第十三話、風雅の遺跡・虚空の祭壇と翠鷹の古王
空中回廊の尽き果て、雲海が渦巻く奈落の淵に、その場所はあった。
【虚空の祭壇】
そこはもはや、確固たる地面など存在しない、数百の巨岩が目に見えない磁場に操られるように、円環を描いて浮遊し、中心部は底知れぬ暗雲へと続く巨大な縦穴となっている。
吹き荒れるのは、単なる風ではない。音を置き去りにした真空の奔流が、石柱を削り、耳を劈く笛のような咆哮を上げ続けていた。
「……ありえない。物理法則が完全に破綻してるわ」
リネットがゴーグルを叩き、震える声で呟く。
「この場所……重力場が気流に上書きされてるの。アッシュ、一歩でも踏み出し方を間違えれば、あなたは『落ちる』んじゃない。
風に『粉砕』されるわよ」
アッシュが浮遊する石舞台の端に立つと、右手の紋章が呼応した。黄金の日輪に翠の光が混ざり合い、激しく脈動する。
その瞬間、祭壇の底から立ち昇る気流が一点に収束し、巨大な影を形作った。
それは、四枚の翼を持つ巨大な猛禽の姿。全身がエメラルドのように輝く半透明の羽毛に覆われ、黄金の瞳は嵐の中でも決して揺るがない威厳を湛えている。――翠鷹の古王。
古王が翼を広げるだけで、周囲の暴風が意志を持ったように凪ぎ、静寂が訪れた。
『……土の重荷を背負い、地を這う人の子よ。汝の魂に刻まれしは、不滅の日輪と、揺るがぬ大地か』
古王の声は、風そのものが囁くようにアッシュの脳裏に響いた。
『だが、この空に「重さ」は不要なり。天を駆けるとは、己という存在を捨て、万物を巡る息吹(風)に融けること。……問おう。汝に、命を風に預ける覚悟はあるか』
「……覚悟、か」
アッシュは眼下の奈落を見下ろし、古剣を強く握りしめた。
『土龍』の耐性は、彼に「倒れない強さ」を教えた。だが今、目の前の王が求めているのは、その「強さ」を捨て去る勇気だ。
「お兄ちゃん、だめだよ! 手を離さないで!」
背後でククルが叫ぶ。彼女の手が、アッシュの服をぎゅっと掴んでいる。
スレインは無言のまま、氷の双剣の柄に手をかけ、アッシュの背中を見つめていた。その瞳は、アッシュがこの空に拒絶され、風の藻屑となるか、あるいは風を従えて試練を乗り越えられるかを冷静に、そして微かな期待を込めて見極めようとしていた。
『……来い、人の子よ。汝の「重さ」を、我の風が裁いてやろう』
古王が四枚の翼を羽ばたかせた。
静寂は終わりを告げ、あらゆる方向から真空の刃がアッシュへと牙を剥く。
風を風と認識するその刹那━━━
ドゴォォォ!!
「……がはっ、!!」
アッシュの体は、浮遊岩の角に激しく叩きつけられた。土龍の力で地面を掴もうとするたび、古王が操る不可視の気流が「異物」を排除するようにその身を宙へと跳ね上げる。
「主殿っ!?」
「……っ、だ、大丈夫だっ!!」
『地の呪縛に縋るか、人の子よ』
古王の四翼が、無慈悲な速度で空気を切り裂く。
――ヒュッ、という短い音。
直後、アッシュの肩から血が噴き出した。目で追えない速度の真空波が、断続的に、かつ正確に急所を削り取っていく。
「くそっ、それなら……!」
アッシュは痛みを日輪の熱でねじ伏せ、強引に古剣を抜き放つ。黄金の光を乗せた斬撃を、古王の胸元へ向けて闇雲に乱射した。
しかし、放たれた光の筋は、古王の周囲に渦巻く暴風に触れた瞬間、紙屑のようにあらぬ方向へと屈折し、虚空に溶けていく。
「アッシュ、無闇に撃たないで! エネルギーの無駄よ!」
「わかってるっ!わかってるけどよ……ッ!」
リネットの制止を背に、アッシュは再び地を蹴った。
一撃。二撃。
『土龍』の力で無理やり跳躍し、古王の懐へ肉薄しようとする。だが、そのたびに風の壁が「面」となってアッシュを押し返し、全身の骨が軋むほどの衝撃を与えてくる。
「ぐっ……」
(…くそっ…当たらない。重さで叩こうとしても、当たる前に弾かれる。速さで追おうとしても、足場そのものが風で動かされる……!)
アッシュの思考は加速する。
右手の紋章が皮膚を焼く。焦り、怒り、恐怖。あらゆる感情が混濁する中で、彼は古王の「攻撃の周期」と「翼の角度」、そして「風の鳴り方」を狂ったように脳内に叩き込む。
三度目の跳躍。
アッシュはわざと古王の真正面から突っ込んだ。
当然のように放たれる、巨大な真空の鎌。アッシュはそれを古剣で受け止めようとするが、衝撃で剣が弾かれ、体ごと背後の石柱へと叩き込まれた。
ガァァン!!
「……あ、ぐ……」
「お兄ちゃん!もうやめて! 死んじゃうよぉ!!」
「……………」
ククルの悲痛な叫びがこだまする。
スレインは氷の剣を握り締めながら、手出しはしなかった。これはアッシュが自力で「理」を掴まねばならぬ試練だと、冷静に理解していた。
(………待て。今の衝撃、おかしい。俺が力を込めた瞬間だけ、風が『硬く』なった……?)
アッシュは肺に残るわずかな空気を吐き出し、血の混じった唾を吐き捨てた。
何度も、何度も、無様に叩き落され、死の淵を覗くことで、ようやく見えてきた「違和感」の正体。
彼はフラつく足取りで立ち上がった。
右手の紋章をじっと見つめる。『土龍』の黄金色の輝き。それは「不動」の象徴。
だが、この空において、その「不動」こそが最大の弱点ではないのか。
「……リネット。俺の鞘、出力最大に固定できるか」
「はぁ!? そんなことしたら、回路が焼き切れるわよ!」
「一瞬でいい。……スレイン、悪いけど、お前の剣で俺を『空』に弾き飛ばしてくれ」
「……何をするつもりだ」
「……賭けだよ。俺が『重さ』を捨てて、あいつの風の一部になれるかどうかのな」
アッシュは古剣を、静かに魔導転写鞘へと収めた。
日輪の力を封じ、土龍の加護を弱める。
絶体絶命の窮地。思考の果てに掴み取った、あまりにも細い、一縷の勝機。
アッシュは、自分を縛り付けてきた大地の重力を自らの意志で放棄し、牙を剥く暴風の只中へと、無防備にその身を晒した。
土龍の力を放棄した瞬間、彼は文字通り「無防備な身体」だけとなる。暴風がアッシュの体を掴み、奈落の底へと吸い込もうとする。
「……ッ、い、今だスレイン!」
アッシュの叫びに、スレインは一瞬の躊躇もなく氷の双剣をアッシュの腹部に叩き込む。
かろうじて古剣で防ぐが、手加減のない一撃を受けアッシュは、体を弾丸のように虚空へと弾き飛ばす。
「お兄ちゃん!?」
ククルの悲鳴が響く。だがアッシュの判断は正しかった。「重さ」を捨てたことで、彼は古王の「拒絶」の網から外れたのだ。
(……この風は、壁じゃない……ッ!)
アッシュは意識を集中した。クルルの【慈雨】の余韻が彼の五感を研ぎ澄ませる。目の前に広がるのは、無秩序な嵐ではない。無数の「風の道」が描かれた、巨大な設計図だった。
「リネット、頼む!」
「まったく、無茶ばっかりね!」
リネットは悪態をつきながらも、通常の解析鞄ではない、ジャケットの内側に隠していた秘匿ガジェットのスイッチを入れた。
見知らぬ模様が描かれたそれは━━━試作段階の技術――「小型重力発生装置」。
リネットは計算し尽くしたタイミングでそれを起動させ、翠鷹の古王の真上に設置した。
一瞬、古王の頭上に局所的な重圧がかかる。
『なにっ……!?』
その僅かな「隙」を、シオンは見逃さなかった。
シオンは風の流れを読み切り、音もなく古王の死角へ回り込んだ。彼女の投げたクナイが、古王の翼の関節――気流制御の要へと正確に突き刺さる。翼の動きが、決定的に乱れた。
「――ッ、スレイン、氷の足場を!」
クルルが『守護のベル』を必死に鳴らす。【慈雨の光】がアッシュの体をさらに包み、彼をその場で一瞬「停滞」させることで、無秩序な落下を防ぐ。
それと同時にスレインは氷の双剣を振るい、アッシュの行く手に、氷でできた無数の「仮設足場」を瞬時に作り上げていく。
(みんなが……繋いでくれた!)
仲間が作り上げた「道」を、一歩づつ踏みしめ、風雅の「速度」へと変換していく。
魔導転写鞘が限界を超えて悲鳴を上げる。だが、アッシュは止まらない。風の道を音速で駆け抜け、ついに古王の懐へ肉薄した。
黄金の日輪と翠の旋風が重なる。
(狙いは………首の関節部分!)
「これが、俺たちの……風だぁぁぁっ!」
仲間たちの可能性すべてを剣に乗せ、アッシュは古王の「核」へと最後の一閃を叩き込んだ。
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