クルルの焦り
ミカヌレはレイアーを伴い、ワッサンモフ公爵邸に到着した。
洋品店で入浴しアンナにマッサージを受け、洋品店で働く流行に鋭い貴族の未亡人に化粧を施され、みんなが作ってくれた衣装や装飾品で身を包んでから。
非常に時間をかけて、ゆっくりと。
それでも突然訪れた、公爵家より爵位が下のクルルに不満など言えないのだ。
普通ならば。
けれどミカヌレのことを奴隷のように思い、敬う気持ちなど欠片も持たぬ彼は苛ついていた。
諜報員としての連絡もして来ない、こちらから手紙を出しても連絡も返さないのだから。
◇◇◇
ワッサンモフ公爵邸に潜入させている他の諜報員からも、碌な情報を得られずにいた。
以前に直接ミカヌレへ接触を図る為に、優秀な隠密を宝石商人として訪問させたが、戻って来ることはなかった。それだけでも腹立たしいのに、その隠密の妹もいつの間にか消息を絶ったと言う。それでは人質の役割を成さない。
それでなくとも最近は、任務に出て戻らなくなった隠密が増えた。任務の失敗なのかと相手の貴族を調べても、特にそれらしい痕跡はなかった。
「何かが起きている気がする。でもそれが分からない…………」
クルルは優秀な男ではあったが、隠密達からの信頼はない。それはクルルだけの問題ではなく、長年の支配体制の結果だった。
昔と同じように守らず使い捨てる仕組みと、それを使う貴族の彼らを見下す意識。彼らの上司は戦いも知らない貴族達で、引き取られた孤児や落ちぶれた下位貴族の子らを家畜のように好きなように扱う。
戦のない世の隠密仕事など、彼らのお遊びの駒のようなものだ。
昔のように食べる物もない世ではなく、そこから逃げ出しても隠密の技術があればいくらでも生活は出来る。
だがそれを縛るのは柵。借金や人質のように成された貴族間の約束など、信頼とは程遠いものだった。
そもそもミズーレン伯爵家さえ、クロダイン公爵家を守る為にある貴族。最悪クロダイン公爵家が残れば、伯爵家は切り捨てられる運命だ。
方やワッサンモフ公爵家は当主と隠密が共に協力し、手を取り合って来た軍隊のようなものであった。隠密が捕まれば助けに行き、損害が少ないようにいつも綿密に計画を立てて、互いに生き延びる道を探して。
そこが仕える隠密の忠誠心に繋がるのだ。
ミズーレン伯爵家の隠密が消えるのは、ワッサンモフ公爵家が関与している。以前拷問室にいたミズーレン伯爵家の隠密達は、完全にワッサンモフ公爵家に寝返り二重スパイとなった。
その後もワッサンモフ公爵家に絡んで捕まったミズーレン伯爵家の隠密達は、寝返るか殺されるかの選択を迫られた。
伯爵家から逃げられないと諦めていた隠密の弱点は、人質として残された仲間や恋人だった為、救い出せばあっさり寝返っていった。
戦力を削ることが目的だった為、どんどん他国に彼らを逃がし、希望者にはセサミやコロネの商会で働いて貰っていた。強くてやる気があるので即戦力だ。
部下に隠密達を任せていたクルル。だが管理責任を恐れる馬鹿な部下達に、内情を報告されぬまま隠されていた。ピスタテルにかまけることで、現状がどんなに酷いものかを監査を怠り知らぬまま。
◇◇◇
「お久し振りですね、ミズーレン伯爵。お元気でしたか?」
レイアーが呼び出しに出かけてから、優に3時間が経過。漸くとクルルの待つ応接室へミカヌレが訪れたのだ。
そこまで待たせて謝罪もなし。
普通の公爵夫人と伯爵の立場ならば、それも致し方ない。
けれどクルルからすれば、ミカヌレは今も奴隷同然の隠密なのだ。高圧的な言動一つとっても腹立たしい。
ワッサンモフ公爵邸に放った他の隠密達からは、「ミカヌレは使用人達と対等に話している。特に敬われているようには見えない」と、報告されていた。
だからこそ粗雑に扱われ、すぐに呼び出されて来ると思っていたのだ。
それがどうだ。輝く程に磨き抜かれ、髪も肌も陶器のように透き通って輝いている。化粧も最新の色合いでメイクされ、極めつけはドレスと装飾品だ。
体のラインが美しく見えるように計算されたドレープと、極上の碧い絹のドレスに映えるように金銀の糸で刺繍された蔓の中央には、装飾された真珠が輝いていた。
さらに宝石を花びらに模したカチューシャの髪飾りは、まるでティアラのように水色の髪を飾っている。
その姿に息を飲むクルル。
(なんて洗練された、気品溢れた姿だ。それに身に付けている装飾品に衣装、どれも破格の高級品に違いない。敬われていないと報告があったのは偽りか?)
混乱が頭を駆け巡る。
クルルの記憶に残るミカヌレは、粗末な衣装を着た薄汚れた孤児でしかなかったからだ。
(どうなっている? まるで女王のようではないか?…………いや落ち着け、これはただ着飾っただけで、金の溢れたワッサンモフ公爵家の戯れかもしれん。まずはピスタテルのことを伝えねば)
気持ちを立て直し、クルルは言葉を発した。
「今日はワッサンモフ公爵夫人へ、緊急なお願いがあり訪れました。人払いを願えますか?」
扇で口を隠したミカヌレは、首を軽く横に傾け「私にですか? 旦那様にではなくて?」と、さも不思議そうに呟いた。
そうだよ、お前にだよ。
その体を使って骨抜きにしたスライストに、ピスタテルを許すようにお前から頼むんだ。
その為にわざわざ俺が来たのだからな。
ピスタテルがブルーベルを犯そうとした罪を公にしないように、起訴しているなら取り下げるように圧力をかけようとしていたクルル。
「まずはお話を聞いて下さい。私達は身内のようなものでしょう? お願い致します」
下げたくもない頭を下げ、屈辱に唇を強く噛んだ。
「はぁ、身内ですか? でも私は公爵夫人と言う立場で、殿方と二人きりにはなれません。侍女を一人壁側に控えさせますが、よろしいですか?」
「っ、それは。それで良いですので、お願い致します」
「分かりました。ではメロアン以外は部屋から出て頂戴」
「「「「畏まりました、奥様」」」」
ミカヌレに付き従って傍にいた侍女と扉前にいた護衛、そして家令が指示に従い丁寧な礼をして退室していく。
侍女長のメロアンだけが残り、壁の位置まで離れていく。
途端にクルルは、ミカヌレに小声で話しかける。
「どう言うつもりだ、ミカヌレ。報告も寄越さずこちらの指示にも応じないで。まあそれは後で良い。今回の件は手紙にも書いたピスタテルのことだ。ブルーベルのことは不問にせよ。あれも令嬢であるから、これ以上騒ぐのはまずいであろう?」
「不問ですか? 確かに彼女は、私とは違って生粋の令嬢ですわ。でも勇気を出して、恐怖を乗り越えようとしています。少し調査するだけでもご子息の被害者はかなり多く、被害女性を診察した医師と相談の上、目下糾弾する計画を立てているそうです。そんな彼女を私が止められませんわ」
「他の被害者も集めたと言うのか? 余計なことをするものだ。ミカヌレ、お前の飼い主は誰か忘れてはいまいな! 逆らうとどうなるかも。
お前の大事な人間を殺されても良いと言うのか! お前だって無事ではおれんぞ。俺の隠密達は何処にでも潜んでおる。お前を拐ってなぶることくらい容易いことだぞ!」
そう脅すクルルに、ミカヌレが微笑んだ。
「可能だと思うのですか? 本当に?」
妖艶にさえ見える彼女の言葉は、クルルの心に不安の影を落としていった。




