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「君が望むなら、離縁してもいい」と言った夫は愛されることを知らなかった  作者: 黒猫と珈琲


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前編

 夫が優しくない人だと思ったことは、一度もない。


 エリオット・グレンヴィルは、辺境伯として誠実で、有能で、領民からの信頼も厚い人だった。約束を破らず、人を軽んじず、誰かが困っていれば必ず手を差し伸べる。


 だから私は、結婚したばかりの頃、きっと穏やかな家庭を築けると思っていた。


 けれど結婚して三年。私たちの間には、いつも薄い硝子のようなものがあった。


「お母さま、見て!」


 明るい声に顔を上げると、娘のエイミーが小さな手で一枚の紙を掲げていた。淡い金の髪が肩のあたりでふわふわ揺れ、父親譲りの灰青色の瞳は期待でいっぱいだった。


「まあ、きれいね。これはお庭のお花?」

「うん! こっちがお母さまで、こっちがお父さま。これはエイミー!」


 紙の中には、三人が並んで描かれていた。大きな花に囲まれ、手をつないで笑っている。


 絵の中の私たちは、とても近かった。


「とても上手よ、エイミー」

「お父さまにも見せる!」


 エイミーは嬉しそうに笑うと、小さな足音を立てて部屋を飛び出していった。私は慌てて後を追う。


 執務室の扉の前で、エイミーは背伸びをして扉を叩いた。


「お父さま!」


 しばらくして扉が開く。中から現れたエリオットは、いつものように整った服装をしていた。ダークブラウンの髪はきちんと撫でつけられ、灰青色の瞳は落ち着いている。けれど、その目元には少し疲れがあった。


「どうした」

「見て! エイミーが描いたの!」


 エイミーは両手で絵を差し出した。


 エリオットはそれを受け取り、しばらくじっと見つめた。その横顔は真剣だった。雑に見ているわけではない。ちゃんと見ているとわかるのに――。


「上手だな」


 返ってきたのは、その一言だけだった。


 エイミーは少しだけ瞬きをした。けれど、すぐに笑う。


「ほんと?」

「ああ」

「お父さま、うれしい?」


 エリオットの指が、絵の端をわずかに握った。


「……ああ。うれしい」


 その声は低く、静かだった。嘘ではない。嘘ではないと、私はわかる。


 けれど五歳の娘が欲しかったものは、たぶんそれだけではなかった。


「よかった!」


 エイミーはそう言って笑った。でも、その笑顔は部屋を出る頃には少しだけ小さくなっていた。


 廊下に戻ると、エイミーは私の手を握る。


「お父さま、忙しいの?」

「ええ。領地のお仕事がたくさんあるのよ」

「そっか」


 エイミーは納得したように頷き、それから小さな声で言った。


「じゃあ、今度また見てもらう」


 その言葉が、私の胸に静かに残った。


 エリオットは、家族を大切にしていないわけではない。エイミーの誕生日には必ず贈り物を用意する。私が好きな花も覚えている。屋敷の者たちへの配慮も欠かさない。


 けれど、言葉が少ない。表情も変わらない。近づこうとすれば、いつも一歩下がられる。


 まるで私たちが傷つかないように、彼自身が距離を置いているようだった。


 けれど、その距離で傷ついているのが私たちだとは、きっと彼は知らない。


 数日後、私は熱を出した。


 朝から体が重く、昼には起き上がれなくなった。マーサが慌てて医師を呼び、私は寝台に横になったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。


「奥様、無理をなさいましたね」


 侍女長のマーサが、濡れた布を額に乗せてくれる。


「少し疲れただけよ」

「少しで倒れる方はいらっしゃいません」


 柔らかく叱られて、私は小さく笑った。


「エイミーは?」

「お昼寝をなさっています。旦那様もすぐにお戻りになるそうです」

「そう」


 安心した。けれど同時に、胸の奥が少しだけ寂しくなる。戻ってきても、きっと彼は部屋には入らない。医師に容態を尋ね、必要なものを用意し、静かに去っていく。


 それがエリオットの優しさだと、私は知っている。


 でも。


 熱で弱った時くらい、手を握ってほしいと思うのは、わがままなのだろうか。


 夕方、目を覚ますと、枕元に淡い白い花が飾られていた。私の好きな、香りの強すぎない花だった。


「この花は旦那様が?」


 私が尋ねると、マーサは微笑んだ。


「はい。奥様のお好きな花を、と」

「……そう」


 胸が温かくなる。それなのに、同じくらい寂しくもなる。


「旦那様は?」

「先ほどまで、廊下にいらっしゃいました」

「廊下に?」

「ええ。医師に何度も容態を確認されていました。昨夜もあまりお休みになっていないようです」


 私は思わず扉の方を見た。そこに彼はいない。


 来てくれていた。心配もしてくれていた。けれど、入っては来なかった。


「どうして……」


 小さく漏れた声に、マーサは何も言わなかった。ただ、布を替えてくれた手が少しだけ優しかった。


 翌日には熱が下がった。まだ体は重かったけれど、窓辺の椅子に座れるくらいには回復した。


 午後、エリオットが見舞いに来た。扉のところで一度立ち止まり、私の顔色を確かめるように見ている。


「具合は」

「もう大丈夫です」

「無理はしない方がいい」

「はい」


 そこで会話は途切れた。


 エリオットは花瓶の花を見たあと、私に視線を戻す。


「必要なものがあれば言ってほしい」

「ありがとうございます」


 また沈黙が落ちた。窓の外では、庭の木々が風に揺れている。


 私は膝の上で指を重ねた。言わなければ、きっと何も変わらない。


「エリオット様」

「なんだ」

「少しだけ、寂しいです」


 彼の表情がわずかに止まった。


 言ってしまった。胸が痛い。けれど、もう飲み込みたくなかった。


「あなたが私を大切にしてくださっていることは、わかっています。花を届けてくださったことも、医師に何度も尋ねてくださったことも、聞きました」

「……なら」

「でも」


 私は顔を上げた。


「私は、花だけではなく、あなたに来てほしかったのです」


 エリオットは何も言わなかった。灰青色の瞳が、わずかに揺れる。けれど、その意味は私にはわからなかった。


「熱があって心細かった時、少しだけでよかったのです。手を握って、大丈夫だと言ってほしかった」

「……私は」

「あなたを責めたいわけではありません」


 そう言いながら、声が少し震えた。


「ただ、時々思ってしまうのです」


 喉の奥が苦しくなる。それでも、言葉を止められなかった。


「あなたは……私がいなくても困りませんよね」


 エリオットの目が、大きく揺れた。


「違う」


 低い声だった。


 けれど次の言葉は、私が欲しかったものとはまったく違っていた。


「君が望むなら、離縁してもいい」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。


 離縁。


 その言葉だけが、部屋の中に冷たく落ちる。


「……どうして」


 私は思わず立ち上がりかけ、ふらついた。エリオットが手を伸ばしかける。けれど、その手は途中で止まった。


「どうして、そうなるのですか」


 声が震える。


「私は、離縁したいなんて言っていません」

「だが、君は寂しいと言った」

「言いました」

「私では、君を満たせない」


 淡々とした声だった。何を考えているのかは、わからなかった。


「君を縛るべきではないと思った」

「縛る?」


 私は唇を噛んだ。


「私は、あなたに縛られているのではありません」


 エリオットは黙った。その沈黙が、ひどく遠い。


 私は胸元を押さえた。


「私はただ、もう少し近くにいたかっただけです」


 エリオットは何かを言おうとした。けれど結局、言葉は出なかった。


「今日は休んでくれ」


 そう言って、彼は部屋を出ていった。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 私は椅子に座り直し、花瓶の白い花を見つめた。


 花はきれいだった。優しさも、確かにそこにあった。


 けれど私は、その花を見ながら、初めて思った。


 もしかしたら私は、この人に愛されていないのかもしれない。



 それから数日、屋敷の空気は少しだけぎこちなくなった。


 エリオットは変わらず私を気遣った。朝食では体調を尋ねる。寒くないかと暖炉に薪を足す。外出の予定があれば馬車を整えさせる。


 けれど、あの日の言葉には触れなかった。私も触れられなかった。


 エイミーだけが、いつも通り明るく振る舞っていた。


「お母さま、明日は発表会だよ!」


 夕食後、エイミーは頬を赤くして言った。幼い子どもたちが、屋敷の小さな広間で歌や踊りを披露する催しだ。領内の子どもたちも招かれており、エイミーはずっと前から楽しみにしていた。


「楽しみね」

「うん! エイミー、いっぱい練習したの」


 そう言って、ちらりと父を見る。


 エリオットもその視線に気づいた。


「明日は行く」


 その一言で、エイミーの顔がぱっと明るくなった。


「本当?」

「ああ」

「お父さま、見てくれる?」

「もちろんだ」


 エイミーは椅子の上で小さく跳ねそうになった。


「明日はね! エイミー、お花の役なの!」

「そうか」

「くるって回るところがあるの。先生が、きれいにできたねって言ってくれたの」

「そうか」

「お父さま、ちゃんと見てね」

「ああ」


 エイミーは満面の笑みで頷いた。


 その夜、寝台に入ってからも、エイミーは興奮して眠れない様子だった。


「お母さま」

「なあに?」

「明日、お父さま笑ってくれるかな」


 私は毛布をかけ直す手を止めた。


「きっと、喜んでくれるわ」

「うん」


 エイミーは胸元で小さな手を握った。


「エイミー、頑張る。お父さまに、すごいねって言ってもらうの」


 その言葉が、私の心に柔らかく刺さった。


「そうね」


 私はエイミーの額に口づけた。


「でも、失敗しても大丈夫よ。お母さまは、エイミーが楽しんでくれたら嬉しいわ」

「うん。でも、お父さまにも嬉しくなってほしい」


 エイミーはそう言って、ようやく目を閉じた。


 翌日。


 広間には明るい陽射しが差し込んでいた。子どもたちの家族が集まり、柔らかなざわめきが満ちている。


 エイミーは淡い花色の衣装を着ていた。肩までの髪には小さなリボンが結ばれている。舞台袖からこちらを探し、私たちを見つけると、大きく手を振った。


 私は笑って手を振り返す。隣に座るエリオットも、静かに頷いた。


 それだけで、エイミーは嬉しそうに笑った。


 発表会が始まる。


 歌う子、詩を読む子、緊張して立ち尽くしてしまう子。どの子にも、家族から温かな拍手が送られた。


 エイミーの番が来る。


 小さな花の役。音楽に合わせて歩き、手を広げ、くるりと回る。少し足元が揺れたけれど、転ばなかった。最後まで一生懸命踊りきり、深くお辞儀をする。


 私は胸がいっぱいになって、誰よりも大きく拍手をした。


 エリオットも拍手していた。その横顔は、どこか眩しいものを見るようだった。


 発表会が終わると、エイミーは真っ先にこちらへ走ってきた。


「お父さま!」


 頬を紅潮させ、息を弾ませている。目はきらきら輝いていた。


「見てた?」

「ああ」

「エイミー、ちゃんとできた?」

「ああ」


 エリオットはほんの少しだけ口元を緩めた。


「頑張ったな」


 悪い言葉ではなかった。冷たい言葉でもなかった。


 けれどエイミーは、その場で一瞬だけ止まった。


「……うん」


 そして、笑った。


「ありがとう、お父さま」


 けれどその笑顔は、昨日の夜に見せたものより少し小さかった。


 私はたまらなくなり、エイミーを抱きしめた。


「とても素敵だったわ。くるりと回るところ、本当にきれいだった」

「ほんと?」

「ええ。お母さま、感動して泣きそうだったもの」


 エイミーは私の腕の中で笑った。けれど、その視線はまた父へ向かっていた。


 エリオットはそれに気づいているのか、いないのか。ただ静かに、娘を見つめていた。


 その夜、屋敷はいつもより早く静まった。発表会で疲れたのだろう。エイミーも夕食の途中から眠そうにしていた。


 私は寝室で髪を解きながら、昼間のことを思い返していた。


 エリオットは来てくれた。約束を守ってくれた。拍手もしてくれた。褒めてもくれた。


 それなのに、なぜこんなに胸が痛いのだろう。


 扉の外から、小さな足音が聞こえた。


「お母さま……」


 開いた扉の隙間から、寝間着姿のエイミーが立っていた。


「どうしたの? 眠れない?」


 私が近づくと、エイミーは唇を震わせた。灰青色の瞳に涙が浮かんでいる。


「お母さま」

「ええ」

「エイミー、今日、へただった?」

「そんなことないわ。とても上手だった」

「じゃあ……」


 エイミーは小さな手で寝間着を握りしめた。


「お父さま、うれしくなかったの?」


 胸が締めつけられた。


「エイミー」

「お父さま、頑張ったなって言ってくれた。でも、エイミー……」


 ぽろりと涙が落ちる。


「エイミー、本当は抱っこしてほしかった」


 私は言葉を失った。


 開け放したままの寝室の扉の向こうから、足音がした。


 エリオットだった。


 おそらく、声が聞こえたのだろう。


 寝室の前で立ち止まり、私たちを見る。


「エイミー」


 低い声に、エイミーの肩が震えた。怖がっているわけではない。ただ、傷ついている。


 それでも、エイミーは父を見上げた。


 涙で濡れた灰青色の瞳。


 父と同じ色の瞳。


「お父さま」


 小さな声だった。けれど、その言葉は夜の廊下にはっきり響いた。


「お父さまは、わたしのこと嫌いですか?」


 エリオットの顔から、血の気が引いた。


 彼は何かを言おうとした。けれど、言葉が出ない。


 エイミーは泣きながら続けた。


「エイミー、お父さまが大好きなの」

「……」

「だから、いっぱい頑張ったの」

「……エイミー」

「でも、お父さまはいつも、遠いの」


 私はエイミーを抱き寄せた。けれど目はエリオットから離せなかった。


 彼はそこに立ち尽くしていた。辺境伯としての落ち着いた表情は消え、ただ呆然と娘を見つめている。


 やがて、彼は掠れた声で呟いた。


「嫌いなわけがない」


 けれどその声は、あまりにも小さかった。


 エイミーには届いたのか、届かなかったのか。娘は私の胸に顔を埋めて泣いた。


 エリオットは一歩踏み出しかけた。けれど、また止まった。伸ばしかけた手が、宙で迷う。


 私は、その手から目を離せなかった。


 抱きしめたいのか。


 それとも、抱きしめられないのか。


 私には、その違いがわからなかった。


 長い沈黙のあと、エリオットは小さく息を吸った。


「……すまない」


 それだけ言って、彼は背を向けた。


 私は呼び止められなかった。エイミーを抱きしめたまま、去っていく背中を見つめることしかできなかった。


 その背中は、いつもより小さく見えた。


 私は、愛されていないのだと思っていた。


 けれど、そうではないのかもしれない。


 あの人には、私の知らない何かがある。


 そんな気がした。




後半は本日21時10分に公開予定です。

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