後編
エリオット・グレンヴィルは、幼い頃から泣かない子どもだった。
泣かなかったのではない。泣いても、誰も来なかったのだ。
熱を出した夜、寝台の上で何度も母を呼んだことがある。けれど来たのは乳母だった。
「奥様は夜会に出ておられます」
乳母は優しかった。薬も飲ませてくれた。額の布も替えてくれた。
けれど幼いエリオットが欲しかったのは、乳母の手ではなかった。母に名前を呼んでほしかった。父に大丈夫だと言ってほしかった。ただ、それだけだった。
けれど、それは叶わなかった。
ある年、剣術の試合で褒められたことがある。家庭教師が父に報告すると、父は書類から顔も上げずに言った。
「グレンヴィルの者なら当然だ」
それだけだった。
十歳の誕生日には、父も母も屋敷にいなかった。用意されていたのは立派な贈り物と、冷めた夕食。
その日から、エリオットは何かを期待することをやめた。
愛されたいと思うから、苦しくなる。ならば、最初から望まなければいい。
そうして大人になった。夫になった。父になった。
けれど本当は、何もわかっていなかったのだ。
「お父さまは、わたしのこと嫌いですか?」
エイミーの声が、何度も胸の奥で響いていた。
エリオットは自室に戻り、窓辺に立ったまま夜明けまで動けなかった。
嫌いなはずがない。愛している。誰よりも大切だ。レオノーラも、エイミーも。
けれど、その言葉を口にする方法がわからなかった。
言えばいいだけだと、頭ではわかる。それなのに喉が塞がる。抱きしめればいいとわかっている。それなのに手が止まる。
もし拒まれたら。迷惑だと思われたら。自分のような人間が触れてはいけないのなら。
そんな思いが、いつも先に立った。
「旦那様」
背後から声がした。振り返ると、執事のセドリックが静かに立っていた。
「……入っていたのか」
「失礼いたしました。何度かお声をかけましたが、お返事がありませんでしたので」
「そうか」
エリオットは目元を押さえた。
「エイミーは」
「泣き疲れてお休みになりました。奥様がついておられます」
「……そうか」
安堵したはずなのに、胸は痛んだままだった。
セドリックはしばらく黙っていた。そして、必要な時だけ言葉を置くように言った。
「旦那様は、お嬢様を愛しておいでです」
「当然だ」
「奥様も、大切にしておいでです」
「当然だ」
「ですが、奥様もお嬢様も、その当然を知りません」
エリオットは顔を上げた。
「……知っているはずだ。私は、二人を不自由させたことはない」
「はい」
「必要なものは用意している。危険がないよう気を配っている」
「はい」
「レオノーラが熱を出した時も、医師を呼んだ。花も届けた」
「存じております」
「ならば」
「旦那様」
セドリックの声は穏やかだった。
「奥様が欲しかったのは、花だけではありません」
エリオットは言葉を失った。
「お嬢様が欲しかったのは、立派な贈り物だけでも、短い褒め言葉だけでもありません」
「……では、何だ」
「言葉です」
あまりにも簡単な答えに、エリオットは息が詰まった。
「抱きしめる腕です。笑顔です。そして、想いを伝えることです」
「……私は」
「旦那様は、それをもらえなかった。ですから、差し出し方がわからないのだと思います」
静かな一言が、胸の深い場所に触れた。
エリオットは窓の外を見た。朝が近い。空の端が、少しずつ白くなっていた。
「私は……父のようにはなりたくなかった」
「はい」
「母のようにも」
「はい」
「だから、同じことはしないようにしてきたつもりだった」
セドリックは何も言わなかった。それが答えだった。
エリオットは唇を引き結ぶ。
「私は、同じことをしていたのか」
「完全に同じではありません」
セドリックは首を横に振った。
「旦那様は、奥様とお嬢様を見ておられました。大切にしておられました。ただ、届いていなかったのです」
「届いて、いなかった」
「はい」
エリオットは目を閉じた。
昨夜のエイミーの涙。レオノーラの震える声。
――私はただ、もう少し近くにいたかっただけです。
その言葉が、今になって胸に刺さる。
自分は、二人を自由にしているつもりだった。苦しめないようにしているつもりだった。
けれど、二人が望んでいたのは自由ではなかった。
近くにいることだった。
「セドリック」
「はい」
「私は、どうすればいい」
セドリックは少しだけ微笑んだ。
「まずは、奥様にお会いください」
◇
朝食の前、エリオットはレオノーラの部屋を訪ねた。
扉の前で、何度も手が止まる。昨夜のように逃げれば、また同じことになる。そう思い、息を整えて扉を叩いた。
「はい」
中から聞こえた声は、少し疲れていた。
入ると、レオノーラは窓辺に座っていた。蜂蜜色の髪が朝の光を受けて柔らかく輝いている。けれど、その瞳の下には薄い疲れがあった。
「エイミーは」
「まだ眠っています」
「そうか」
それだけで、また沈黙が落ちる。けれど今度は、逃げてはいけなかった。
「レオノーラ」
「はい」
「昨日は、すまなかった」
レオノーラは静かにこちらを見た。
「エイミーにですか」
「君にもだ」
エリオットは拳を握った。
「私は、君たちを傷つけた」
「……傷つきました」
穏やかな声だった。けれど、その言葉は真っ直ぐだった。
「エリオット様に悪気がないことは、わかっています」
「ああ」
「私を気遣ってくださっていることも、エイミーを大切にしてくださっていることも、頭ではわかっていました」
レオノーラは膝の上で指を重ねた。
「でも、心が時々、わからなくなるのです」
「……」
「花を贈られるより、部屋へ来てほしかった。体調を尋ねられるより、大丈夫だと手を握ってほしかった」
声が少し震える。
「エイミーも同じです。上手だな、頑張ったな、と言っていただけたことは嬉しかったと思います。でも、あの子は抱きしめてほしかったのです」
エリオットは目を伏せた。
「私は」
言葉が喉で止まりかける。それでも、続けた。
「どうすればいいのか、わからなかった」
「なぜですか」
「拒まれると思った」
自分で口にして、その幼さに愕然とした。けれど、それが本当だった。
「君たちにではない。誰かに拒まれた記憶があるわけでもない。ただ……私は、自分が愛されるような人間ではないと思っていた」
レオノーラの瞳が揺れる。
「だから、君が寂しいと言った時、私は思った。やはり私は君を幸せにできないのだと」
「それで、離縁してもいいと?」
「ああ」
エリオットは息を吐いた。
「君を縛りたくなかった。私のそばにいて苦しいなら、自由にした方がいいと思った」
レオノーラはしばらく何も言わなかった。その沈黙が怖かった。けれど、逃げずに待った。
やがて、彼女は静かに口を開いた。
「私は、離縁したいなんて言っていません」
その言葉に、胸が大きく震えた。
「私は、あなたから自由になりたかったのではありません」
レオノーラの琥珀色の瞳に涙が浮かぶ。けれど、彼女は泣き崩れなかった。真っ直ぐにこちらを見ていた。
「あなたと、家族になりたかっただけです」
エリオットは言葉を失った。
家族。
その言葉は、あまりにも温かく、あまりにも遠いものだった。
「私も完璧な妻ではありません。寂しいと言いながら、あなたが何に怯えているのか、ちゃんと見ようとしていなかったのかもしれません」
「それは違う」
「でも、これからは知りたいのです」
レオノーラは立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。エリオットは反射的に一歩下がりそうになったが、踏みとどまった。
レオノーラが手を伸ばす。その手が、エリオットの指先にそっと触れた。
たったそれだけで、胸の奥が痛くなった。
「エリオット様」
「……ああ」
「私の隣にいてください」
優しい声だった。
「そして、エイミーのそばにいてあげてください」
エリオットは、触れられた手を見つめた。逃げなくていい。離さなくていい。そう言われているようだった。
「私は」
喉が震える。
「君に、愛されてもいいのだろうか」
レオノーラの瞳から、涙がひとつ落ちた。
「もう、愛しています」
その言葉は、エリオットが人生で一度も受け取れなかったものだった。
胸の奥に閉じ込めていた何かが、音もなく崩れる。
「……私は、どう返せばいい」
「そのままでいいのです」
レオノーラは微笑んだ。
「ただ、言葉にしてください」
エリオットは震える息を吸い、ようやく妻の手を握り返した。
「レオノーラ」
「はい」
「私は、君を愛している」
ひどく不器用な声だった。
けれど、嘘のない声だった。
「今まで、伝えられなくてすまなかった」
レオノーラは泣きながら笑った。
「はい」
「これからも、うまくできないかもしれない」
「はい」
「だが、逃げない」
その言葉に、レオノーラは何度も頷いた。
「それで十分です」
エリオットは初めて、自分から妻を抱きしめた。
腕の中の体は温かかった。拒まれなかった。むしろ、レオノーラの手が背中に回る。
その瞬間、エリオットはようやく理解した。
愛されるとは、奪われることではない。縛られることでもない。
こうして、帰ってきてもいい場所を与えられることなのだと。
◇
翌朝。
エイミーは少し目を腫らして起きてきた。朝食の席には、レオノーラとエリオットが並んでいる。
いつもと同じ朝。けれど、エリオットにとってはまったく違う朝だった。
エイミーは椅子の横で立ち止まり、父を見上げた。
「お父さま……おはようございます」
その声には、少しだけ不安が混じっていた。
エリオットは椅子から立ち上がった。たったそれだけで、エイミーの肩が小さく揺れる。
怖がらせたいわけではない。急ぎすぎてもいけない。エリオットは膝を折り、娘と目線を合わせた。
「おはよう、エイミー」
エイミーは驚いたように目を瞬いた。
エリオットは何度も心の中で練習した言葉を、ゆっくり口にした。
「昨日は、すまなかった」
「……エイミー、悪い子だった?」
「違う」
すぐに首を横に振る。
「悪いのは私だ」
エイミーの瞳が揺れた。
「私は、エイミーに伝えなければいけないことを、ずっと伝えていなかった」
「伝えること?」
「ああ」
エリオットは手を伸ばしかけて、また少し迷った。けれど、今度は止めなかった。
小さな手に、そっと触れる。エイミーは逃げなかった。
「エイミー」
「はい」
「私は、エイミーを愛している」
娘の灰青色の瞳が、大きく開かれた。
「とても愛している」
声が震えた。それでも、最後まで言う。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
エイミーの目から涙があふれた。
「ほんとう?」
「ああ」
「エイミーのこと、嫌いじゃない?」
「嫌いなはずがない」
エリオットは首を横に振った。
「大好きだ」
その言葉を口にした瞬間、エイミーが飛び込んできた。小さな体が胸にぶつかる。エリオットは一瞬だけ息を止めたが、すぐにその体を抱きしめた。
壊れそうなくらい小さくて、温かかった。
「お父さま」
「ああ」
「エイミーも、お父さま大好き」
その一言で、エリオットの目にも涙が滲んだ。
「すまなかった」
「ううん」
「今まで、伝えられなくてすまなかった」
「うん」
「それから、昨日は『頑張ったな』だけでは足りなかった」
エイミーは父の胸に顔を埋めたまま、こくりと頷いた。
「エイミー、お父さまに抱っこしてほしかった」
「ああ」
エリオットは娘を抱き上げた。エイミーの目がぱっと明るくなる。
「昨日の踊りは、とてもきれいだった」
「ほんと?」
「ああ。くるりと回るところが、花が咲いたようだった」
エイミーは泣きながら笑った。
「お母さまと同じこと言った」
「そうか」
「うれしい」
その笑顔を見た瞬間、エリオットは胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
言葉にすればよかったのだ。こんなにも、簡単なことだった。
けれど、簡単なことを知らないまま大人になることもある。そして知らなかったことは、今から覚えればいい。
レオノーラは二人を見つめていた。涙を拭いながら、穏やかに笑っている。
エリオットは娘を抱いたまま、妻を見た。
「レオノーラ」
「はい」
「今日から、少しずつ教えてほしい」
「何をですか?」
「家族になる方法を」
レオノーラは少しだけ驚いたあと、柔らかく笑った。
「はい。私も、一緒に覚えていきます」
その言葉に、エリオットは頷いた。
◇
それから半年が過ぎた。
グレンヴィル家は、急に別の家族になったわけではない。
エリオットは相変わらず不器用だった。笑顔も、最初はぎこちなかった。エイミーに抱きつかれるたびに、どう腕を回せばいいのか一瞬迷うこともあった。
レオノーラに感謝を伝える時も、言葉を選びすぎて沈黙が長くなることがあった。
けれど、変わったことがある。
彼は、逃げなくなった。
朝、食堂に入ると、エイミーが椅子から飛び降りる。
「お父さま、おはよう!」
エリオットは自然に膝を折った。
「おはよう、エイミー。よく眠れたか?」
「うん! 今日は夢でね、大きなお花畑に行ったの」
「そうか」
「お父さまとお母さまもいたの」
エリオットは小さく笑った。
「それは楽しそうだ」
「うん!」
エイミーはそのまま父に飛びついた。エリオットはもう迷わなかった。しっかりと娘を受け止め、抱き上げる。
エイミーは嬉しそうに笑い、父の頬に小さな手を添えた。
「お父さま、今日は笑ってる」
「そうか」
「うん。エイミー、うれしい」
その言葉に、エリオットの顔が少し赤くなる。
私はその光景を、食堂の入り口から見つめていた。
半年前なら、きっと見られなかった朝だった。
あの人は、今でも完璧ではない。私も、きっと完璧な妻ではない。エイミーだって、時々寂しくなれば泣く。
けれど、そのたびに私たちは言葉にするようになった。
寂しい。
嬉しい。
そばにいてほしい。
大好き。
たったそれだけの言葉を、私たちはずいぶん遠回りして覚えた。
「レオノーラ」
エリオットが私に気づき、少しだけ表情を和らげた。
「おはよう」
「おはようございます」
すると、エイミーが父の腕の中から手を伸ばした。
「お母さまも!」
「はいはい」
近づくと、エイミーは私の首に抱きつく。エリオットの腕が、娘ごと私をそっと支えた。
家族三人で、少し不格好に寄り添う。
それがひどく温かかった。
愛されていないのだと思っていた。
けれど夫は、愛していなかったのではない。
愛されることを知らなかった。
そして私は、愛は伝えなければ届かないのだと知った。
家族になりたかっただけだった。
けれど本当は。
家族とは、きっと、少しずつなっていくものなのかもしれない。
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