやかな日陰程度では無意味なものなのか、パラソルを突き抜けて俺の身体をじりじりと焼いていく。疲れが取れていくのに反比例して、体力は奪われていった。
「くそっ、夏の昼間を舐めてた。全く。」
身体が少しずつだるさが増していき、荷物番という重要任務が眠気でこなせなくなりつつある。身体を蝕んでいく眠気に、段々と抗えなくなっていった。
うとうとしながら海を眺めていると、首筋に冷たいものが触れて、俺は女の子のような奇声をあげた。
「こら。さぼったら駄目じゃないか、藤咲君。」
隣には、気づかないうちに最上さんが立っていた。手にはクーラーボックスに入っていた飲み物が握られている。
「はいこれ、スポーツドリンク。熱中症にならないうちに。」
「ありがとう。」
素直に受け取って、喉を鳴らして飲み込んだ。身体を速やかに冷却し、失われた水分が戻って来た。
「美味そうに飲むな。君は。」
そう言って、彼女は隣に腰かけた。
「海に誘ってくれて、本当にありがとう。」
「どういたしまして。了解してくれて、こちらこそありがとう。」
お互いに頭を下げあった後、最上さんはクーラーボックスからミネラルウォーターを取り出し、美味しそうに飲んだ。
「その水着ってさ。」
「ああ、これ?この間のやつだ。駄目だったかな。」
「そんなことないよ。似合ってる。凄く。」
「そうか。それなら良かった。」
彼女はほっと胸をなで下ろした。しかし、お腹の辺りをさすると、目に何か思いつめたような様子が浮かんだ。
「最上さん、どうかした?」
「正直に言って欲しい。」
「うん。」
「私、やはり太っただろうか。」
最上さんの家にお邪魔した時、妹に言われたことを大分気にしているのだろうか。最上さんの上から下まで舐めまわすように見たが、そうは思わなかった。
「太ってないと思うけど。」
「本当?ふう……絞った甲斐があった。」
大分気にしていたようだ。デリケートな話になりつつあったので、気まずく思っていると、荷物番交代の時間のようで時和がやってきた。
「おう、二人ともお疲れ。遊んでこいよ。」
「ありがとな。時和。」
「じゃあ、それ脱いでさ。一緒に行こうよ。」
最上さんは、俺のTシャツを脱がせようとする。その手を、俺は咄嗟に振り払った。お互いに拒否し、拒否されたことが理解できたのは、数秒たってからの事だった。
「あ……。ご、ごめんなさい。」
あんなに和やかだった雰囲気に一瞬で気まずい空気がなだれ込んできた。潮風が隠している古傷を舐めるように刺激し、塩分が染みる。
「きゃー。最上さん、だ、い、た、ん。」
時和が察知し、間に入ってきてくれた。極力道化になろうとしてくれているようだ。
「そ、そんなつもりは。」
「まだ、お昼だよぉ?そういうのは夜だったら止めないからさ。」
「ち、違うよ。誤解だ!」
「こいつ、身体に自信がない上に、あんまり泳げないからさぁ。照れて脱ごうとしないんだよ。」
「そうなのか。」
俺は全力で肯定した。最上さんも何となく察することがあったのだろうか。さっと身を引いてくれた。
「藤咲、波打ち際で遊んで来れば?」
「そうするよ。」
小声で時和にありがとな。とささやくと、時和も気にすんな。と返してくれた。俺は気を取り直し、波打ち際に向かって駆け出す。
「最上さん、俺の裸が見たかったら、ここまでおいで。」
「あ、待ってー。」
波打ち際を最上さんに追いかけられる。光る水しぶきの中、まるでカップルのように笑い声を上げて追い駆け合った。海の上で冷えた風が身体を心地よく包み、一体となって砂浜を駆ける。
十秒後、追いつかれた。
「すまない。ダイエットのために、最近、毎日走ってるんだ。」
砂浜で最上さんに捕まって気まずくなった俺達は、おもむろに砂のお山を作っていた。着々と高さは増していき、トンネルが開通したところで、沖の方から小林君が俺達を大声で呼ぶ声が聞こえた。
「おーい、藤咲君。スイカ割りしようよ。」
後部座席に乗っていたやつか。もちろんと大声で返して承諾する。時和の所に戻って、てきぱきとスイカ割りの準備をした。
「まず、誰からやる?」
時和が皆に尋ねると、輪の中で元気良く手を挙げる者があった。小林君である。視界をタオルで奪われてバッドを持ち、飛び跳ねて喜んでいる。時和にエスコートされて、スタート位置で身体を回転させられる。十回回した後に彼はは前へと歩き出した。
前、右、左と俺達は叫んで誘導する。しかし、大声の健闘空しく、あさっての方へと勢い良く進んでいく。途中何故か横に振ったりするシーンも見受けられたが、無事に空振りした。目隠しを外した彼は心底残念そうだった。
「私、ちょっと、目隠しが苦手だから声援に回してくれ。」
そう言って最上さんが辞退したので、次は男二人の中からジャンケンで決めた。その結果、俺に決まった。
「少し、じっとしていてくれ。」
スタート地点で最上さんに目隠しをされる。加減を知らない細い手が、容赦なく眼球を圧迫するほどに縛られた。肩に彼女のものと思われる手が置かれて、ぐるぐると身体を回される。その後、時和の気合いのこもった掛け声で、俺のスイカ割りが始まった。
目隠しをされると、他の感覚が研ぎ澄まされてくる。真っ暗闇の中で感じるのは、くしゃみが出そうな程の鼻をくすぐる潮の匂い。鼓膜を叩く波の音。波打ち際に対して平行に歩いてスイカまで辿り着こうと考えていたが、寄せては引いていくその音が、自分の位置を狂わせる諸悪の根源となっていた。一歩ずつ熱い砂浜を踏みしめて歩いて行こうとするが、二歩目にはスイカの位置は、皆目見当つかなくなっていた。
風が全身にぶつかって、肌が過敏になりながらも四人の声を頼りに歩いていく。風の音にかき消されないようにと声を張って声援を送ってくれていた。恐る恐る歩いていくと、突如、そこ!という声が聞こえた。
大きく振りかぶって打ち下ろす。バッドの先は砂浜を力強く叩いた。残念そうな声が上がり、目隠しを外すと、スイカの三十センチ程手前を叩いていた。
「よう、残念だったな。」
次は俺に任せろと言わんばかりにバッドとタオルを受け取る。俺が時和に目隠しをしてバッドを持たせてやる。いつもより余計に回してスタートさせると、最上さんが
「頑張って!」
と声をかけた。それを聞いた時和は真っ直ぐスイカに向かって走り出す。見えてるんじゃないか。と疑う間もなく、剣道のように綺麗な太刀筋でスイカを打ち砕いた。
やった、やったと喜んで目隠しを外した時和は、俺達の冷やかな視線に気がついた。
「なんだよ。」
と彼の見えていた疑惑に弁明しているその顔を、小林君が恨めしそうにじっと見つめていた。
スイカは真ん中をすっぱり割られていたので、綺麗に取り分けやすかった。しゃくしゃくと食が進んでいく。乾いた身体に水分が満たされて、疲れた身体に元気が湧いてきた。
「このあと、どうする?」
時和が種を飛ばしつつ聞いてくる。そうだなと考えていると、小林君が手を挙げた。
「じゃあ、写生大会しようよ。」
そういえば、小林君の提案で海に来たんだった。前回は小林君の独断で引き分けになったので、今日こそ、彼と決着をつけてやろう。
「悪い。俺、絵苦手だし、お前らだけで行って来いよ。俺は荷物番をしながら、美女ウォッチングを楽しくやってるよ。」
「私も絵はちょっと。頑張って下さい。」
そう言って四人でスイカの後片付けをした後、時和はレジャーシートで横になり始めた。俺達はいったん車に戻ってスケッチブックと色鉛筆を手にした後、勝負が始まった。
「よし、藤咲君。ルールは前回と同じく、一時間一本勝負。テーマは海ね。」
「分かった。」
「今回はオーディエンスがいるから、三人に多数決で決めてもらおうよ。」
「オッケー。それでいいよ。」
こうして戦いの火蓋は切って落とされた。大丈夫。こっちには最上さんがいる。が、しかし、
「最上さん、行こ。今度は僕を手伝ってよ。」
と言って、小林君が強引に連れ去り、今回は一人ぼっちになってしまった。時和の方に目をやると、本を取り出して、読んでいるふりをしながら、通り過ぎる美女を眺めていた。俺の手伝いを頼むのも悪いな。俺は一つ溜め息をつくと、より良い風景を求めて歩き出した。
あちこち回ってみるが、平日でもあるせいかあまり人はいない。いるのは時和のような大学生のバカップルと、チャラいサーファー程度であった。どうやら、人物画は書けないようだ。諦めて素直に海の絵を描くことにする。
適当な砂浜に腰を下ろして、まずは鉛筆を走らせる。しかし、海というのは描くのになかなか苦労をするようだ。寄せては引いていく波打ち際が、止まってくれずに良く動く。沖の方も大波小波と流動的で描きにくい。どうやら、テーマを海として勝負に持ち込んだのは、この難しさで俺を牽制するためなのだろう。たどたどしく鉛筆を動かしていた。それに、この色鉛筆というのも非常に厄介である。絵の具のように色を混ぜることが出来ないので、色の線を重ねて混ぜようと試みる。しかし、素人には一本一本の線が独立し、海が汚れていく。太陽は刻一刻と移動していき、最も暑い時間を通り越した。
あっという間に一時間が過ぎる。俺の手元に出来た絵は、観た人が俺の精神状態を心配するような絵に仕上がっていた。
時和の元に集まると、早速品評会が行われた。まずは俺の絵を披露する。三人とも眉をしかめて、うへえと一言だけ漏らし、俺に心の病気か?と口々に尋ねた。
俺の精神状態は良好だと説明するのにいくらかかかり、小林君は自分の絵をなかなか披露できずにうずうずしていた。
「よし、次は小林だ。」
時和の言葉に待ってましたとばかりにスケッチブックを見せつける。やはり大学で専門的に学んでいるだけあって、見事な出来だった。最上さんが砂浜で楽しげに砂のお城を作っている様子が描かれていた。彼女の白い肌に魅惑的な肉体。黒い髪をかきあげて大人な雰囲気を醸し出しながらも、無邪気に遊んでいる様子が見事に描かれていた。
俺を含めた三人の誰もが嘆息を漏らし、賞賛の言葉を投げかける。小林君は得意げだった。俺は心の中で素直に負けを認めた。
「よし、じゃあ、二人は待っていてくれ。」
オーディエンスの二人は、俺達から少し離れた所で絵について議論を交わし始めた。
「やっぱ、すげえよ、小林君。ずるいよ。」
「へへん。頑張ったもん。」
小林君は得意そうだ。写真の勝負の一件をそうとう根に持っていたようだった。今回ばかりは仕方がない。俺は素直に賞賛の言葉を贈ることにした。
しばらくして、三人がこちらに近づいてきた。どうやら議論が終わったようだ。俺も負けと分かっているが、一応ドキドキして彼らの言葉を待った。最上さんが代表して話し出す。
「議論が終わりました。判定は多数決で行います。藤咲君の絵が良かった人は右手を。小林君の絵が良かった人は左手を挙げて、多くの手が挙がった人が勝ちです。それでいいですね?」
俺と小林君は頷き、承諾した。小林君は手を合わせ、天に祈っている。
「では、どっちが良かったでしょうか。手を挙げて下さい。」
一瞬の間の後、二人とも右手を挙げた。あまりの意外さに、俺は一瞬言葉を忘れ、小林君は膝から崩れ落ちた。
「なぜだあ!」
海に小林君の声が響き渡る。悔しさと三人への猜疑心が、彼の顔を歪めた。
「だって、小林。テーマが海なのに、お前の絵には海が入ってないじゃん。」
「あ。」
小林君はすぐに判定に納得をし、砂に顔を埋めて恥ずかしがった。