確信
辺りは薄暗い。家へ続く道は街灯の光が次第に灯火をあげ始める、少し残った夕日の光と一緒にしっかりと足元を照らしている。夏も近いせいか、街灯に群がる虫が日に日に数を増していた。
雪乃が目を覚ましてから俺は、週2回のペースで面会へ行く。行かない日は時々彼女からメールが届く。今日は一日暇だったとか、誰が見舞いに来たとか、そんな内容のメールだが、雪乃にとってはきっと気晴らしになっているに違いなかった。誰が来ても彼女には以前と同じように不安要素なのだ。前と違うのは、今の彼女は記憶をなくし、相手のことが分からないという不安。
俺は一度も彼女に自分の身の上話をしたことはない。彼女の記憶の中に俺の記憶もない今、余計なことは話すまい。そう思ったのだ。もう、苦しむ姿は見たくない。雪乃の為と言いながら、本当は自分自身のため。自分が辛い思いをしない為。
「俺は一体何がしたいんだか・・・。」
しかし・・・。彼女に何かが起こってるのは確かだろう。
「来週からは週4回に増やすか・・・。」
いつの間にか夕日は視界から消え、街灯のみがはるか先の道まで照らしていた。
「やぁ、お疲れさん。」
黒いバッグとコンビニの袋を持った教授がにこやかに戻ってきた。
「教授、お疲れ様です。」
少し不機嫌そうに事務員の牧野が椅子から立ち上がって頭を下げた。
「牧野君、すまなかったね。なかなか戻って来れなくて・・・。野瀬君も悪いねぇ。いつも。」
「お疲れ様です、教授。」
俺も資料を机に置き挨拶をする。教授は袋からミネラルウォーターを出し、みんなに配った。
「教授、早速ですが、昨日の依頼人から日程の相談電話がありました。」
「あぁ、そうか。明日の14時はどうか、確認してくれるかい?」
「分かりました。」
牧野はいつも淡々と仕事をこなし、定時の18時にはきちんと事務所を出る。牧野は受話器を置き、先方のアポ取れました。そう言って、時計を見た。針は18時を少し過ぎている。
「それでは私はこれで。」
お先に失礼します。牧野は事務所を出て行く。
「あぁ、お疲れ様。」
「お疲れ様でした。」
教授と俺は牧野に向かって声をかける。椅子に座りなおし、資料の続きを読もうとした。
「野瀬君。」
教授が俺に声をかける。
「何でしょうか?」
「例の女性は、まだ記憶が戻らないのかね?」
「はい・・・。」
「もう、どの位になるのかい?」
「2ヶ月になります。どうしてそんなことを・・・。」
聞くんですか?今度は逆に教授に質問をする。教授は水を一口飲んだ。
「君は学生時代、青木君のことで夢だった弁護士の道ではなく、刑事の道に進んだね。」
「その通りです。」
「そして、今度は彼女のために刑事から夢だった弁護士の道へ方向変換した。」
「それは・・・。」
「その彼女は今、君のことすら忘れてしまっている・・・辛いだろうね。」
一体何が言いたいのか、教授は。俺は黙って教授の話を聞く。
「君は何かを決めるとき、必ずそこには何かの要因がある。青木君は君の大親友だった。それじゃぁ、彼女は・・・。」
「教授、一体何が言いたいんですか?」
俺は恐る恐る聞く。
「いや。いいんだよ。私がそういうことを言うのは余り良いことではないね。すまなかった。」
「いえ・・・。はっきり言ってください。」
「・・・君は彼女を愛しているんだろ?」
「私が・・・彼女を?」
野瀬の反応に教授はコホンっと一つ咳をした。
「・・・やっぱりこれ以上、私が言うのはやめておこう。」
教授はにっこりと笑い、私は帰るよ。と、ゆっくりと扉の向こうへ消えていった。
「俺が・・・彼女を?」
そう言って、不思議と驚かない自分がいることに驚いた。
大学生になって初めての彼女ができた。もちろん向こうからの告白で付き合うことになった。周りの男に比べ、社交的ではなかったし、女性がどうしたら喜ぶとかそういう知識も乏しかったかもしれない。でも、その時の自分なりに彼女のことを気にかけ、悩んだこともある。1ヵ月程して、急に彼女から別れを告げられた。理由は『貴方といてもおもしろくない』。それから、今まで女性との付き合いは一度もない。
俺は自然と足が病院へと向かっていた。教授の言葉が繰り返し頭の中で思い出される。病室のドアの前に立つと雪乃が俺に気づき、ほんわかと笑みを浮かべる。その笑顔をじっと見つめた。今までの色んな感情が一気に蘇る。雪乃と初めて東京で会ってから彼女のことがもっと知りたいと思った。彼女が苦しいと自分も苦しくなった。どうにかして彼女を苦しみから救いたい、遠ざけたい。彼女の笑顔が見たい。彼女と出会ってから頭の中から彼女がいなくなることはなかった。認めざるを得ない。これは・・・。
「参ったな・・・。」
そうぼやいて、病室の彼女に近寄った。
「今日の・・・。」
「今日は少しいいわ。」
今日も来てくれたの?彼女は笑って言った。
俺もつられて笑った。
「そうか。よかった。」
「よく眠ったからかしら。」
彼女はそう言いながらあくびをする。俺はベッドの脇に座り、上着を脱ぐ。窓の外は夕日が落ちようとしていた。窓際には花瓶に入ったひまわりの花が首をうな垂れている。
「最近、とても眠たくて・・・。」
「俺に気を使わず、眠ったらいい。」
「じゃあ、お言葉に甘えて・・・。」
雪乃はベッドに横になった。
「ねぇ、野瀬さん?」
「何だ?」
「野瀬さんは、一体私とどういう関係だったの?」
「どういう関係?」
「私が記憶をなくす前よ。」
俺は言葉に詰まった。正直に話すべきなのかどうか・・・。
「私は以前と変わっていない?」
「どうしたんだ?急に・・・。」
雪乃はベッドから出した手を、俺の前に差し出す。
「野瀬さん、お願いがあるの。手を握らせて・・・。」
少し目を開け、今にも夢の中に落ちそうになりながら雪乃は言った。
「・・・あぁ。」
俺は鼓動が早くなるのを必死に抑え、彼女の手を握る。雪乃は握った俺の手を握り返してきた。
「貴方だと、触れても嫌だと思わない・・・。不思議ね。それどころか安心するわ。」
彼女の口元が微笑んだ。そのまま俺たちは黙ったまま、手を握り交わす。雪乃だけではない。俺も安心するんだ。俺は声に出さず心の中で雪乃に言った。外はもう暗くなっている。面会時間の終わりがすぐそこまで来ていた。目を閉じた彼女を見て、俺は手を離そうとした。
「野瀬・・・さん?」
雪乃の口元が動く。俺は手を止めた。
「何だ?」
「以前の私は・・・どんな・・・感じだった?」
「以前の君か・・・。」
俺は雪乃の手をもう一度握った。
「君は・・・『ふきのとう』のような・・・女性だった。」
そう言うと雪乃の手がピクっと動いた。
「ふきのとう・・・。以前も誰かにそんな風に・・・言われた気が・・・するわ・・・。」
そう言った雪乃の手から力が抜け、静かな寝息が聞こえ出す。俺は彼女の手を離し、ベッドの上に静かに置いた。
「あぁ。気のせいじゃない。俺が君に思ったことなんだ。君がこの手で感じ取ったんだから。」
おやすみ。上着を羽織り、俺は小さな声で眠った雪乃に声をかけ病室から出ようとした。今なら雪乃には聞こえまい。ドアの辺りでもう一度振り返り、眠った雪乃に言った。
「俺は、どうやら氷川雪乃という女性を愛してしまった。・・・迷惑な話だろ?」




