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異世界動物記 ‐あるいは、もう出会えない君たちへ‐  作者: 民間人。
第二章 魔女の呻きはキィキィと
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魔女の呻きはキィキィと 12

 夜の帳が下りて暫く、眠りこけていた僕は目を覚ました。小さなため息を吐いて身を起こすと、小さな窓から差し込む明かりに視線を向ける。ベッドの上からは夜空しか見えない。

 しかし、僕は、その夜空に思わず息を呑んだ。

 満天の星空だ。僕は立ち上がり、窓に近づく。霧に隠されて朧げな湖の輪郭には、所々に星が反射して瞬き、ガス灯とは異なる輝きを見せる。遥か彼方にある山の輪郭も切り取ったように浮かび上がっており、深い霧が視界を遮ることを厭わないようにきれいな三角形を誇示していた。


 ふと見ると、湖畔を歩く生物の姿が湖の中に映った。僕は前のめりになり、窓の向こうを注視する。


 背の高い角は複雑に枝分かれし、細く筋肉質な肉体は湖の鏡に良く馴染む。僕は自然とペンを取った。


 視界を阻む霧の中を飛び跳ねるように陽気に動き回る細い体の獣。

 引き締まった太腿は鳥の胸にも似て盛り上がっている。

 僕はその生物の事を剥製で知っていた。彼は鹿によく似た生き物だが、鹿よりもその角を高く尖らせ、そして足には筋肉を張り巡らせている。その生物の名はアクトーン。様々な魔法に精通することから、「湖畔の魔術師」と渾名される、世にも美しい小麦色の魔物である。


 アクトーンは突然飛び上がると、湖に着水する。その反動で水滴が跳ね、星の瞬きと同様に白い輪郭を霧の中に飛び散らせた。

 しかし、彼は湖の上に立っていた。それどころか、その細い脚でゆっくりと歩き、水を飲み始めた。

 彼の口が水の中に入れられると、水面は波紋を広げて迎え入れる。

 ペンを滑らせる手が止まらない。釘付けになった眼はその姿をとらえて離さない。不思議な感覚が僕の中を駆け巡る。


 霧の中でさえはっきりと存在感を露わにするその獣は、水を飲み、時折夜空を見上げる。星空は彼に照明を当てるが如く、湖の上に降り注ぐ。まるで在りし日の感動を思い出しているかのように、郷愁を纏った瞳を潤ませていた。


 アクトーンにはこんな逸話がある。その昔、アクタイオンと呼ばれる狩人が、その身を休めるために湖に赴くと、水浴びをする月の女神ディアナの裸体を見てしまい、怒りを受けてアクトーンとなってしまった。彼は自身の猟犬に獲物として食い殺されたとか、助けを呼ぶ声が鹿の鳴き声となって響いてしまったために、湖から大工ダイアロスに狩られてその角で武器を作られたと言った伝承が残っている。アクタイオンは、その後事実を知り彼へ同情したダイアロスによって、粉々に砕かれた後の肉体を泥で補う事で、変身後の形に戻されたのだという。これによって、アクトーンという種が産まれたのだと伝えられている。

 プロアニアの守護神、名工ダイアロスと関わりを持っているこのアクトーンは、プロアニアでは霊獣として崇められている。謝肉祭にはアクトーンの肉を食べ、その頭蓋骨を被り、そのなめし皮を纏って踊る事が通例とされる地域もあり、人間とは深いかかわりを持つ。

 その瞳の潤みを見ると、この伝承が真実なのではないかと錯覚してしまう。


 僕が一心不乱に筆を走らせている間に、月はアクトーンの真上に昇った。アクトーンは潤んだ瞳で月を見上げ、えずくような鳴き声を上げる。

 その瞬間、僕のペンがぴたりと止まってしまった。幻想的というのだろうか。その光景には、ただ、美しさだけが詰め込まれていた。



 早朝、大きな欠伸と共に、僕は完成した絵を確認する。絵の中に閉じ込めたアクトーンは、その姿を殆ど輪郭だけ残して空を仰いでいた。ガス灯の茜色の光とは異なった、白の照明に満たされたアクトーンは、降り注ぐ光の中で呆然と、在りし日の人の姿を妄想していた。


「ほぅ、お上手」


 寝不足の僕に一足遅れたエルヴィンが御者台に乗り、僕のメモ帳を覗き込む。僕はあの時の感動を完全に納め切れていない事に歯がゆさを感じ、苦笑して返した。

 欠伸の波と共に、微睡んだ僕の視界は殆ど涙に溢れて乱反射しており、重い瞼も相まって視界がメモ帳をとらえられない。

 それでも、その輪郭は確かに僕が見たものを描写していた。水面の波紋が広がっていく光景も、空を仰ぐアクトーンも、月の瞬きも、湖に落ちる星も、精巧に切り取られた。


 そして、今、自分の瞼を大きく開くことが恐ろしいと感じてしまっている。湖畔の小さな宿は、夜を切り取るための幻なのではないか、過ぎ去ってしまうものなのではないか、そう思えてならなかった。


「名残惜しいですか?」


 エルヴィンの優しい声に、僕は黙って首を横に振る。


 エルヴィンが宿の主人に礼を言い、馬車はゆっくりと動き出す。

 持ち上がらない瞼と、時折飛ぶ意識の狭間で、僕は久しぶりの白昼夢を見た。


 僕は白昼夢を振り払う為に、瞼を持ち上げる。

 その先には、昇る朝日を映す湖が広がっていた。遠ざかる湖は朝靄の中にゆっくりと溶け込んでいく。

 星降る女神の湖の畔では、アクトーンの群れが草を食む。立派な角を持つ個体が、その群れを引き連れて跳ねるように歩く。心拍数が足並みと揃う。御者台のエルヴィンが、抱き上げたヤトの温もりが、光冠の彼方に錯視される。


 あぁ、待ってほしい。僕は。群れが欲しいんだ。安らぎの中にいたいんだ。形なんて、要らないから。ただ、漂う空気の粒子のように、遍く光の御子の祝福のように、遍在する何かに紛れていたいだけなんだ。

 アクトーンたちは湖と共に遠ざかっていく。美しい者達はそのまま見えなくなった。

 いつも通りに、僕の手から滑り落ちていく。美しいものや、優しいものは、どうしてこうも脆いのだろうか。


今回の魔法生物

アクトーン:

低木の葉や木の実、草本を主食とする体長100cm-200cmの鹿によく似た大型の草食獣である。高い跳躍力と長く伸ばした角が特徴であり、捕食者に対する対抗手段となっている。

 集団で行動することが多く、多くが雌雄同数のグループを作る。このグループはハーレム型とは異なり、子供の保護を重視したものであり、グループの子供を群れの中心にやり、円形の陣形を取って移動する。また、縄張りが大きく、肉食獣との遭遇をしやすいというリスクを含めた適用なのではないかと考えられる。子供は素早く自立行動ができ、餌を求めて森林内の湿地や湖沼地帯を盛んに移動する。

 優れた魔術師として有名であり、角に炎を帯びさせて振るうことによって捕食者を追い払い、浮力を操作して水上を器用に歩行する姿が見られる。私見ではあるが、調査結果と照合すると、主に動魔術が得意なようである。


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