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【自由への一歩】

「キイちゃーん。また来たでー」

 今日もドアの向こうから声が聞こえる。しかし僕はもうまともに取り合わないつもりだ。

「キイちゃん、ええとこ見つけたで! キイちゃんが喜んで行きそうな所!」

 アキトはやけに嬉しそうに呼びかけてくる。なにか企んでいるに違いない。

「あー、はいはい。どうせメイド喫茶とか言うんでしょ」

「うーん、惜しい! 喫茶店、ってところまでは合っとるんやけど」

「じゃあ何、ツンデレ喫茶? 妹喫茶?」

「へー、キイちゃん結構マニアックな店いろいろ知っとるんやなあ」

「て、テレビとかパソコンで見ただけ!」

「ふふふ。正解は、猫カフェでしたー」

「猫カフェ……」

 その誘惑には、今までで一番心が揺らいだ。僕は猫がすごく好きなのだが、実際に触れ合う機会はなかなか無い。かつてこの近所で見かけていた野良猫も、大型犬を飼っている家族が引っ越してきたせいか見かけなくなってしまった。もう何年もあの柔らかい毛並をもふもふと撫でていない。

「キイちゃんは猫好きなんやないかなー、て前から思っててん。インドアな人とかネットよくやる人に猫好きが多い気がしてな。あ、ちなみにオレも猫好きなんよ。あの肉球をプニプニするのがたまらんよなー」

 アキトが幸せそうにそう語るのを聞いて、さらに僕の心は揺らぐ。僕も肉球を触るのは好きだ。イメージが脳内で広がって、うずうずしてくる。

「……その猫カフェって、どこにあるの」

「お、興味もってくれたようやな。ここから二駅くらいのとこやで」

「二駅、か……」

 電車にはここ数年乗っていない。あの密室に見知らぬ数人で閉じ込められる状況があまり好きではないからだ。高校は自転車で行けるところだったし、買い物も自転車で行ける距離にショッピングモールがあるのでそこで事足りていた。

「どうしても電車に乗らないといけない?」

「電車苦手なんか?」

「まあ……そう、だな」

「うーん、多分調べれば他の方法も見つかるんとちゃうかな。そんなに距離は離れてへんと思うし」

「自転車とか徒歩で行ける?」

「行けると思うで。そや、散歩も兼ねて歩いていくのもええかもな」

 気づくと、自分の手がドアノブにかかっていた。

 アキトは面倒だ。不自由な生活は続けたい。しかし、あの無邪気に遊ぶ猫の姿がチラチラと頭をよぎって、僕の背中を押してくる。この機会を逃してしまったらいつ叶えられるかわからない小さな夢。

「アキト、一つだけ約束してくれないか」

「ん? なんや?」

「僕が外に出たからと言って、すぐにこの不自由さを失うつもりはない。今日は今日、明日は明日。自由になったわけじゃない。僕はまだここから完全には出ないから」

 そう言った後、しばらく沈黙が続いた。

「不自由さを失うつもりはない、か」

 アキトは確かめるように呟くと、ふふ、と微かに笑った。

「わかっとるよ。いきなり無理はさせへん。とりあえず、外の空気吸って、可愛え猫と触れ合って、気分変えるだけにしとこか」

 

 ドアを開けると、そこにはアキトがいた。

 しかし、前に見た時と、その姿はあまりにも違った。

「えっ……アキト、だよな?」

「せやで。炭谷アキトや」

「……肥えた?」

「残念ながら、こっちが本当の姿なんや」

 どうみても以前見た時より丸みのあるシルエットに、僕はもうこみ上げてくる笑いを抑えられなかった。

「ふ、ぶふ、はははは! なにその身体!」

「おいおい、そんな笑うなやー。自分でも気にしとるんやぞー?」

「だ、だって、全然違うじゃねえか! こんな、ぶふっ、丸い……あっはははは!」

 腹筋が疲れそうなくらい笑ってしまった。あんなに恐れていた相手の本当の姿はこんなに弱そうなおっさんだったのだ。自分が馬鹿らしくなったのと、少しホッとしたのがない交ぜになって、笑い声になった。

「……馬鹿にされているとはいえ、まあ、キイちゃんが楽しそうなら良かったわ。ムスッとしとるより、そっちのほうがずっとええ」

 頭を掻きつつアキトは苦笑いした。


 指輪に込められた父親の力のおかげで超能力を使えることと、指輪を嵌めると容姿が変わることをアキトから聞いて、僕はますます恐怖感が抜けた。

「じゃあずっと指輪つけてればいいじゃん」

「それがそうもいかんのや。たぶん超能力使う代わりに体力つかっとるらしくてな。ずっとつけとるとだんだんしんどなって、しまいには耐えられへんようになるんや」

「確かに、何の犠牲もなくずっと使えたら大変だもんな。そのうち犯罪とかに使いそうだし」

「オレは悪人にも正義のヒーローにもなるつもりないから、そんな関係ないけどな」

「あーはいはい。今のところ悪人まっしぐらだけどな」

「えー、どこが?」

「そうやって自覚がないところだよ」

 アキトは「んー」と不服そうな顔をしつつ、勝手に僕のベッドの上に座った。しかし他に座らせる場所もないので、仕方なく僕もその隣に座って話を続けることにした。

「で、いつ行くんだ、さっきの」

「来週の水曜ならハルカも予定開いとるみたいやから、三人で行かへん? オレと二人っきりやと不安やろ」

「ハルカ、さん?」

「ああ、まだ話してへんのやった。オレの親友や。めっちゃしっかりしとるヤツやで」

「他人と一緒にいるのはちょっと嫌だけど、アキトと二人よりはマシか……。じゃあ水曜でいいよ。……あれ?」

 そのとき僕はふと疑問が浮かんだ。

「そういえばあんた、仕事はなにしてんの?」

「ん? してへんよ」

「してない……って、ニートってこと!? なんだよ、僕に外に出ろとか言える立場じゃないじゃん」

「いや、オレはニートやけど、引きこもりとはちゃうで。たまには外にも出とる」

「似たようなもんだよ!」


 目の前に居る人間が、超能力で僕をねじ伏せたあの男と本当に同一人物なのか疑わしくなってきた。鋭い目は光を失っているし、あごはたるんでいるし、焦げ茶の髪も寝癖だらけ。

声にも張りがなくふにゃふにゃと力の抜けそうな話し方だ。

――僕はあのとき夢をみていたんだろうか?

「あんた……本当にアキトなんだよな?」

「なんや信じられへんのか? うーん、しゃあない、ちょっとだけ見せたるか」

 アキトはポケットから、あのおもちゃの指輪を取り出した。そして左での小指にねじ込む。


 突如、目の前が緑色のまぶしい光でいっぱいになった。

「うわっ」

 思わず目を閉じてしまい、その瞬間なにがあったのか見ることが出来なかったが、目を開けたときにはアキトはあの細いシルエットに変身していた。眼光するどい目、長いまつげ、シャープな輪郭、すらりと伸びた四肢。さきほどまで話していたダメニートとは別人のようだ。

「ほらな。オレやろ?」

「ほ、本当だ。すげえ……」

 改めてアキトの能力を見て、今起こっている事態が現実離れしていることを実感した。漫画やアニメの世界のようなことが目の前で起こったのだ。数日で太ることはできるが、一瞬でここまで身体の構造が変わってしまうのは、科学の力ではきっと無理だ。常人には理解できない現象が起こっている。

「んもー、キイちゃんは疑り深いんやから。ありのままを受け入れて気楽に生きればええんやって。そうすれば引きこもる気も無くなってくるはずや」

 そう言いながら指輪を外すと、またも緑の閃光が目の前に広がり、一瞬のうちにアキトはあの丸いフォルムに戻っていた。

「……そんな簡単に出来るかよ。信じるなんて」

「今すぐは出来へんけど、いつかは出来ると思うで」

 アキトはにっこりと笑った。

 その姿と言葉がむず痒くてうつむいてしまう。

――本当によくわからないヤツだ。


 その翌週の水曜日、午後二時。僕は家の玄関で靴を履いた状態でたたずんでいた。気持ちがソワソワして落ち着かず、だいぶ早い時間から出かける準備をしてしまったので、時間が余ってしまった。

「キイちゃんが家から出てくれて嬉しいわ、アキトさんのおかげね」

 母さんはまるで自分が出かけるかのようにウキウキとした様子で、後ろから僕を見ていた。

――アキトさんのおかげ、か。

「ア――伯父さんのおかげというより、僕は単に猫カフェにいってみたかっただけだから」

 思わずいつもの調子で呼び捨てにしそうになったが、言い切る前に言い直せた。僕が呼び捨てにしていたらきっと叱られてしまうだろう。

「そうなの? でも知らなかったわ、キイちゃんがそんなに猫が好きなんて」

「えっ……言ったことなかったっけ?」

「あら? 聞いたことなかったわよ」

 心のどこかで、母さんは僕のことを誰よりも知っているものだと思っていたので、少し驚くと共に寂しくなった。猫が好きだ、という簡単な情報も伝わってなかったのか。いかに母さんに対して自分のことを伝えていなかったのかを痛感して、出かける前から気持ちが盛り下がる。

――どれだけ僕はダメなんだ。


「きーいーちゃーん! 迎えに来たでーっ!」

 玄関扉の向こうから、あのアホな声が聞こえてきた。

「ほら、アキトさん来たわよ。いってらっしゃい。失礼のないようにね」

 母さんに背中を軽く押され、僕はそのままの勢いで扉を開ける。


 ふと、子供の時の記憶がフラッシュバックする。

 いつもウジウジと学校に行くのを渋っていた僕の背中を、いつもこうして父さんが押してくれたことを思い出す。そのまま勢いをつけて学校まで駆けていったことも。


 外の世界は春のにおいで充ちていた。

 木花や土のにおいが溶け込んだ風が鼻に、口に、パーカーのフードに吹いてくる。空に浮かぶ雲が遠くて、地球が大気の層に覆われていることを思い出す。スニーカー越しに伝わるコンクリートの感触。なにもかもが「むきだし」な世界を、カスタードクリーム色の暖かな日射しが照らしている。

「おー、おはようキイちゃん」

 いつもの調子でそう言ったアキトの頭を、隣にいた男の人がばしっ、とはたいた。

「おはようやないやろ、世間ではもう『こんにちは』の時間や。あ、キイタ君、すまんな。さっきも大声で呼ばれて恥ずかしかったやろ? ホンッマにこいつはアホなんやから!」

 さらにもう一発、アキトの肩にツッコミが入った。

やりとりを見て、この人がハルカさんだとすぐに確信した。身なりに清潔感があるし、アキトへのツッコミも容赦がない。今の強いツッコミは親友でなければ出来ないはずだ。

「あ、いえ、大丈夫です。慣れましたから」

「慣れるほどやってたんか……ホンマにすまんな。代わりに謝っとくわ。あ、紹介が遅れてもうたな。俺は――」

「ハルカさん、ですよね。アキトから話は聞いてます」

 僕のその言葉を聞いて、ハルカさんはアキトをぎっ、と睨んだ。

「キイタ君にあることないこと……特に『ないこと』を話しとるんやないやろうな」

「話してへんがな!名前教えただけやから!」

「ホンマやろうな?」

「ホンマやって」

 ハルカさんの前ではアキトも蛇に睨まれたカエルのようだ。偉そうなことを言っていたアキトがこうしてしょぼんとしているのを見るのは、妙に気分が良いし面白い。

 僕が思わず笑い出すと、アキトはこちらをちらりと見て微笑んだ。









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