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「君が望むなら、離縁してもいい」と言った夫は愛されることを知らなかった  作者: 黒猫と珈琲


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2/2

後編

 エリオット・グレンヴィルは、幼い頃から泣かない子どもだった。


 泣かなかったのではない。泣いても、誰も来なかったのだ。


 熱を出した夜、寝台の上で何度も母を呼んだことがある。けれど来たのは乳母だった。


「奥様は夜会に出ておられます」


 乳母は優しかった。薬も飲ませてくれた。額の布も替えてくれた。


 けれど幼いエリオットが欲しかったのは、乳母の手ではなかった。母に名前を呼んでほしかった。父に大丈夫だと言ってほしかった。ただ、それだけだった。


 けれど、それは叶わなかった。


 ある年、剣術の試合で褒められたことがある。家庭教師が父に報告すると、父は書類から顔も上げずに言った。


「グレンヴィルの者なら当然だ」


 それだけだった。


 十歳の誕生日には、父も母も屋敷にいなかった。用意されていたのは立派な贈り物と、冷めた夕食。


 その日から、エリオットは何かを期待することをやめた。


 愛されたいと思うから、苦しくなる。ならば、最初から望まなければいい。


 そうして大人になった。夫になった。父になった。


 けれど本当は、何もわかっていなかったのだ。


「お父さまは、わたしのこと嫌いですか?」


 エイミーの声が、何度も胸の奥で響いていた。


 エリオットは自室に戻り、窓辺に立ったまま夜明けまで動けなかった。


 嫌いなはずがない。愛している。誰よりも大切だ。レオノーラも、エイミーも。


 けれど、その言葉を口にする方法がわからなかった。


 言えばいいだけだと、頭ではわかる。それなのに喉が塞がる。抱きしめればいいとわかっている。それなのに手が止まる。


 もし拒まれたら。迷惑だと思われたら。自分のような人間が触れてはいけないのなら。


 そんな思いが、いつも先に立った。


「旦那様」


 背後から声がした。振り返ると、執事のセドリックが静かに立っていた。


「……入っていたのか」

「失礼いたしました。何度かお声をかけましたが、お返事がありませんでしたので」

「そうか」


 エリオットは目元を押さえた。


「エイミーは」

「泣き疲れてお休みになりました。奥様がついておられます」

「……そうか」


 安堵したはずなのに、胸は痛んだままだった。


 セドリックはしばらく黙っていた。そして、必要な時だけ言葉を置くように言った。


「旦那様は、お嬢様を愛しておいでです」

「当然だ」

「奥様も、大切にしておいでです」

「当然だ」

「ですが、奥様もお嬢様も、その当然を知りません」


 エリオットは顔を上げた。


「……知っているはずだ。私は、二人を不自由させたことはない」

「はい」

「必要なものは用意している。危険がないよう気を配っている」

「はい」

「レオノーラが熱を出した時も、医師を呼んだ。花も届けた」

「存じております」

「ならば」

「旦那様」


 セドリックの声は穏やかだった。


「奥様が欲しかったのは、花だけではありません」


 エリオットは言葉を失った。


「お嬢様が欲しかったのは、立派な贈り物だけでも、短い褒め言葉だけでもありません」

「……では、何だ」

「言葉です」


 あまりにも簡単な答えに、エリオットは息が詰まった。


「抱きしめる腕です。笑顔です。そして、想いを伝えることです」

「……私は」

「旦那様は、それをもらえなかった。ですから、差し出し方がわからないのだと思います」


 静かな一言が、胸の深い場所に触れた。


 エリオットは窓の外を見た。朝が近い。空の端が、少しずつ白くなっていた。


「私は……父のようにはなりたくなかった」

「はい」

「母のようにも」

「はい」

「だから、同じことはしないようにしてきたつもりだった」


 セドリックは何も言わなかった。それが答えだった。


 エリオットは唇を引き結ぶ。


「私は、同じことをしていたのか」

「完全に同じではありません」


 セドリックは首を横に振った。


「旦那様は、奥様とお嬢様を見ておられました。大切にしておられました。ただ、届いていなかったのです」

「届いて、いなかった」

「はい」


 エリオットは目を閉じた。


 昨夜のエイミーの涙。レオノーラの震える声。


 ――私はただ、もう少し近くにいたかっただけです。


 その言葉が、今になって胸に刺さる。


 自分は、二人を自由にしているつもりだった。苦しめないようにしているつもりだった。


 けれど、二人が望んでいたのは自由ではなかった。


 近くにいることだった。


「セドリック」

「はい」

「私は、どうすればいい」


 セドリックは少しだけ微笑んだ。


「まずは、奥様にお会いください」



 朝食の前、エリオットはレオノーラの部屋を訪ねた。


 扉の前で、何度も手が止まる。昨夜のように逃げれば、また同じことになる。そう思い、息を整えて扉を叩いた。


「はい」


 中から聞こえた声は、少し疲れていた。


 入ると、レオノーラは窓辺に座っていた。蜂蜜色の髪が朝の光を受けて柔らかく輝いている。けれど、その瞳の下には薄い疲れがあった。


「エイミーは」

「まだ眠っています」

「そうか」


 それだけで、また沈黙が落ちる。けれど今度は、逃げてはいけなかった。


「レオノーラ」

「はい」

「昨日は、すまなかった」


 レオノーラは静かにこちらを見た。


「エイミーにですか」

「君にもだ」


 エリオットは拳を握った。


「私は、君たちを傷つけた」

「……傷つきました」


 穏やかな声だった。けれど、その言葉は真っ直ぐだった。


「エリオット様に悪気がないことは、わかっています」

「ああ」

「私を気遣ってくださっていることも、エイミーを大切にしてくださっていることも、頭ではわかっていました」


 レオノーラは膝の上で指を重ねた。


「でも、心が時々、わからなくなるのです」

「……」

「花を贈られるより、部屋へ来てほしかった。体調を尋ねられるより、大丈夫だと手を握ってほしかった」


 声が少し震える。


「エイミーも同じです。上手だな、頑張ったな、と言っていただけたことは嬉しかったと思います。でも、あの子は抱きしめてほしかったのです」


 エリオットは目を伏せた。


「私は」


 言葉が喉で止まりかける。それでも、続けた。


「どうすればいいのか、わからなかった」

「なぜですか」

「拒まれると思った」


 自分で口にして、その幼さに愕然とした。けれど、それが本当だった。


「君たちにではない。誰かに拒まれた記憶があるわけでもない。ただ……私は、自分が愛されるような人間ではないと思っていた」


 レオノーラの瞳が揺れる。


「だから、君が寂しいと言った時、私は思った。やはり私は君を幸せにできないのだと」

「それで、離縁してもいいと?」

「ああ」


 エリオットは息を吐いた。


「君を縛りたくなかった。私のそばにいて苦しいなら、自由にした方がいいと思った」


 レオノーラはしばらく何も言わなかった。その沈黙が怖かった。けれど、逃げずに待った。


 やがて、彼女は静かに口を開いた。


「私は、離縁したいなんて言っていません」


 その言葉に、胸が大きく震えた。


「私は、あなたから自由になりたかったのではありません」


 レオノーラの琥珀色の瞳に涙が浮かぶ。けれど、彼女は泣き崩れなかった。真っ直ぐにこちらを見ていた。


「あなたと、家族になりたかっただけです」


 エリオットは言葉を失った。


 家族。


 その言葉は、あまりにも温かく、あまりにも遠いものだった。


「私も完璧な妻ではありません。寂しいと言いながら、あなたが何に怯えているのか、ちゃんと見ようとしていなかったのかもしれません」

「それは違う」

「でも、これからは知りたいのです」


 レオノーラは立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。エリオットは反射的に一歩下がりそうになったが、踏みとどまった。


 レオノーラが手を伸ばす。その手が、エリオットの指先にそっと触れた。


 たったそれだけで、胸の奥が痛くなった。


「エリオット様」

「……ああ」

「私の隣にいてください」


 優しい声だった。


「そして、エイミーのそばにいてあげてください」


 エリオットは、触れられた手を見つめた。逃げなくていい。離さなくていい。そう言われているようだった。


「私は」


 喉が震える。


「君に、愛されてもいいのだろうか」


 レオノーラの瞳から、涙がひとつ落ちた。


「もう、愛しています」


 その言葉は、エリオットが人生で一度も受け取れなかったものだった。


 胸の奥に閉じ込めていた何かが、音もなく崩れる。


「……私は、どう返せばいい」

「そのままでいいのです」


 レオノーラは微笑んだ。


「ただ、言葉にしてください」


 エリオットは震える息を吸い、ようやく妻の手を握り返した。


「レオノーラ」

「はい」

「私は、君を愛している」


 ひどく不器用な声だった。


 けれど、嘘のない声だった。


「今まで、伝えられなくてすまなかった」


 レオノーラは泣きながら笑った。


「はい」

「これからも、うまくできないかもしれない」

「はい」

「だが、逃げない」


 その言葉に、レオノーラは何度も頷いた。


「それで十分です」


 エリオットは初めて、自分から妻を抱きしめた。


 腕の中の体は温かかった。拒まれなかった。むしろ、レオノーラの手が背中に回る。


 その瞬間、エリオットはようやく理解した。


 愛されるとは、奪われることではない。縛られることでもない。


 こうして、帰ってきてもいい場所を与えられることなのだと。



 翌朝。


 エイミーは少し目を腫らして起きてきた。朝食の席には、レオノーラとエリオットが並んでいる。


 いつもと同じ朝。けれど、エリオットにとってはまったく違う朝だった。


 エイミーは椅子の横で立ち止まり、父を見上げた。


「お父さま……おはようございます」


 その声には、少しだけ不安が混じっていた。


 エリオットは椅子から立ち上がった。たったそれだけで、エイミーの肩が小さく揺れる。


 怖がらせたいわけではない。急ぎすぎてもいけない。エリオットは膝を折り、娘と目線を合わせた。


「おはよう、エイミー」


 エイミーは驚いたように目を瞬いた。


 エリオットは何度も心の中で練習した言葉を、ゆっくり口にした。


「昨日は、すまなかった」

「……エイミー、悪い子だった?」

「違う」


 すぐに首を横に振る。


「悪いのは私だ」


 エイミーの瞳が揺れた。


「私は、エイミーに伝えなければいけないことを、ずっと伝えていなかった」

「伝えること?」

「ああ」


 エリオットは手を伸ばしかけて、また少し迷った。けれど、今度は止めなかった。


 小さな手に、そっと触れる。エイミーは逃げなかった。


「エイミー」

「はい」

「私は、エイミーを愛している」


 娘の灰青色の瞳が、大きく開かれた。


「とても愛している」


 声が震えた。それでも、最後まで言う。


「生まれてきてくれて、ありがとう」


 エイミーの目から涙があふれた。


「ほんとう?」

「ああ」

「エイミーのこと、嫌いじゃない?」

「嫌いなはずがない」


 エリオットは首を横に振った。


「大好きだ」


 その言葉を口にした瞬間、エイミーが飛び込んできた。小さな体が胸にぶつかる。エリオットは一瞬だけ息を止めたが、すぐにその体を抱きしめた。


 壊れそうなくらい小さくて、温かかった。


「お父さま」

「ああ」

「エイミーも、お父さま大好き」


 その一言で、エリオットの目にも涙が滲んだ。


「すまなかった」

「ううん」

「今まで、伝えられなくてすまなかった」

「うん」

「それから、昨日は『頑張ったな』だけでは足りなかった」


 エイミーは父の胸に顔を埋めたまま、こくりと頷いた。


「エイミー、お父さまに抱っこしてほしかった」

「ああ」


 エリオットは娘を抱き上げた。エイミーの目がぱっと明るくなる。


「昨日の踊りは、とてもきれいだった」

「ほんと?」

「ああ。くるりと回るところが、花が咲いたようだった」


 エイミーは泣きながら笑った。


「お母さまと同じこと言った」

「そうか」

「うれしい」


 その笑顔を見た瞬間、エリオットは胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。


 言葉にすればよかったのだ。こんなにも、簡単なことだった。


 けれど、簡単なことを知らないまま大人になることもある。そして知らなかったことは、今から覚えればいい。


 レオノーラは二人を見つめていた。涙を拭いながら、穏やかに笑っている。


 エリオットは娘を抱いたまま、妻を見た。


「レオノーラ」

「はい」

「今日から、少しずつ教えてほしい」

「何をですか?」

「家族になる方法を」


 レオノーラは少しだけ驚いたあと、柔らかく笑った。


「はい。私も、一緒に覚えていきます」


 その言葉に、エリオットは頷いた。



 それから半年が過ぎた。


 グレンヴィル家は、急に別の家族になったわけではない。


 エリオットは相変わらず不器用だった。笑顔も、最初はぎこちなかった。エイミーに抱きつかれるたびに、どう腕を回せばいいのか一瞬迷うこともあった。


 レオノーラに感謝を伝える時も、言葉を選びすぎて沈黙が長くなることがあった。


 けれど、変わったことがある。


 彼は、逃げなくなった。


 朝、食堂に入ると、エイミーが椅子から飛び降りる。


「お父さま、おはよう!」


 エリオットは自然に膝を折った。


「おはよう、エイミー。よく眠れたか?」

「うん! 今日は夢でね、大きなお花畑に行ったの」

「そうか」

「お父さまとお母さまもいたの」


 エリオットは小さく笑った。


「それは楽しそうだ」

「うん!」


 エイミーはそのまま父に飛びついた。エリオットはもう迷わなかった。しっかりと娘を受け止め、抱き上げる。


 エイミーは嬉しそうに笑い、父の頬に小さな手を添えた。


「お父さま、今日は笑ってる」

「そうか」

「うん。エイミー、うれしい」


 その言葉に、エリオットの顔が少し赤くなる。


 私はその光景を、食堂の入り口から見つめていた。


 半年前なら、きっと見られなかった朝だった。


 あの人は、今でも完璧ではない。私も、きっと完璧な妻ではない。エイミーだって、時々寂しくなれば泣く。


 けれど、そのたびに私たちは言葉にするようになった。


 寂しい。


 嬉しい。


 そばにいてほしい。


 大好き。


 たったそれだけの言葉を、私たちはずいぶん遠回りして覚えた。


「レオノーラ」


 エリオットが私に気づき、少しだけ表情を和らげた。


「おはよう」

「おはようございます」


 すると、エイミーが父の腕の中から手を伸ばした。


「お母さまも!」

「はいはい」


 近づくと、エイミーは私の首に抱きつく。エリオットの腕が、娘ごと私をそっと支えた。


 家族三人で、少し不格好に寄り添う。


 それがひどく温かかった。


 愛されていないのだと思っていた。


 けれど夫は、愛していなかったのではない。


 愛されることを知らなかった。


 そして私は、愛は伝えなければ届かないのだと知った。


 家族になりたかっただけだった。


 けれど本当は。


 家族とは、きっと、少しずつなっていくものなのかもしれない。



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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