夏の算段
「おい、小林。まだ終わんねえのかよ。」
「うん。まだ。あと十分位かな。」
時和は小林君の前で上半身半裸になり、考える人よろしく椅子に座らせられていた。額には玉粒のような汗をびっしりと光らせている。心を加えるために必死に動いている筆先を睨みつけ、苦悶の表情を浮かべていた。小林君はスケッチブックにかぶりつき、こちらは滝のように汗を流していた。頭に巻いている捻じり鉢巻きでは吸い取れない汗が床に滴っている。窓から入る涼しい風が部屋を通り抜けていくうち、熱風に変わるほどに部屋の中は集中していた。エアコンを点ければいいのに。
前期試験も無事に終わり、俺と時和は人生の夏休みの中の夏休みに突入した。来年には就職活動が始まる俺達にとっては、最後の自由な日々だ。その薔薇色の夏休みを不意にしないためにも、どのように過ごすのか話し合うために小林の部屋に集まったのだ。
「それにしても、人物画百枚はないよなあ。」
俺は半分に折れるアイスに吸いつきながら茶々を入れていく。それに答えてくれるものはいない。ただ俺の氷を食む音が響き渡った。
「よおし、もう良いよ。これで僕も晴れて夏休みだ。」
時和は膝から崩れ落ちた。
「あー。俺が安易だったよ。」
「本当、ありがとうね。はいこれ。」
努力家の絵描きは紙パックのアイスコーヒーを涅槃像に渡した。
「あ、砂糖入れてくれよ。」
「自分で入れてくれ。」
投げられたガムシロップを受け取った彼は、豪快にコーヒーに加えた。
「あー。心に染みわたるわ。この味。」
「本当だね。」
放心状態でぐったりしている二人に、本題を振ることにした。
「で、どうするよ。夏休み。」
「海行こうぜ!海!」
「海賛成。海の絵描きたい!」
今の暑さから解放されたいだけだろうが、海に行くのは賛成だ。
「で、キャンプ!」
「バーベキュー!」
夏に懸ける熱き妄想は留まることを知らなかった。このほとばしる熱いパトスを冷まそうとエアコンのリモコンを点けようとしたが、小林君の、
「あ、今壊れてるんだ。」
という言葉で、冷静な話し合いをすることは到底叶わなかった。
日は高く登り、部屋の中を明るく照らしている。蒸した空気が灰色のTシャツを黒く湿らせていた。
「海に行くなら、水着買わねえとな。」
時和が飲み終わったアイスコーヒーの氷水をすすりつつ言った。先程の絵のモデルになるという身体的硬直が余程堪えたのか、水を吸ったお麩程に筋肉が弛緩している。窓ガラスを通して空を見る目は、これからの夏に思いを馳せているようだった。
「そういえば、最近、彼女とはどうなんだよ。」
あれから、どうなったのだろうか。彼女にはちゃんと謝れたんだろうか。気になった俺は聞いてみた。
「どうなんだよう。」
この間の話を了解している小林君は、目をキラキラさせながら言葉を待っている。椅子を前後に揺らしながら、時和の発言を促した。
「上手くいったよ。彼女、俺が寝ていたことに気づいてなかったみたいだから、めっちゃ怒られたけど、でも、許してくれたよ。あれからまた一緒に観てくれてな。上演中は俺が寝そうになったら、手を強くぎゅって。」
「ひゅーひゅー。」
「やめてくれよ小林。」
そのように、照れた様子を見せた後、またもやがっくりと俯いた。俺と小林君は互いに目を合わせた後、俺が事情を尋ねるようにと目配せしてきた。俺は一つ息ついた後、なるだけ刺激しないよう遠慮がちに尋ねた。
「どうしたんだ?」
「実はよ、俺、また失敗しちゃって。」
「というと?」
「俺さ、この間のお詫びにと思って水着を買ってあげようと思ったんだ。」
何かしらの下心の匂いがする。小林君も察したのか、視線をどこか遠くに飛ばして耳をそばだてている。俺も同じように視線を遠くへやり、小林君とシンクロした。
「彼女はワンピース型でいいって言ったんだが、地味でな。俺はカラフルなビキニを押したんだ。そしたら。」
「そしたら?」
「彼女の下乳が水着からまろびでて……。」
そこから先の時和の言葉は耳に入らなかった。ただただ羨ましかった。愛する異性のいない自分の自尊心に会心の一撃を受ける前に、俺も小林君も、視覚からの情報と聴覚からの情報を遮断した。瞼の裏に映る嫉妬の炎に身を焼かれながらも、心の中の美しい風景を満足行くまで楽しんだ。
時和が煙草を取り出し、煙を燻らせる。一通りの惚気を吐き出し終わったのだろう。窓から入ってくる力強い植物達が作りだした新鮮な空気が汚されているのを匂い取ったので、俺と小林君は視覚と聴覚を取り戻した。目に夏の明るい日差しが突き刺さる。目の調節が出来るまで頭がクラクラした。
「で、どうするんだよ。夏。」
深く煙を吸い上げ、煙とともに問題を吐き出した。小林君は少し咳き込み、携帯の画面を俺達に見せる。そこには綺麗な海が写っていた。冷えていそうな波の飛沫に、身体がうち震えた。
「海、行こうぜ。僕さ、海の絵を描きたい。」
時和は小林君から携帯を取り上げじっと見つめていた。携帯灰皿に灰を落とし、深く考え込んでいた。
「海はいいけど、お前、大丈夫なのかよ。」
「俺は大丈夫だよ。海には入れないけど。」
小林君は、小首を傾げている。あれこれ考えているようだったが、何か思い当たったようで、頭の上に裸電球が光ったように見えた。
「あ、えっと。もしかして、カナヅチ?」
「まあ、あんまり泳ぐのは得意じゃないな。」
「じゃあ僕と一緒に絵、書こうよ。道具貸すからさ。」
「お、良いな。決着をつけよう。写真のさ。」
「ふふん。今度は勝つよ!なんたって、絵だからね。」
小林君との勝負は前回引き分けだったから、今度こそ決着をつけたい。しかし、小林君にずるいと言わせたんだ。今度は追い抜けるはずさ。そんな冷徹な自身が心の奥底から湧き立ち、どんな絵を描いてやろうかと海への期待が大きくなった。
「え?なんだよ。俺の知らないところで面白そうなことやりやがってさ。」
「お前は彼女と面白そうなことやってるだろうが。」
俺がそう言い放つと、時和は拗ねたように唇を煙草で慰めた。
「よし。じゃあ、小林の意見を尊重してさ、海を攻めることにしようぜ。」
「俺も賛成。」
「やったあ!」
小林君は嬉しさのあまり、部屋の中を飛び回っていた。元気だ。その後も話し合いと止めどない雑談が続き、すっかり夕方になってしまった。
「じゃあ、俺達、そろそろ帰るわ。じゃあな。小林。」
「うん。時和君、今日はありがとう。」
「いいってことよ。」
「藤咲君も、ばいばい。」
「ああ。またな。」
時和と一緒に小林君の家を出ると、蒸し暑かったのが、焼けるような暑さに変わった。もう日は傾いているというのに、未だに猛威を奮っている。アスファルトから何かが焼けているような臭いがした。
別れるまでの帰り道、彼はふと立ち止まってこちらを振り返った。
「なあ、藤咲よお。小林には言っても良いんじゃないか?それ。」
俺は咄嗟に下腹部の古傷を中指でなぞる。
「うん。でも、大っぴらに言うものじゃないし、その時が来たら話すさ。」
「そうか。そうだな。でも、あの時の残党がまた、つるみ始めたって噂も聞くし、味方は多い方がいいぞ。」
「まあ、考えとくよ。」
その後時和が前になり、しばらく黙って歩き続けた。俺は彼の背中を追う。一体、どんな表情をしているのだろうか。
「じゃあ。俺、こっちだから。」
「おう。またな。」
振り返った彼は笑顔を浮かべて帰って行った。俺は奴の姿が見えなくなるまで丁字路で見送り続けた。