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「じゃあまた明日ね~」

 杏子と別れて、自分の家の方面に続く細い路地へ折れる。今日あった楽しいこと、さっきまで話していたことで頭をいっぱいにして、少しだけテンション高めに歩いていく。


 そして、路地を半ばまで進んだ頃。


『お前は、どちらだ?』

 ざらついた岩と金属をこすりあわせたような、不快な音。

 あるいは音ではないのかもしれない。

 それは背後から――しかし方向など無視するように――頭の中に直接刷り込まれたように感じられた。

 突然のことに、私は足を止めてしまう。しかし、立ち止まったことで肌に感じられるその異なり方はそのまま逃げなかったことを後悔させるには十分だった。

 足がすくむ。

 心臓の鼓動と息を吸う音がやけに大きく聞こえた。

 絶対に振り返ってはいけない。なんの根拠もなかったけれど、自分の背後にあるものは、間違いなくこの世で最も恐ろしい姿をしていると確信していた。

 再び、頭のなかに声が響く。

『わからない……なにもわからない…………同じではない……』

 それは、考えを垂れ流すように、この世のものとも思えない声で頭の中をかき回した。

『これは…………面白い……』

(ああああああ! やばい! これは絶対やばい!)

 わけのわからない、恐ろしい存在が、たまたま通りかかったわけでも道に迷ったわけでもなく、自分に興味をもってここにいるという事実に私の背筋は凍った。

 動かない足を無理矢理にでも動かして、とにかくその場から一刻も早く逃げなきゃいけない。

 足がもつれても、転んでもいい。ただただここから一センチでも遠くへ行きたい。

 怖い。

 恐い。

 こわい!

 後先なんか考えることもできず、ただ離れようと私は走り出す。懸命に足を、そして腕を振った。

 けれど、振ったその腕は温度を感じない手につかまれて、私は勢いそのまま地面に転がされる。アスファルトで肌を削るように打ち付けられ、半身は擦り傷と打ち身を作って痛みを訴えていた。

 どくん、どくん、と心臓が動くのが聞こえる。

 手足が鼓動に沿ってふくらんだりしぼんだりしているような感じがした。

 同時に、じんわりと、ただし激しい痛みが発せられてとっさに二の腕を抑えた。ぬるりとした感触と手のひらを濡らす熱を持った液体に意識がぐらりと揺れる。

 ただ掴まれただけのはずだった腕は制服の袖ごと切り裂かれ、ざっくりと深い傷が刻まれていた。

 真っ赤になった手のひらと泥だらけのセーラー服、教科書の詰まったかばん。きょろきょろと目が行き来して、頭の中を整理しようとする。

 背後にいた『それ』の正体なんか気にならなかった。むしろ、知りたくなんかなかった。見てしまったら何かが終わってしまうような気すらしていた。

 それでも、痛みと恐怖と緊張でキャパオーバーを起こした私の脳は機械的にその顔を上げる。

「……は、さみ……?」

 目についたのは振り上げられた大きなはさみのようなもの。

 しかしよく見ればその形状は実際にははさみではなく、海老や蟹を彷彿とさせる甲殻に包まれた二指の鉤爪であることに気づく。

 そして、徐々に逆光に慣れるにつれてその全容を目の当たりにする。

 見た目の高さは二、三メートル。太い尻尾がつき、硬質な皮膚に覆われた頑強な胴体の背中にはできの悪いホログラムのように形の不安定な翼が生えている。鉤爪のついた腕は大小合わせて八本あり、最も太い脚二足でしっかりと直立していた。そして、眼も耳もない、しわくちゃの脳に無数の触手をつけたような頭がちらちらと色を変えながら、私の鼻先でこちらを覗きこんでいる。

「あ……ああ、あ、うぁあああああああああああああああ!」

 肺の中の空気をすべて吐き出しても、喉を震わせようと気道を絞り上げる。掠れた呼吸音すらなくなっても口は叫びの形から変わらなかった。

 狂ってしまったように何も映らない目を見開き、息を吸うことも忘れて体を震わせる。

 おもむろに『それ』は腕を持ち上げ、その鈍い鉤爪が柔らかい肩にめり込み、突き立てられた。

 夢の中にいるように霞のかかった世界から私を引き戻したのは、肩に『それ』の鉤爪が突き刺さる痛みだった。

 緩んだ呼吸器に空気が流れ込み、強くせき込む。痛みによって覚醒し、はっきりと世界を認識できる。

 もう一つ自分の体に空いた穴から突き刺さった鉤爪が抜かれ、鼓動に合わせて血飛沫が噴き出す様を、私の目はしっかりと認めた。

 もしかしたら、ここで――一つの思いが頭をよぎって、瞬く間に心を埋めていく。

 眼前への恐怖に生物としての恐怖が打ち勝ち、強く、強く、心中で叫ぶ。


 ここで――――死にたくない!


 瞬間、飛び散っていった血の滴はぱっと開き直るようにして、数枚の薄い切片となってひらひらと舞い落ちていく。

 目の錯覚や極限状態の幻覚かもしれない、けれど、確かにそう見えた。

 まるで散った花弁のような深紅の薄片は最初のように血飛沫も必要ともせずに、倍々に増えていく。

 初めは赤だけ。

 そして、少しずつ白の薄片も入り混じって紅白の斑模様を作り出す。

 花弁は舞って舞って。

 つむじ風に踊らされたみたいに、私を包みこむ。

 密度が頂点に達すると共に、始まりよりもずっと突然に花弁の嵐が引いていく。

 視界が晴れると同時に、私は迷うことなく自分の体の前で左手を振り上げた。大した抵抗もなく、血に濡れた鉤爪が腕ごと宙を舞う。

『…………姿……』

 怪物の前面は花弁の旋風に当たったせいか、無数の傷口が開き、乳青色の液体が滲み出していた。しかし、傷だらけになったことを厭うことはなく、むしろこちらを観察するような素振りを見せていた。

 見るまでもなく、私は自分の恰好が変わったことに気づいていた。

 左手には蔦の絡みついたサーベル。

 右手には棘そのもののようなレイピア。

 そして身を包むのは、鎧。

 けれどそのフォルムはあくまでも女性的で、ドレスを模しているようにも見えた。

『鎧……男……?』

 相変わらず不快な音で話しかける怪物に眉をひそめながらも答えた。

「見ればわかるでしょ。女だよ」

 右手のサーベルを威嚇するように突きつけるが、怪物はもう一度最初の問いかけを繰り返す。

『わからない…………お前はどちらだ……?』

「わかんないならいい」

 突き付けたサーベルで空を切るように振り抜く。

 目の前の怪物に向けて、先ほどと同じように、大量の白い花弁が風に乗って一斉にぶつかっていこうとする。

 攻撃を受けた怪物はその翼を羽ばたかせ空中に逃げようとした。

「無駄だよ」

 私じゃない私が、好戦的に笑いながら軽く地面を蹴ると、翼があるわけでもないのに、それだけで飛翔する怪物よりも上空まであっという間に舞い上がる。

 まるで目があるかのような動きで怪物はこちらを見上げた。それから、さらに逃亡を試みようと、翼を揺らめかせる。

「無駄だってば」

 左手のサーベルを振りかぶると、巻き付いた蔦はうねりつつ、太く成長する。

 そして、振り下ろされると共に鞭のようにしなり、空を切りながら、重力に耐える怪物を地に叩き落した。

 蔦の鞭によって地面に叩きつけられた怪物と共に、軽々と降り立った時には、蔦は元のように刃に巻き付いていた。

「じゃあね」

 地面に落下した衝撃でひびの入った鉤爪を地面に突き刺してなんとか立ち上がろうとする怪物。その頭に容赦なく右手のレイピアを突き刺した。

 それは頭に穴が開いてもしぶとく声を発した。

『お前は……知るべきだ…………』

「ああもう、まだ生きてるの」

 言いつつ中身をかき回すようにレイピアを半回転させる。

 痛みがあるのかないのか、怪物は身体をぐらぐらと揺らし、踏ん張るように鋏を地面に突き立てるものの、刃越しに私をまっすぐに見据えた。

 目玉なんてものはそこにはなかったけれど。

『力を……その源を…………お前の起源を……!』

 まるで覗き込むように怪物が私を見ていたこと。

 しっかりと頭の中に言葉が入ってきて、正しく理解できてしまったこと。

 その声も、姿も、感触も、五感から透き通って、身体に染みつき、脳髄にこびりついてしまいそうで、怖気をふるった。

 呼吸をするだけで肩が揺れる。

 じっとしている私に向けて、怪物はよろよろと鋏を伸ばした。

 かたかたと震える刃が鎧にぶつかって音を立てた。

 どういうわけか、ここまで怪物を追い詰めたにも関わらず、恐ろしさに縮こまるしかできない私が、今この身体を動かしているようだった。

 少しずつ、鋏は私との距離を詰めていく。

 数十センチから、十数センチ。

 十センチ。

 手先の震えも止まった。

 七センチ。

 まばたきすらできない。

 三センチ。

 いよいよ息を止める。


 覚悟を決めた時。


 サーベルから伸びた蔦が、その鋏の先を絡めとっていた。

 そんなことができるのは、私じゃなかった。

 ぐっと剣を握る手に力が入る。

 怪物は、なおも言葉を続けて。

『……探せ……その力を作った――――』

 恐怖に震える私と、興奮に足を踏み鳴らす私じゃない私がないまぜになって、叫んだ。

「うるさいっ!」

 ぴしゃりと声を叩きつけると同時に、頭から首まで串刺しにしたレイピアから幾本もの棘が放射状に飛び出して、ざくざくと怪物の首にスポンジのように穴だらけにしていく。

 剣を抜き取ると、息絶えた怪物はビチャビチャとした不快な水音を立てて地面に崩れ落ちる。見れば翼は既になく、甲殻の隙間からは液体が流れ出ていって、その体積を大きく減じさせていた。


 終わりを感じとると途端に緊張がほどけて、私はふらふらとした足取りでその路地を抜ける。

 日の傾き具合からして、そんなに時間は経っていないはずだったけれど、あの路地で、何週間もの時間を過ごしたような気がした。

 とても立っていられなくって、建物の壁に背中を預けると、ずるずる滑るようにしてアスファルトの上にへたり込んだ。

 抱えた膝を包むのはいつも通っている中学校の制服で、少しだけ日常に戻ってこれたように感じた。

「あ……傷治ってる……」

 鎧になった時からもう痛みは感じていなかったけれど、怪物から受けた両肩の傷と転んだ際の擦り傷は制服の穴ごと、最初からなかったかのように消えてしまっていた。

「剣も、いつのまにかなくなっちゃった」

 それから、意を決して、路地の中を覗き込むと、怪物の死体はなくなってこそいなかったものの、中身や脳みそから蒸発していったのか、もう甲殻やひびの入った鉤爪がミイラ然とした状態で残っているくらいだった。

「あれもすぐになくなっちゃうんだ……」

 たった今、目の前で起きた非日常が、非日常としてまっとうに、あらゆる証拠を残さず消えてしまうことがほっとするようで、ぞっとするようだった。

 こうやって、非日常は非日常として隠れていくのだと思い知らされたようだった。

 そして、自分の振るったあの力がどこに由来して、いったいどういうものなのかわからないことが怖くて仕方がなかった。

「それに……あの時の私は…………!」

 なにかに操られているように、けれど、意識ははっきりとあるまま、私の身体は私ではないものによって動かされていた。

 喧嘩の一つもしたことがない私がこの修羅場を乗り越えることができたのは間違いなく私じゃない私のおかげだったのだけれど、自分の意識の届かないところで自分の身体が動くというのがとても不気味な感じがした。

 それから少しだけ――あくまでも少しだけ――さっきの怪物の話を聞かなかったことを後悔した。

 あれの話を聞くこと、それさえも怖かった。話を聞くことは、それを存在として認めてしまうようで、そうすることが、あれの日常に踏み入れることのようで、ただただ怖かった。

 再び目を向けると、怪物の死体はすっかりなくなってしまっていて、そこにあるのはいつも通り少し危険な香りのする路地裏だけ。

「帰ろ」

 日が暮れたらお父さんが心配するから。

 さっきの出来事から意図的に目をそらすように、心の中で呟きながら、昨日と同じ帰路を歩いた。



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