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第三十六話、空白の座標、虚無へのダイブ 

背後でカサンドラの研究所が、白銀の軍勢を巻き込んで紅蓮の炎を上げ、雪原へと沈んでいく。その光景を、ククルは魔導艇の小さな窓から指が白くなるほど強く握りしめて見つめていた。


「カサンドラ様……」


 少女の祈るような呟きは、激しく軋む船体の異音にかき消される。

 船内には、鼻を突く焦げた魔力の臭いと、喉を焼くような重苦しい沈黙が停滞していた。中央の寝台には、未だ死人のように微動だにしないアッシュが横たわっている。


「くそっ……! 視界がゼロだ、魔導レーダーも『秩序』のノイズで完全にイカれちまった! このブリザードじゃ、どこを飛んでるのかさえ分かんないよ!」


 テオが懸命な顔つきで、暴れる操縦桿を必死に抑え込む。しかし、ルキウスが放った『絶対秩序圏オーダードメイン』の影響か、魔導艇のエンジンは不規則な異音を立て、今にもその脈動を止めようとしていた。


「リネット様、お答えください」



 シオンが、昏睡したままのアッシュを背に庇いながら、鋭い視線をリネットに向けた。その口調は丁寧だが、逃げ場を許さない従者としての、そして一人の女としての圧を孕んでいる


「カサンドラ様は仰いました。主殿あるじどのが目覚めぬ理由も、第四の遺跡の鍵も、貴女の『過去』にあると。……リネット様、貴女は何を、隠しておいでなのですか?」


「それは……」


 リネットの指が、キーボードの上で凍りついた。

 脳裏を過るのは、かつての『一度目の旅』で、シオンが独り背負い込んだ孤独な戦いの記憶だ。


 アッシュを救いたい一心で、シオンがどれほど心を削り、禁忌の術式にその身を捧げたか。リネットは知っている。その「罪」も、その「痛み」も、本当なら今すぐ叫び出し、彼女と分かち合いたい。

 けれど――真実を口にすれば、この関係もすぐに崩れ去ってしまう。



 伝えたい、けれど伝えられない。

 せり上がる告白の衝動を、リネットは泥濘でいねいのような沈黙で無理やり押し殺した。



「……第四の遺跡は、どの古文書にも、どの地図にも載っていないわ」


 リネットは震える喉の奥から、今にも泣き出しそうな声を絞り出した。コンソールに打ち込まれた特殊なパスワードが、逃避するように画面を暗黒のノイズで埋め尽くす。


「そこは、世界の理から弾き出された『空白地帯』。物理法則も、三属性の加護も届かない場所。……空間の断層を強引にこじ開けて、その『中』に飛び込むしかないのよ!」



 その時だった。



 追撃するルキウスの旗艦から、絶対的な「秩序」を強制する極大の魔導光が放たれた。視界のすべてを奪う、死の閃光。

 だが、その光が魔導艇を呑み込み、すべてを無に帰す寸前――。




「きゃあああああぁぁっ!」



 ククル達の悲鳴さえ、真空に吸い込まれるように消えていく。


 意識が遠のく中、リネットは隣で眠るアッシュの冷たい手を、壊れ物を扱うように握りしめた。

(ごめんなさい、アッシュ

………さん……)















 不意に、耳に痛いほどの暴力的な「静寂」が訪れた。

 一行が恐る恐る目を開けると、そこはもはや元の世界ではなかった。

 空には太陽も月もなく、ただ淡く光る銀色の霧が充満している。地上には、重力を無視して逆さまに浮遊する神殿の残骸や、幾何学的な模様を描きながら回転する巨大な石塊。


「ここが……『第四の遺跡』……」


 シオンが、呻くように呟いた。

 ハッチを開けて外に踏み出した瞬間、全員が肌で理解した。ここには、外の世界を縛っている「属性」という概念が存在しない。

 魔力そのものが、形を成す前の「原初の混沌」として渦巻いている。

 アッシュの「第四段階」への昇格。そしてリネットが隠し続けてきた、この世界を狂わせた「始まりの罪」。

 全ての因縁を清算するための、出口のない白銀の迷宮――虚無の回廊へ続いていく。






━━━━━━━━━━━━━━━━━━









 カサンドラの研究所が爆炎に包まれ、アッシュたちが虚無の裂け目へと消えた直後。

 崩落する瓦礫のただ中に、ルキウスは一人、汚れ一つない白銀の甲冑を纏って佇んでいた。周囲の火柱は、彼の展開する「絶対秩序圏オーダードメイン」に触れた瞬間に凍りついたように静止し、灰となって砕け散る。



『……行ったか。カサンドラ、君の悪あがきは、今回も実に見事だったよ』



ルキウスは、かつての同志であり、今は敵対する女魔導師が遺した焦土を見つめ、静かに呟いた。

彼の傍らには、感情を排した「秩序の軍勢」が跪いている。


 実は、ルキウスにとってこの研究所の強襲は、アッシュを殺すためのものではなかった。

 風雅の遺跡の戦いの後、彼はアッシュの「異常な魔力特性」とシオンの「時間軸の矛盾」に気づいていた。

 その時、彼が下した決断は「抹殺」ではなく「観測」――すなわち、泳がせておくことだった。



あるじよ。何故、あのまま虚無のゲートに逃がしたのですか? 我らの魔力をもってすれば、裂け目を閉じることは容易たやすかったはず」



 側近の魔導兵が問いかける。ルキウスは薄い唇を微かに歪め、不敵な笑みを浮かべた。



『アッシュが目覚めるためには、死の記憶だけでは足りない。彼を縛る最後の一片――リネットという名の「くさび」が、あの場所で自ら砕ける必要があるのだよ。


 ……私が求めているのは、既存の理で動く駒ではない。理を破壊し、新たな秩序を産み落とすための「特異点」なのだから』


 ルキウスは、第四段階の力を手にしながらも、この世界のシステムが限界に達していることを知っていた。

 人間と獣人の分断、1200年の停滞。それを打破するためには「完全な虚無」を宿した、理の外側の力が必要だったのだ。


『アッシュ、君が地獄を乗り越え、真の「虚無」を手にした時……。世界は初めて、再構築の資格を得る。……君が目覚めるまで、私は待とう。

 君が私の「完璧な秩序」を否定するだけの力を手にする、その瞬間まで』


ルキウスが杖を地面に突き立てると、白銀の閃光が研究所の跡地を包み込んだ。

彼もまた、第四の遺跡へと繋がる別の「断層」へと、その身を消していく。

泳がせていたのは、最強の敵として君臨するため。そして、アッシュが自らの「理想」を打ち破る器へと育つのを待つための、あまりに傲慢で慈悲深い遊戯。


世界の断層で待つルキウスは、自らが創り上げた白銀の牢獄(世界)を壊してくれる者を、その玉座で静かに待っていた。




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