ふきのとう
だんだんと蝉の声も少なくなった。真夏に比べ日差し柔らかさを感じさせる。夏休みも終盤に差し掛かっているせいか、子供たちもここぞとばかりに、遊び残さぬよう遅い時間まで笑い声が聞こえる。
俺もここのところ、とてつもなく忙しい日々を過ごしている。横を走り抜ける子供を目で追いながら、
「俺も休みがほしいもんだ。」
そんなことをぼやいてみたりする。実際に貰えるもんなら本当にもらいたい。
この時期は研修や講演会などで、教授は引っ張りだこであるがゆえ、ほとんどの依頼を俺が対応しなくてはいけなかった。正直かなり疲れている。しかし、その疲れも雪乃からのメールが来ると自然と吹き飛んだ。が、ここ何日かメールが来ない。気にはなってた。だからといって、こちらからなかなかメールをしていなかった。久しぶりにメールをしてみる。内容はシンプル。『調子はどうだい?』送信して彼女の微笑む顔を想像する。すぐに返信は来ない。俺は鞄に携帯を入れ事務所に向かって歩いた。
雪乃を愛していると気がついてから、少しばかり周りの女性を見るようになった。決して女漁りをしている訳ではない。女性を見てはつくづく思うこと。雪乃はなんていい女なんだろうか、と。何がいい女なのかと言えばよいのか、自分でもよく分からない。多分だが、俺がただ雪乃を愛しているからという理由だけなのだろうと。恋愛経験の少ない自分が偉そうなことは言えない。でも、俺と雪乃の間には他の誰も決してない繋がりがある。いや、今となっては『あった』というべきなのだろう。秘密の共有者という絆。雪乃を愛した理由は決してその『絆』ではない。しかしきっかけは確かにそこにあった。共有することで彼女の弱い部分や強い部分、人一倍人を思いやる精神・・・色々な雪乃に出会い、多分・・・雪乃のすべてを自分も知らない間に愛してしまったのだ。
鞄の中の携帯を見る。返信はまだ来ていない。携帯の時刻は16時を少し回っている。
「おかしいな・・・。」
まだ、そんなに遅くない時間だ。検査なんてこんな時間にあるはずがない。俺は何故かとてつもない不安に駆られる。
「何か・・・あったのか?」
最近の雪乃は少し様子が変だった。夢を見たり、言っていない事を知っていたり。力が少しずつ戻ってきている、それは感じていたが。
「そういえば・・・最近やけに眠たいとか言っていたな。」
俺は更なる不安に駆られ、事務所に電話をかけた。
「あぁ、牧野さん?」
『はい。』
電話の向こうから素っ気無い返答がある。
「申し訳ないが、今日は直接帰らせてもらうよ。」
『分かりました。教授は今日も戻って来ないそうです。」
「明日の相談内容の資料だけ俺の机に置いといてくれるかい?」
『野瀬さんも大変ですね。分かりました。明日は3件ありますので。』
「あぁ、分かってる。内容は周知済みだ。それじゃ、お疲れ様。」
俺は携帯を切り、病院へ向かって歩いた。
病院に着くと俺の胸の中は更に不安が襲ってくる。いつもの廊下を足早に歩き、雪乃の病室が見えそうな場所まで来た。病室の更に向こうにある談話スペースの椅子に雪乃の父親の姿が見える。首をうな垂れた状態で静かに座っている。俺は雪乃の病室を通り過ぎ、父親のもとへ歩いた。
「こんばんわ。」
俺が挨拶すると父親がゆっくりと顔を上げた。
「君は・・・野瀬君だったかな。」
「あ・・・はい。」
俺は、失礼します。そう言って父親の横に腰掛けた。父親はゆっくりと息を吐いた。
「雪乃さんは・・・。」
「雪乃が生まれた日、クリスマス・イブだ。私と家内は神様からのクリスマスプレゼントだと喜んだ。なんて幸せなクリスマスなんだと・・・。そんなに大きな体ではなかったが、よく泣く子だった。」
父親は目頭を指で押さえた。
「いつからだろうか。雪乃が私達親を避け始め、心を閉ざしてしまった。何がいけなかった・・・。」
父親の肩が小さく震え始めた。
「小さい頃はあんなに良く笑う子だったのに。いつからか笑わなくなった。どうしたらいいのか私達にもわからなかった。でも、どんなに私達を嫌っても、私も家内も3人の娘を愛していた。それなのにどうしてこんな・・・。」
父親は言葉につまる。雪乃の秘密はきっと、雪乃だけの苦しみではない。秘密で雪乃が苦しむと違う形で雪乃の周りの人間を知らない内に巻き込んでいるのだろう。雪乃を愛する人間は特に。この親もきっと長年苦しんで来たに違いない。今の俺が父親に出来ることは。
「・・・雪乃さんはちゃんと分かっていました。」
俺の言葉に父親が涙を流した顔を上げた。
「私が刑事の頃、雪乃さんの事情聴取の日です。聴取の前に少し話をしました。ご両親が自分の誕生を喜んでくれた、私は望まれて生まれてきたんだ、彼女は笑顔でそう言っていました。雪乃さん自身もご両親とちゃんと向き合うきっかけがほしかったんだと思います。」
「そうか・・・。君にそんなことを・・・。」
「はい・・・。」
そう言って、俺は椅子から立ち上がった。彼女の笑顔が早く見たくなった。
「野瀬君・・・。雪乃はまた・・・眠りについてしまったよ。」
「・・・・!!」
俺は頭が真っ白になる。
「今、何て・・・。」
「昨日から、雪乃が目を覚まさないんだよ。」
「昨日・・・。」
「3日程前から少し様子が可笑しかった。じっと物思いにふける時間が長いと思えば、いつの間にか眠っている。その繰り返しだ。何か言ったと思うと『ふきのとう』しか言わない。」
「ふきのとう?」
「あぁ・・・。眠りにつく最後の言葉は『野瀬さん、ふきのとうに会いに行ってきます。』そうつぶやいたらしい。」
「ふきのとうに・・・会いに・・・。」
俺はそれを聞いて胸の奥が一気に熱くなる。あぁ、そうか、俺はある確信をした。
「雪乃さんに会ってきます。」
俺は父親にそう言って病室へ向かった。ドアを開けるとベッドには眠った雪乃がいる。少し笑みを浮かべているように見えた。俺は椅子に腰掛け、彼女の手を握り、その手に静かにくちづけをする。涙が込み上げてくる。
「ふきのとうには会えたか・・・?」
俺は笑顔で雪乃に向かってささやく。そして手をぎゅっと握り締めた。
「君は・・・君自身に会いに行ったんだな。大丈夫だ。ちゃんと乗り越えて戻ってこれるさ、雪乃・・・。」




