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ざわめきの中、薄くしか開かない寝ぼけ眼のまま顔をあげると、周囲からわっと笑い声が上がった。
すぐ左手の窓から、少し傾いた太陽が柔らかい色の光を注いでいるのを見て、私はいつの間にか机に突っ伏して居眠りをしていた事に気づいた。
黒板の前には担任の先生が立っていて、机に座る私以外の誰も彼もが通学カバンを持っていて、壁にかけられた時計の短針は右下を向いている。
机にはよだれが垂れていて、先生は「もう帰りの会だから支度しろよ」と言っていた。
そこまでの時間をかけてようやく覚醒した私は、慌てて帰りの支度を始めるため立ち上がろうした。
その前によだれを拭こうと、セーラー服のポケットに手を差し入れつつ腰を浮かそうとして、見事に顔から机に突っ込む。
ガタガタと大きな音を立てながら崩れ落ちる私を見て、教室は再び和やかな笑いに包まれた。
「上岡、よだれよだれ」
隣の席に座る相川くんにそんなことを言われ、慌てて口の周りを拭くも彼の笑いを含んだ表情を見るに冗談のようだった。恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じて、急いで顔に当てたハンカチを下ろす。
恥ずかしさから意識をそらそうと先生の話の途中ながら、小さな声で話しかけた。
「私っていつから寝てた?」
彼は「覚えてないのかよ」と笑って、六時間目の途中から寝ていたと教えてくれた。
その間ずっとまぬけな寝顔を晒していたかと思うと、私は渋面を作ってしまった。
居眠りなんてめったにしないのに、眠ってしまう前の記憶も曖昧でいつごろ寝入ってしまったかなんて全然覚えていなかった。
それに、なんだか不思議な夢を見た気がする。
暗く、深い闇――もしかしたら水の底のような場所で、ふよふよとしている私にどこかから呼ぶような声が届く。
その声は、聞いているとふわふわ心地よいのに、頭は割れるように痛い。
声は少しずつ私の頭を膨らしていって、そのうちに割れてしまう。
――そんな夢。
だんだんと夢のディテールは忘れてしまっているように思えるのに、その痛みだけは、今も少し頭に残っているような気がした。
「ねえ」
寝起きでぼーっとしている私に前の席の女子が声をかけた。配布物が手渡されて、私も一枚取って後ろの席に回す。
先生は教室の端まで回ったのを見て「持ってないやついないかー?」と確認を取る。
「今配布したのは、見ればわかると思うけど、進路希望調査です」
いつもより神妙な調子で先生が話し始めたものだから、私を含めたクラス全員の注目が教壇へ集まる。
「これから何度も言うことになると思うけど、君たちは今年中学三年生、つまり最高学年であり、受験生です。ゴールデンウィークも明けて、これからは本格的に気を引き締めてもらわなきゃいけない」
その言葉は自分に向けられたもののような気がして、冷や汗をたらす。隣から聞こえてきた笑いはにらみつけることで黙らせた。
「この進路希望調査表はその一発目です。来週の木曜日までにひとまずの志望校をお父さんお母さんと相談して決めてくること。五月末には実力テストもあるからそれに合わせて勉強も始めていきましょう」
続けて先生が「えー配布物についてはこれでおわり」と言ったことで、教室の空気は少し緩んだけれど、私の胸には重石のようなプレッシャーが残った。
(受験かあ……別に今やりたいこととかないしなあ……)
この先の進路に思い悩む私は、先生の締めの言葉も聞き流して、上の空のまま日直の号令に身を任せて礼をする。
「上岡は志望校とかもう決めてんの?」
学校が終わって教室がざわつく中、相川くんが話しかけてくる。
「あー……ぜんぜん考えてないや。高校とかも調べてないし」
「マジか。塾とかで言われたりしないの?」
「塾的なものは通ったことないしなあ」
「え、あんな成績いいのに塾行ってないのか」
「それはまー、ちゃんと勉強してますから」
「やっぱなー、普段からコツコツやっていればなー」
「それよ」
「なになに、なんのはなし~?」
前触れ無く割って入ってきたのは、友人の喜多川杏子だった。
小学校から一緒な上に、中学に入ってから三年間同じクラスで、いつも一緒にいても疲れない貴重な友人だ。
あまり社交的ではない性質の私にとってクラス替えするたびに支えになってくれて、彼女がいなければいつクラスで浮いていたかもわからない。
「お受験の話だよ」
「じゅけん~? かさね、さっきの先生の話本気にしたの~?」
「本気っていうか、私なにも考えてなかったからさ。そろそろ考えないとって」
「それが本気っていうんだよ。真面目だな~」
「もーまたそうやって」
やってきた杏子とじゃれていると相川くんは気まずくなったのか、「じゃあ俺は行くから」と言って、教室から出ていってしまった。
「ほら、相川くん行っちゃったじゃん」
「なに~? もっと相川くんと喋りたかったの~?」
「いや、別にそういうことじゃないけど」
「そうだよね~。むしろあっちにフラグが立ってそうだよね~」
「いやいや、そんなわけないでしょ」
上岡かさね、十四歳。恋愛経験はゼロだ。
「かさねはガード固いからな~」
「そうかなあ」
「そうだよ~。帰り道にはそのことをみっちり話してあげよう」
「お手柔らかに」
私たちは人もまばらになった教室を出る。
廊下を歩きながらも、会話は続いて、杏子が新しい話題を持ち出した。
「そういえばこないださ~」
「うん」
「あけみがハンバーガー食べてたら紅茶ひっくり返して~、全部ポテトの容器に入ってべっちゃべちゃになってたんだよね~」
「あはは! なにそれめっちゃ見たかった!」
「かさねがお墓参り行ってた時だよ~」
「あーあの時か。えぇーあけみ、私がいるときに紅茶こぼしてよ」
「狙ってはできないでしょ~!」
「あははは!」
「そう~、その時このピン買ったんだよ~。可愛いでしょ~?」
「あ、それその時のなんだ。可愛いよね、猫」
「まあ~、私犬派だけどね~」
「えー、猫可愛いじゃん」
「なんか猫って~、自分のこと可愛いと思ってそ~」
「それはめっちゃわかる!」
「世界で一番自分がかわいいと思ってるよ~、絶対」
「あはは、それ白雪姫の女王様じゃん」
「犬に嫉妬してそう~」
「それは犬派の妄想!」
杏子と連れ立って、おしゃべりしながらいつもの帰り道を歩く。
学校の話や最近買ったものの話、たまに恋バナなんかもして。
そんな日常は、ずっと続いていくんだと思っていた。