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第七話


 世界が薄明りに包まれようとしている夜明けの頃、バルディア宮殿内部、紺碧の間には窓から落下したことで足を負傷し、怒り心頭のシルヴァの姿があった。皺の寄った顔を普段よりもさらに歪めて、整列したミルウェイ帝国軍人たちに唾を飛ばして怒鳴るその姿は、まさに盤面を上から眺めることしかしない人間の醜悪のそのものだ。

 

 護衛任務隊長であるロンド大尉は白い詰襟軍服にあちこち血を滲ませながらも直立不動で敬礼の姿勢を崩さなかった。ミルウェイ帝国高官シルヴァは怒りのままに、ひじ掛けに拳を叩きつけて怒鳴る。


 「――なぜ、奴を、シャノアを殺さなかった!ロンド!!」

 

 白い詰襟軍服の胸に血の滲むロンド大尉は、直立のまま応じた。声は低く、しかしよく磨かれた刃のように澄んでいた。

 

 「自分が、彼女に勝てなかったからであります」

 

 シルヴァは一瞬、沈黙した後、一層怒りに震えたかと思うと、空気を裂くような怒声が室内に響く。燭台の炎が震え、びりびりと空間が張り詰める中、その場にいたシルヴァの文官たちは怯えて身を縮こまらせた。


「この無能がッ!一刻も早く奴を抹殺しろ、でなければ貴様も処刑するぞ!!貴様はミルウェイ帝国高官たる私の威信を汚したのだぞ、ロンド!それは即ち、ミルウェイ帝国の威信を汚したのと同義だ!何と申し開きするつもりかね」

 

「任務において、彼女の剣が私の想定を超えていた。それだけのことです」


 眼鏡をかけた秘書がおずおずと一歩前に踏み出すと、書類を広げて読み上げる。


「ここに、シャノア・アム・リティニアを帝国高官反逆罪、国家転覆罪、殺人未遂罪により最重大罪人に指定する。そしてミルウェイ帝国高官勅令より、大罪人討伐部隊をここに正式に発足し、部隊長にロンド・ベイリー大尉を任命する!」


 ロンドは踵を鳴らして今一度敬礼の姿勢を取ると、明朗な声で返事をした。それに倣い、背後の整列した部下たちが敬礼する。


「いつまでシャノアを野放しにしているつもりだ!とっとと行け!彼奴を抹殺するまではミルウェイ帝国への帰国も許さん!!いいか、これは命令だ!貴様には任務を遂行する責務がある!!」

 

 声を荒らげるシルヴァを、全く動じる事なくまっすぐに見つめながらも、ロンドの脳裏にはシャノアの潔い剣筋と燃えるような青の双眸ばかりが鮮烈に思い起こされて、いつまでも離れなかった。




 * * *


 同じ頃、バルディア郊外の森は夜明け前の神秘的な張り詰めた朝霧で満ちていた。湿った空気が肌に貼りつき、遠くで鳥の声が一つだけ響く。


 衛兵たちに追われ、宮殿を脱出するのにすべての力を使い切ったシャノアはサノスに導かれながら静かに馬の背に揺られていた。太腿と肩の傷は深く、体温が徐々に失われていくのを感じる。呼吸が熱い。肺の奥に鉄の味がした。手綱を握りしめる手の感覚が薄れていく。シルヴァをみすみす逃した自分に、今は怒る気力もなかった。馬上で揺られるたび朦朧とした意識の中思い浮かぶのは、ロンド大尉の真っすぐな骨も軋むほどの重い斬撃の感触と、斬り合いの中確かに感じた高揚感の余韻だった。



 

 サノスはシャノアの馬を先導しつつ地図を片手に、印をつけた場所に向かっていた。


「こっち……であってるんだよな」


 小さなつぶやきにシャノアは何も答えない。彼女はまるで人形のように揺れに身を任せていた。この先に、シャノアの旧友の営む小さな診療所があるらしいが、なにぶん朝霧で視界が悪く地図の通り進めているかどうかも怪しかった。急に不安に駆られたサノスだったが、何とかして診療所にたどり着かねばシャノアの命が危ないのだ、と自分を叱咤して歩を進めた。


 もう随分と森の深いところまで来た。こんなところに本当に診療所などあるのか、とサノスが首をひねり始めたその時。霧の奥から、かすかな歌声が流れてきた。懐かしく、胸の奥の古傷を撫でるような旋律。サノスは勢いよく顔を上げた。


「人だ……!道を知っているといいけど」


 サノスはその歌に急ぎ耳を澄ませて音をたどると、泉のほとりで桶を手にした黒髪の穏やかそうな顔立ちの女が水を汲んでいた。歌を口ずさんでいた。歌うように言葉を紡ぐその声には、どこか夢と現の境が混ざってるようだった。


「おい!ナナノ診療所はどこだ。この人、重症で、急いでて」


「ええ、わかっているわ」


 急いで駆け寄り、息切れしながら女にまくしたてると、まるで歌うような優しい声音で答えになっていない答えが返ってきた。それにサノスが文句を言おうとすると、女は躍るような軽い足取りで馬に近づくと、優しく馬の首筋を撫でてからシャノアの額にそっと触れた。


「待て!その女に触れるな!」


 慌てて制止しようとするが、疲れ切った体では足をもつれさせただけだった。サノスももう限界だった。


「大丈夫、君はそこで眠っていて」


 瞼が重くて、視界がまわる。そんな中、女の歌のような言葉が聞こえた気がした。

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