最終話「ヨミ」
いつもより長いです。
「ついに告白するんだな、ヨミ!」
随分とテンションが高い。嬉しいことでもあったんだろうか。
「ん……ずっとね、その人のことが好きだった、の」
「そうだろうそうだろう。そいつとは長い付き合いだもんな」
「……確かにそれなりに長い付き合いだったけど。
……知っているの?」
知っている訳がない。私のご主人のことは私の家族しか知らないハズだ。
この人が知っている訳がないんだ。
「白々(しらじら)しいこと言うなよ。
あ、そうか、こんなところじゃムードもなにもあったもんじゃないもんな。
悪い悪い。俺としたことが少し急いていたよ」
「謝ることじゃない」
何に対して謝ったのか分からない。けれど、謝ることではないと思った。
何をそんなに急いているんだろう。
「さあ行こうか。いい店を知ってるんだ。
ムーディできっと君も気に入る」
手を差し伸べられる。ついてこい、と。
私はいつものように誘いを断る。
「いい」
「いい?……あ、ああ、そうだとも。とてもいい店だぞ」
「行かないと言ってる」
「……行かない? な、何故だ!」
「この後用事がある」
「いやだから、用事があるんだろ? 俺に」
「貴方にはない」
「へ?」
素っ頓狂な顔で、唖然とされる。
いつもと同じように誘いを断っただけなのに、どうにも様子がおかしい。
ただでさえこちらは急いでいるのに。
「何を勘違いしているのか知らないけれど、私は忙しい。
……この想いを、早く伝えたくて仕方がないの」
「そんなに早く伝えたいのならここでもいいんだぞ?」
彼は何を言っているんだろう。想いを伝える相手はここにはいないのに。
やっぱり勘違いしているんだ。
「私が誰に想いを伝えようとしているのか、知ってるの?」
「俺だろ?」
すっごい忌憚のない笑顔を向けられる。
なるほど、そういうことか。この人は、私が想いを伝えようとしている相手を自分だと勘違いしているんだ。
仕方ない。そこまで想いを伝えてほしいのなら伝えよう。
これ以上時間を取られたくはない。
「……貴方に伝えたいこと。
ありがと、いつも感謝してる、よ」
「お、おう」
「私、もう行く。じゃあね」
私は踵を返して、その場を後にしようとする。
が、腕を掴まれてしまう。
「まて! それだけか!?」
「それだけ、だけど」
彼の腕から、震えが伝わる。
焦りのような震えが、ひたすら伝わってくる。
「俺に……俺に、愛の告白するんじゃないのか!?」
……曖昧な言葉じゃダメだ。
ここははっきり言わなければならない。その方がお互いのためだ。
私は、彼と向き合い……瞳を凝視する。
「違う」
「……え?」
「私は貴方に感謝こそすれど、恋心は抱いていない。
私の想い人は、貴方じゃない」
「……」
私の言葉を受けて、彼のさっきまでの勢いが完全に消えた。
定まらない瞳の焦点。半開きの口。この状態を見れば、私の言葉にどれほどのショックを受けたのか分かる。
悪いことをしてしまった、と思う。でも私はこの行為が正しいものだと思っている。
優しい嘘のつき方なんて知らない。そもそも嘘をつく気なんてこれっぽっちもない。
嘘をつくのは……痛くて、苦しくて、嫌い、だから……。
「……ごめんなさい。私、もう行くね」
私はご主人の元へ急ぐべく、踏み出そうとする、が……。
「っ」
掴んだ腕を離してくれない。彼の腕はまるで力が入っていないのに、掴む力だけは緩まなかった。
「は、ははは……」
ギリギリと、私の腕を痛いくらいに掴む。
「離して」
「なぁ、ヨミぃ……ウソをつかないでくれよ。ホントのことを言ってくれよ」
焦点の合っていない目が、私を力なく捉える。
震える声が、涙と共にこぼれ出す。
「ホントのこと、言った」
「ウソだと言ってるんだ!」
「ッ……」
拳がとんでくる。私はそれを、こめかみに受けてしまう。
あまりに突然だったので避けられなかった。普段の私だったら避けられたハズなのに。
この人が、暴力を振るう……そんなことを一切思っていなくて。
「どこの馬の骨か知らんが、君を惑わすバカがいるなんてね。
ファンかい? それとも友人かい? どっちにしろ許さない」
「はな、して」
「なんで離す必要があるんだい? 俺はこんなにも君のことが好きなんだ。
応えてくれよ……なあ?」
掴んだ腕ごと抱き寄せようとしてくる。
私は抵抗する。
この腕に私を抱き寄せる資格なんてない。
「やめて。じゃないと私は貴方を痛めつけないといけない」
睨みつけ、そして拳を彼の胸にあてがう。
暴力は嫌いだけれど、それでも私の願いをこんな形で邪魔をするのなら容赦はしない。
「こんな女の細腕で何が出来るっていうんだ?
さあ行こうじゃないか。もう店なんて言わない……」
無理矢理私を引っ張ろうとする。
私はその時、あることに気付いていた。
「離せ」
「抵抗ならベッドの上ででもすればいいよ……あっはっはっは」
「離せって言ってんのが聞こえねえのかクソ野郎!」
彼は気づいていなかった。後ろに人が居たことを。
「あ……がッ?」
後ろにいたその人物は、彼の背中に思いっきり拳を叩きつけた。
驚いた彼の腕を、私はすかさず払いのける。
「な、な……ぁ?」
彼は何が起きたのかまったく理解できていない。
後ろから突然殴られたのだから無理もないかもしれないけれど。
彼を殴った『男』は、筋肉質の腕をぐるんぐるんと回している。
「ったく、タテハからヨミがここにいるって聞いてきたら……まさか大事な妹に手ぇ出そうとしてる野郎がいるなんてな」
「……ノゴ」
目の前の、この男は……私達4つ子の長男、ノゴだった。
「ヨミ! おおう、ちょっと見ぬ間に綺麗になったなぁ!」
子供みたいな満面の笑顔を向けてくる。
三年くらい会っていないのに、変わっていないようだ。
「ヨミーッ!」
「……」
抱きつこうと飛びついてくる。私はそれを避ける。
「なんで避ける!?」
「なんで抱きつこうとするの?」
「そりゃ再会の抱擁は必要だろ」
「別に要らない」
「……ぷっ。あっはっはっは、ヨミらしいなぁ! 昔から何も変わっちゃいない」
「ノゴもね」
「おう!」
ノゴは三年ほど前に『強くなりたい』と言って突然家を出た。
そしてその数か月後には武術家に弟子入りをしている、という情報をタテハ伝手で聞いた。
そのまま遠くの街で武術の鍛錬をしている、そう思っていたのだが……。
「戻って、きたの?」
「まあな。タテハがよ、たまにはみんなに顔を見せてやれって」
「ん……。きっとお父さんやお母さん、ルーメも喜ぶよ」
「ヨミは!? ヨミも喜んでくれてるよな!」
「どうだろう」
「ぐっはぁ……キツいぜその反応」
相変わらず、明るくて無鉄砲で呑気。
でも、ノゴのそんなところがたまに羨ましくなる。私は根暗だから余計に。
「なんだ、お前は……ま、さかお前がヨミの想い人、かあ!?」
殴られた彼は、よろよろと立ちあがる。
「違う違う。俺はヨミの兄貴……みたいなもんさ。想い人ってのはまた違うヤツだろうよ」
「よ、ヨミの兄貴……だと……!?」
「ほら、ヨミ。とっとと行けよ」
「いいの?」
「アイツのとこ、行くんだろ。タテハから聞いてるぜ。再会のあいさつくらいゆっくりしたかったけど、仕方ねえ。
お前達の恋路を邪魔するわけにいかねえしな」
「……ノゴ、ありがと」
「おいおい照れるぜ。
……あのな、ヨミ。俺はな、未だにあの野郎のこと嫌いだ。お前達に暴力振ってた最低野郎だからな。
でも、タテハやルーメが言ってたんだ。ヨミの行動に間違いはない……ってな」
ニヤっと、タテハみたいに口元を上げてみせる。
こういう何気ない仕草を見ていると、やっぱりノゴは私達の兄妹なんだなって思う。
「……」
「俺はバカだし、お前達三姉妹とは別々に暮らしてたからよ……初めて会ったあの時も、お前達のこと何も分かってやれなかった。ごめんな。
でも、こんなバカで、兄として認めて貰えて無いような俺でも、さ……お前がこの数年間ずっとあの最低野郎のことを想い続けてたことくらい知ってるぜ。
だから俺があの野郎のことをどれだけ嫌おうと、ヨミが想えるようなヤツならきっといいヤツなんだって確信できる。
……へっ、自分でも何言ってるのかさっぱりだ」
少し困ったような顔をしながら、頭をかいている。
裏表のないこんな性格だから騙されやすいし直情的だけど、だからこそまっすぐ想いを伝えることが出来る。理屈ではなく、ただ思ったことをそのまま伝えることが出来る。
やっぱり、羨ましい。
「……ありがと。私、今でもノゴのことタテハやルーメと同じ三つ子とは思っていないけれど……でも。
大事な家族だって思ってる。……私達の自慢の兄……そう、思ってる、よ」
「十分だぜ。いや、それだけでむっちゃ嬉しい。兄貴感激。
ま、だからよ……たまには兄貴らしいことさせてくれや」
「……ん」
ノゴは、彼に対して悠然と近づいていく。
「……おい、てめえ。どういう了見で俺の妹に手を出そうとしてたんだ、ああ?」
「くッ……ヨミの兄貴だからって調子に乗るなよ」
「ふん。そういうセリフは俺を倒してからいうんだな」
ノゴは腕を構え、足を開き……低い姿勢を取る。
「な、なんだその構えは……まさかお前……」
「ん、ああ……こう見えて俺は武術を嗜んでる。
ま、まだ三年くらいの新入りみたいなもんだがな」
「ッ……ぶ、武術家がシロウトを殴るのは卑怯じゃないのか!」
「無抵抗の女に乱暴しようとした男は卑怯じゃねえのかよ」
「うッ……」
「ま、卑怯かどうかはこの際どうでもいい。
……てめえはな、俺の大事な妹を傷物にしようとしたんだ。これがどういう意味か分かってんのか?」
「女を自分のものにしようとして何が悪い!?」
「なんにも分かってねえようだなお前。ずっとヨミと一緒に歌やってたんじゃねえのかよ。
いいか、てめえがやろうとしたことは女をものにする云々の話じゃねえんだよ。
ずっとずっと一人の男だけを想い続けてきた一途で純情なヨミの想いを、お前は踏みにじって汚そうとしたんだよッ!てめえには死も生ぬるいぜッ!」
「……ッ」
「ヨミ、行け。……アイツの傍にいてやるんだろ?
安心しな。もしあの野郎がお前のこと拒絶したら、その時は俺が殴りに行ってやる」
「……ん」
ノゴは、背中を向けたまま私に語りかける。
頼もしい背中。私の窮地を救ってくれた、愛すべき家族。
「……ありがと、お兄ちゃん」
「……へ、へッ……ありがとうは、こっちのセリフだぜ」
涙混じりの声が、駆け出した私の耳にそっと届いた。
後ろを振り向くことなく、監獄へと向かった。
******************
「はぁ……はぁ……ッ」
もうすぐ、もうすぐだ。もうすぐで、ご主人の所へ着く。
高鳴る鼓動は、なんだろう。震える体は、なんだろう。走っているからだろうか。
息も絶え絶えなのに、体は疲労をものともせずに走り続ける。
止まらない、もう止まることは決してない。
「はぁッ……はぁッ……」
「随分と遅かったですね」
「……ヤソ」
監獄の前に、ヤソが立っていた。
いつもの出で立ち、いつもの無表情。特に変わり映えはしない。
「何か御用ですか?『猫歌姫』」
「……私を、この中に入れて」
「お断りします。……あのですね、私は一応この監獄の看守長なんですよ?」
「……タテハの言うことには従順の癖に」
「うぉっほん!」
私の言葉をわざとらしい咳払いで遮る。卑怯だ。
「……まあ、でも……もしかしたら心が弾んでいる隙に野良猫の侵入を許してしまうかもしれませんね」
「?」
少し目が泳ぐヤソ。何処かわざとらしい。
「私、ファンなんです……猫歌姫の。
例えば詰所に何故か、色紙が二枚用意してあったりして……。
それで、そこに何かの間違いで猫歌姫のサインなんて書かれてしまった日には、嬉しさでつい警備の手を抜いてしまうかもしれません」
「……」
「すぐにくれ、とは言いません。全てが終わった後に、書いてくださるのならば十分です。
もちろんこれは、独り言です」
「……」
……素直じゃない。見逃してくれるのなら見逃してくれるって直接言ってくれればいいのに。回りくどい。
でも……嬉しい。ヤソが私のことを助けてくれるなんて。
「あと、その……罪滅ぼしという訳ではありません、けれど……。きっと、必要になると思う物を用意しておきました。
色紙と同じところに置いてあるので……確認しておいてください。手癖の悪いネコが入り込んで盗んでしまう前に」
「……あり、がと。ヤソ」
「独り言にお礼なんて言わないでください。それから……独り言ついでに……。
頑張ってください。私もきっと、貴方のようになって、みせます……独り言、です」
ヤソは少し照れて、恥ずかしそうにしながら……私の手を握り、そしてすぐに離す。
彼女は詰所の入り口を、そっと指差す。
私はそれに従うように、詰所へと足を踏み入れていく。
入り際に、私はそっと……彼女へ言葉を捨てていく。
「……タテハのこと、これからもお願いね。……独り言、だよ」
「…………はいッ」
ヤソの短い独り言が、そっと響く。
その時にほんの僅かだけ見えた、彼女の満面の笑み。
私は、その笑顔を決して忘れないだろう。
*****************************
地下へ続く階段をゆっくりゆっくり降りていく。
詰所にあったカギを握りしめ、私は地下二階の扉を開く。
「……」
詰所に置いてあったものは、牢獄のカギ、そして……ご主人の所持品だった。
所持品と言っても、あったものは僅かだ。それもたった二つ、のみ。
留置されるまで大切に持っていた、ご主人の心。
「ずっと、持ってたなんて……」
私は歩み、進む。
誰もいない地下二階。私はそっと足を動かし、足音をたてないように進んでいく。
「……」
着いた。ついに、ここまで来ることが出来た。
ご主人のいる、この場所まで。
明かりが一つだけついている牢屋の前で、私は足を止める。
「……ッ」
高鳴る胸の鼓動が抑えきれない。言葉を急いで紡ごうとする口を抑えられない。
焦ってはダメなのに。この、最後の戦いは冷静に対処しなきゃいけないのに。
頭が熱くなって、クラクラして、最後には真っ白になる。ああ、これが恋をするってことなのかな……。
意を決し、私は檻に手をかける。
「……来た、よ」
「……」
ご主人は、私がいる檻とは反対側の壁に向かって座っている。
もちろん反応はない。寝ているようには見えないけれど……。
「……ご主人、来た……よ」
「……」
何も喋らない。何も反応をしてくれない。
これじゃあ、会話にならない。
「怒って、るの……?」
「二度と来るな、そう言ったはずだ」
ご主人がやっと口を開いてくれる。相変わらず背を向けたままだけれど。
「……理由ももはや聞くつもりはない。口を利くつもりもな。
……ここに来たところで、意味など無い。早々に帰れ」
「意味なら、ある。私がここに来たという意味。私がやっと、ここにまでたどり着けた意味……」
そうだ、意味はある。たとえご主人であろうと、意味がないなんて言わせない。
タテハにいっぱい助けてもらった。ルーメにいっぱい勇気をもらった。
ノゴにも、ヤソにも……手を貸してもらった。色々な人の力を借りて、ここまで来たんだ。
意味が無い訳、ない。みんなの想いを全て背負って、私はここに来ることが出来たんだから。
「……ふん」
どんな顔をしているのか分からない。これじゃあ会話と言えない。
「ご主人の顔、見たい」
「……」
やっぱり無言。もう手段は選ばない。
一度顔を見たいと思ってしまった以上、もう止まらない。
私は、牢屋のカギを鍵穴にあてがう。
「入る、ね……」
鍵穴にカギを差し込み、そのまま回す。
牢の錠は、乾いた鉄が擦れる音を響かせる。
「待て、何故お前がカギを持っている……」
檻の中まで入っては来ないだろうと思っていたのか、驚いたご主人がこちらに振り向く。
「……口、利かないんじゃないの?」
「チッ……」
「カギはね……盗んだんだよ。看守の目を盗んだの」
「……相変わらず手癖の悪いネコだ」
「ん……」
私は牢の鉄格子を開いて、その中に入り込む。
ご主人はまた私に背を向けている。そんなに私と対面するのがイヤ、なのかな……。
無理矢理振り向かせるのは何故か躊躇われた。
私はご主人のすぐ後ろにまで歩み寄り、背中合わせになる形で膝を抱えて座り込んだ。
「……この地下二階には、ご主人しかいない、ね」
「……」
「さみしくない?」
「……」
「ちゃんと温かくしてる?」
「……」
「ごはん、食べてる?」
「……さっきからごちゃごちゃうるせえな。お前は俺の母親か?」
「違う。私は、ご主人のお母さんじゃない。
でも、ご主人も私のお父さんじゃない……」
「ああ、そうだ。……分かってるじゃねえか」
「なのに、ご主人はね……私達の面倒、見てくれた、よね。
ご主人が私達を一緒に育ててくれたから、さみしくなかったよ。
ご主人がいっぱい布きれくれたから、寒くなかったよ。
ご主人がちゃんとご飯くれたから、飢えることもなかったよ。
……だから私も、ご主人にとって赤の他人だったとしても……同じように世話してあげたい」
「その時の世話や面倒の恩は全て返してもらったと言ったはずだ」
「……これは恩返しじゃないよ。私がしたいから、するの」
「ならばなおさらお前が俺を気にかける理由がない」
「……ん。理由は、ない。……なかったハズだよ、ご主人も。
私達姉妹を買って、育てる理由なんて、なかったハズ……」
「……」
「どうしても理由が欲しいのなら……理由、教えてあげる」
「ご主人は……私のこと、嫌い、だよね……?」
「……ああ、嫌いだ。大嫌いだ」
「ご主人にとって……私、もう必要ないんだよ、ね……?」
「…………ああ」
「……そう、なんだ……。やっぱり、そうなんだ、ね」
「……」
……何度だろうと、嫌いと言われるのは辛い。
必要ないって言われるのは……悲しい。
でも、もう逃げない。私はもう、逃げない。
私は、私の想いを伝えるんだ。ご主人の気持ちは、もう考えない。
私は振り向いて、ご主人の背中に抱き着く。
体を、私全てをご主人に押し付ける。
「触るな……嫌いって言ってんだろッ」
嫌い。そうご主人は言うけれど、抵抗はしなかった。
今の自分の腕力では抵抗することが無駄だということを知っているのか、それとも心の中では受け入れてくれているのか。
どっちでもいい。
私は、私の想いを……伝えるんだ。
「どんなに嫌われてもね……私、ご主人のこと……好き。……大好き、だよ」
「……ッ」
「嫌われても、要らないって言われても……もう、手遅れだよ……。
私の心は、五年前から決して揺れることがない。ずっとご主人だけを求めてた」
……言えた。やっと言えた。
ありがとう、タテハ。ありがとう、ルーメ……。ありがとう、みんな。
私、言えたよ。やっとこの想い、ちゃんと言葉に出来たよ。
「バカ、野郎……ッ。
お前、こんな俺に……恋心を抱いていたというのかッ……?」
ご主人の背中は、酷く震えている。
あの時と一緒だ。五年前、私に日記を見られて……それで震えていたあの時と一緒だ。
涙があふれて止まらない。あふれ出る私の涙が、ご主人の服を濡らしていく。
「……ごめん、なさい」
「ッ……この野郎……」
「……ごめん、なさい」
「謝るなッ!……謝らないでくれよッ……。
お前は、何も悪くはねえ……誰かを好きになることが、悪いことの訳がねえ……」
「……ううん、この想いは……悪いことだよ。
だって、私は……ご主人が奥さんのことを愛していることを知ってる……。
なのに、私……」
「ッ……」
ごめん、ごめんなさい。でも、ありがとう。
ご主人に悪くないって言って貰えて……内心嬉しい私がいる。
こんなにひどいことを言っている私を、悪くないって……言ってくれる。
私はそっと、写真を取り出す。ご主人がずっと持っていた二つのモノのうちの、一つ。
「変わってない。ご主人の想いは、変わってない。
……この写真、ここに留置されて没収されるまで……ずっと持ってたくらい、だから」
「……」
ご主人は振り返ることなく、言葉を漏らすこともなく。
ただ私の話を、聞いている。
「だからね、ご主人から愛されることはないってことくらい……分かってたよ。
この写真を詰所で手に取った時……確信できた、よ。
私じゃ、ご主人の奥さんの代わりにはなれないってこと」
「……そう、だッ。お前じゃアイツの代わりにはなれないッ!
俺が愛した女、は……!」
ご主人の体が、一際大きく震える。
奥さんのことを想うたびに震え、そして……泣いてるんだ。
「ん……。ご主人が愛した女の人は……奥さん、だもんね。
私じゃ、ないもん、ね……」
「ッ……アイツの代わりにお前を愛することなんて、俺にはできないんだ。
…………すま、ない」
「謝らないで、ご主人。ご主人は何も悪くないよ。
ご主人はね、立派だよ……。亡くなった奥さんのことをずっと想ってる。
……私だって、同じだったからよく分かるよ。どんなに離れたって、ずっと想ってた、もん……」
ずっとずっと、想ってる。今だってご主人のことだけを想ってる。
ご主人が奥さんのことを想っているのに負けないくらい、想ってる。
この想いは誰にも負けない。……でも、この想いは実らない。
私はご主人の傍にはいられないんだ。
そんなの、昨日の時点で分かっていたんだ……。
「だから、ね……一つだけ……一つだけ、わがまま……いい?
たった一つだけ、わがまま……。このわがままさえ聞いてくれれば、もう二度と関わらない、から。
もう、二度と……会わない、から」
「……ッ」
私はそっと、カギを取り出す。
牢のカギではない。これは……かつて私が握りしめていたもの。
「……ご主人、これ……ずっと持っていてくれたんだ、ね……」
ご主人がそっとこちらを振り向く。
「……たまたま持っていただけだ。……深い意味はねえよ」
ご主人が所持していた二つのモノのうちの一つ。
これは、私達がつけていた首輪のカギだ。
あの時私を自由にしたモノ。私を奴隷から解放した存在。
私達との繋がり。それを、ご主人はずっと持っていてくれた、んだ。
「……嬉しい」
「俺がそれを持っていたことが嬉しいだと? バカネコめ」
「だって、ね。私も……ずっと持ってた、から」
「何?」
私は、家から持って来たモノをそっとカバンから取り出す。
ずっと持っていた宝物。私にとってご主人との一番強い絆だったもの。
私の、首輪……。
「そんなもん後生大事に持ってたってのかよッ……救いようのないクソネコだな」
「ん……」
「奴隷から解放されたってのに、まだ奴隷にでも未練があるのか? だとしたらとんでもないマゾネコだなお前は」
ご主人はバカにするように罵る。
「ん……。そう、だと思う」
「なに?」
「お願いはね、それ。……私を、もう一度……ご主人の奴隷にして欲しいの」
「なッ……お前まだそんなことをッ」
「私の心は変わってない。……でも、今の世では奴隷にすればご主人が罰せられてしまう。
だから、だからね……今夜だけでいい。今夜だけでいいから……私を、昔みたいに……奴隷にして」
「ッ……」
「奴隷なら、一緒にいられる。妻や子や家族じゃなくても、一緒にいられる、から」
「お前ッ……」
「それに、ね……奴隷なら……その……抱いて、もらえる……から。
たとえご主人が私を愛してくれなくても、奥さんになれないとしても、奴隷なら『使って』もらえる、から……」
「ば、バカッ!」
一緒に居られないのなら、一夜の夢なら……せめて。
忘れられない夜にしてほしい。情けが、欲しい。はしたないと言われても構わない。
「……嫌ったままでもいい。愛してくれなくてもいい。殴ってもいい。だから、一緒にいたい。
僅かな時間でもいい。だから、お願い……私のわがままを……叶えて、くださ、い」
首輪を、差し出して頭を下げる。
汚い牢獄の床に、額を擦りつけながら……私は乞う。
「私を、また……ご主人の『ネコ次女』にして、くだ……さい……」
……。…………。
たった数秒が有り得ないほど長く感じる。
そっと頭を上げてみると、ご主人はまた背を向けていた。
「……バカ野郎が。そんな願い、俺には叶えられねえよ」
「……ダメ、なの?」
「ダメだ。ダメなんだよ……」
「……」
「俺は……ミナのこと、今でも好きだ。……大好きだ。
でも、お前のことだって……同じくらい好きなんだよ……ッ」
「……え?」
私のこと、好き……って……?
私のこと、嫌いじゃない、の? 私はご主人の嫌いな、ネコ……なんだよ……?
「ずっと、一緒に暮らしていた。ずっと、一緒に居た。
愛するつもりはなかった。愛してはいけなかった。嫌われてるくらいが都合がいいはずだった!
でもよ……無理、だった」
「……」
「お前達のこと、大好きだ。……嫌いなワケ、ないだろ……。
お前達と暮らしたあの六年間、幸せだったんだ……俺の、宝物だったんだ……ッ。
お前はミナの代わりにはなれねえ……でも、お前の代わりだっていねえんだ……ッ!」
「ごしゅ、じん……」
背中を向けたまま、ご主人は話し続ける。
声が震えている。泣いているのが分かる。ずっとため込んでいたものを吐き出すように。
ずっとずっと、想っていてくれたことが……痛いくらいに分かる。
「俺はお前達の親じゃねえ! でも、それでも……大事な娘のように想っちまった!
大切な、俺の娘達になっちまった! 奴隷で居てほしくないと思っちまった! 自由になって欲しいと思っちまった!
幸せにしてやりたいって思っちまった! ……一緒に居てほしいと、思っちまった……」
ご主人がこちらを振り返る。
涙を流しながら、悔しそうに歯噛みしているご主人の顔がそこにはあった。
歯を食いしばってずっと漏らさないようにせき止めていた想いが……あふれ出ていた。
「なんでだよ……なんでまた俺の前に現れたんだ……ッ。
あのまま別れれば、俺たちは赤の他人でいられた、のに……!」
ご主人の手が、私の肩を掴む。
痛いほど強く掴まれる。強張った腕から、震えも伝わってくる。
想いも、苦しみも、全てが……伝わってくる。
「俺は、幸せになっちゃいけねえんだ……!
俺と一緒に居てくれたミナを裏切って、俺だけが幸せになっていい訳がねえ……!」
そして、私の肩を掴んでいた手も……力なく落ちていく。
私はその手を掴もうとして……でも、掴むことが出来なくて。
「……くそッ、くそッ……俺は、どうすればいいんだ、よ……ちく、しょ、う……」
「ご主人、バカ……ご主人は、バカだよ……。
そんなこと、奥さんは裏切りだなんて思ってない……!」
手を掴もうとしてそっと手を握るが、払いのけられてしまう。
「お前に何が分かるっていうんだッ」
「分かる、よ……。だって、私も奥さんも、同じ人を好きになった……!
だから、会ってもいない奥さんの気持ちが痛いほど分かる……」
「ッ……」
ご主人の手を今度こそ掴む。たとえ払いのけようとされても、もう離すつもりはない。
「ご主人、お願い……奥さんのことも、私のことも考えないで。
自分のやりたいことをやって欲しい。私がそうしたように、自分の幸せを……掴んでほしい」
「……」
「私ね、ご主人の都合はもう考えないつもりだった。ただ自分の想いを貫こうとした。
でもやっぱりダメ。ご主人が笑ってくれないとイヤ。ご主人が幸せになってくれないと……イヤ」
「……」
「それにね、ご主人に想いを打ち明けて分かった。ご主人がね、幸せになってくれるのなら……。笑っていてくれるなら。
私、もうそれだけで幸せ……。たとえ私が傍にいられなかったとしても……ご主人さえ幸せになってくれれば十分……。
きっと、奥さんもそう思ってくれると信じてる。だから、ご主人……私達のことは、いいから……。
幸せを、掴んで……。私達は、それだけを願ってる……」
自分の手が、震えている。ご主人の手を握って安心させてあげたかったのに。
私がこんなに震えてちゃ……ダメ。でも、これでいいんだ。
奴隷の私が一番に望むものは……ご主人の幸せ。そんなの、当然なんだ。
ご主人はずっと黙ったまま泣いて、泣いて……服の袖で、涙をぬぐう。
ご主人の瞳が、私を捉える。捉えたまま、離さない。
「……ちく、しょう……俺は……」
ご主人は後ろに倒れ込む。ご主人の瞳は、汚い牢の天井をぼんやり眺めている。
「俺の、俺達の幸せ……なんて、もう判り切っているんだ。
……なあ、ミナ……そうだよ、な」
「ご主人……?」
ご主人は起き上がり、そして私の首輪とカギを拾い上げる。
「……来い。今からお前を、俺の奴隷にしてやる」
「……えッ……?」
奴隷にしてくれる、の? 本当に?
また私を、ご主人の奴隷に……して、くれる……の?
私は、ご主人へと近づく。
「……」
ご主人の手が私の髪をそっとかきわけ、首を露にする。
そして、首輪を首にそっと取り付けて……カギを、鍵穴にあてがう。
「……いい、な?」
「……ん」
カチッ………………。
自由が失われ、そして……私は、また『ネコ次女』へと戻った音がした。
「……私、ネコ次女に戻れた……これで……」
一緒にいることが出来る。家族じゃないけれど……でも、一緒にいることができる口実が出来たんだ。
一夜限り……だけれど。私は、この一晩の為に生きてきたんだ。
奴隷としての幸せ、女としての幸せ、私としての幸せ……全てをこの夜に置いていく。
約束をした、から。この夜が終われば、私はもう二度とご主人とは関わらないと。
……分かっている。たとえどんなに離れても、会うことが二度となくても。
私は、ご主人のことを忘れることは出来ない。想い続ける。ずっと、ずっと……。
それでも構わない。今だけは、一時の夢に……全てを、委ねる。
……そのはず、だった。
「残念だがお前はネコ次女じゃねえ」
「え?」
ご主人は、私を……ネコ次女を、拒絶する。
なん、で? 私、ネコ次女に戻ったんだよ? ご主人の奴隷に、戻ったんだよ?
「私は、ネコ次女……」
「……ネコ次女は五年前に逃がしてやったんだ。もう戻っては来ねえよ」
「……ご、しゅじん?」
どういう、こと? 私はこうして、戻ってきた、のに。
ご主人は突然、私の首輪を掴む。
そして首輪に付いているある部分だけを、無理矢理引きちぎる。
「……」
「……ほらな、お前はもうこれでネコ次女じゃねえ」
ご主人は引きちぎった『ネコ次女』と書かれたネーププレートを、無造作に放り投げる。
「代わりに新しい名前、つけてやる」
新しい、名前……?
ネコ次女じゃない、新しい名前を……私に?
ご主人は、私に向かって優しく微笑んで……腕を広げる。
「『ヨミ』…………おいで」
「ぁ……ぁ……」
言葉に、ならない。今、ご主人は……確かに私の名前を呼んでくれた。
初めて……私のことを名前で呼んでくれた。
ヨミ。私は……ヨミ。私はご主人の奴隷、ヨミ……。
涙が……遅れて……溢れでていた。
「ふっ……あぁぁぁッ……ご、しゅ……じんッ……!」
ご主人の胸に、飛び込む。この愛おしい人を、壊れてしまうくらいに強く抱き着く。
ずっと、そう呼ばれたかった。ずっと、ヨミって呼んでほしかった。
ずっとずっと、そう呼んでほしかったんだ……。
「ヨミ……お前は、温かい、な」
ご主人は私の背中をぽんぽんと優しくさすってくれる。
冷たいはずのご主人の手が、どこまでも温かく感じられた。
「……ん」
さっきまで考えていたことが全て真っ白になってしまった。
もうどうだっていい。この後二度と会えなくなること、抱いてもらいたかったこと……全てどうでもよくなってしまった。
「ヨミ……俺の幸せなんて、分かり切っていたんだ。俺もミナも、同じだったんだ。
俺とミナが愛した『娘』のネコを、抱きしめてやること……。目の前で苦しんでいる『娘』を、救ってやること……」
「むすめ……で、いい、の……? わたし、『ふたり』のむすめで、いい、の……!?」
「……娘じゃねえかもしれねえ。ただの奴隷なのかもしれねえ……でも、な」
「これだけは言える。お前は、俺とミナにとって大事な家族だ…………」
「……ほん、と……?」
「ああ。俺とミナのこと、ずっと想ってくれていたんだ……。
この指輪も、お前が持っていてくれた……。
ありがとう……俺とミナの絆……大切に持っていてくれて」
ご主人は、私の首元……首に架かっているネックレスに通している指輪にそっと触れる。
私の宝物。そしてご主人と奥さんの、大切な絆の証。
「なぁ、ヨミ……今夜だけじゃなくてよ。ずっと、……一緒に居て、くれないか?
俺と、ミナの傍に……居てくれないか?」
「……いる……ッ、わた、し、ごしゅじん、といっしょ、にいる……。
ずっと、ずーっと、しぬまで……ううん、しんだとしても、いっしょにいたいッ……」
しゃくりあげて、うまく喋れない。
それでも、私は言葉を紡ぐ。一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。
「そ、っか。……ヨミ、ありがとう」
わたし、ずっと一緒にいていいんだ。
ずっと二人と一緒にいていいんだ。
ずっと、傍にいていいんだ。
ご主人と、幸せになっていいんだ。
「うっ……ぐすッ……あの、ね、ごしゅじん……!
私、歌手になったんだ、よ……いっぱい、いっぱい、聞いてくれる人がね、いる、の」
しゃくりあげて言葉を話すのが大変なのに、溢れる想いが言葉を紡ぎ続ける。
いっぱいいっぱい、話したいことがあった。ずっと聞いてほしいことがあった。
ご主人にいっぱい、私の経験したことをお話したくて仕方がなかった。
「歌手か……ホント、『お母さん』にそっくりだな」
ご主人は柔らかく微笑んでくれる。
「広い舞台でね、たくさんの人の前で歌うの……!
みんな拍手してくれる、の……みんな、私の歌が好きだって言ってくれる、の……」
「……ヨミ、お前すごくなったんだな。
いっぱい、練習したんだろ?……よく頑張ったな」
ご主人の、手が、私の頭に置かれて……そして、不器用に撫でた。
「……ぁ」
「どうした?……あ、もしかしてお前、頭撫でられるの苦手だったか?」
「お願い……お願いだから、やめないで……。
もっと、もっと……いっぱい、して欲しい……」
「ああ、わかった」
……これ、だ。これだった、んだ。
私が求めていたもの。私がずっと探していたもの。
私が、奴隷になってまで取り戻したかったもの。
この手に撫でて貰った十年前からずっと、これが欲しかったんだ。
名前を呼んでほしかった。話をいっぱい聞いてほしかった。そして……。
この手に、いっぱいなでなでして欲しかったんだ。
「も、っと……」
「ああ」
心の中が満たされていく。欲しかったもの、全て……私は手に入れたんだ。
ずっと欲しかったもの。ずっとずっと、心と体が求めていたものが、全部。
安らかな気分になって、まどろみに引き込まれていく。
でもまだ。もっともっと、お話したい。もっともっと撫でてほしい。
もっともっと、このぬくもりを感じていたい。
「……ご主人、もっともっといっぱいお話聞いて……ほし……い……」
「ああ……お前の気が済むまで話してくれ」
「えっと、ね……他にも、いっぱい、あ、る……」
まぶたが重くなっていく。もっともっといっぱい話したいのに。
「焦らなくてもいい。ずっとこうやって一緒にいてやる……だから、ゆっくり話せ」
ああ、そう、だ……。
ずっと一緒、だもん……ここで眠って、朝を迎えてもいい、んだ。
明日も、明後日も、その次の日も……一緒にいられるんだ。
「……ずっといっしょ……」
だから、もう……何も、こわくない、よ……。
「ああ、ずっと一緒だ……」
「ん……ごしゅ、じん……」
「ヨミ?」
「すぅ……すぅ……」
「……よっぽと疲れてたんだな。
おやすみ、ヨミ……ありがとな……。
ミナ……やっと俺たちにも、娘が……できた、よ……」
*********************
あれから。
私が、ご主人と一緒になってから……数か月が経った。
「……」
今日も私は、公演を終える。
新しい舞台での公演も増え、ずっと忙しくなった。
でも、毎日が充実している。楽しい日々。
私は、ここで……生きている。
首輪をそっとなでる。あの日から新しい絆を得た、この首輪を。
観衆どころかタテハやルーメですら、私が首輪をつけていたことに驚いていた。
でもそれは最初のうちだけ。みんな『ヨミだから』という理由で、納得したようだ。
自由気儘で、奔放。それが、私だから……と。
亜人権からも見て見ぬふりをされている。……私が言うのもなんだけれど、いいのだろうか。
外に出ると、遠くから走ってくる人影が真っ先に視界に入った。
「あ、ご主人……」
「はぁ、はぁ……もう終わっちまった、か……くそ」
「……ん」
ご主人は息を切らしている。
新しい仕事を見つけて毎日忙しそうなご主人。
忙しいはずなのに、何故か私の公演に来たがる。間に合うわけがないのに。
「畜生……悪い、ヨミ」
「……いい。期待はしてなかったし」
「してなかったのかよ」
「……ご主人にはご主人の仕事がある。だから、それを優先して欲しい」
「だ、だけどよ……」
「ご主人……そんなに私の歌、聞きたい?」
「そ、そりゃあ聞きたいに決まってんだろ」
聞きたい、んだ。
……聞いてほしい気もするけれど、やっぱり聞かせたくない。
かつての私が歌う歌は、恋の歌。でも、今の私が歌う歌は……。
ダメ、やっぱり恥ずかしい……。
「ご主人には、聞かせたくない」
「はぁ?なんだよそれ」
「……秘密」
「なんでだよ……」
ご主人の左手には……指輪が光っている。
あれはご主人と奥さんの、思い出の指輪。大事な、二人の絆。
名前の部分は消えてしまったけれど、でも……絆までは、消えずに済んだ。
奥さんの方の指輪は、相変わらず私が持っている。前と同じく、ネックレスに通して肌身離さず持っている。
これを左手の薬指に通すことはきっとないだろう。これは……これは、奥さんのものだから。
私には、指輪はない。けれど、この首輪がある。
指輪にも負けない、ご主人との絆が……私にもあるんだ。
「ちッ……まぁいい。ほら、帰るぞ……ヨミ」
「……うん」
私はご主人の腕にぎゅっとしがみつく。体全体を押し付けるように。
「バカッ、そんなにひっつくやつがあるか!」
「ご主人はうるさい」
「離れろ!……くっ、この……」
ご主人は腕から私を振り払おうとしているが上手くいかない。
そんな簡単には剥がされない。女だからといって甘く見てもらっては困る。
「私はもうご主人を絶対に離さない」
「主人命令だ。離れろ!」
「ん? よく聞こえない」
「こ、このクソネコ……!」
「そんなに離れてほしいの?」
「そりゃあ、な……。は、恥ずかしいし、よ……」
「わかった。なら……ご主人からぎゅっとしてから、頭いっぱいなでなでしてくれたら、離してもいい」
「ば、バカ! こんな往来でそんなこと出来るか!」
「じゃあこのままだね……ぎゅー……」
「~~~ッ!」
更に強くしがみつく。ついでに私は、ご主人の腕に頬ずり。
……すごく恥ずかしい体勢だけど気にしない。私のご主人は、自慢のご主人だから。
「……すりすり」
「……くッ」
見ればご主人の顔は、真っ赤だった。よっぽど恥ずかしいんだろう。
……私の頬も、きっと真っ赤だ。でも恥ずかしいからじゃない。
つい顔が緩んでしまいそうな……この暖かくて心地いいこの気持ちのおかげ、だと思う。
これがなんなのかは、もう知ってる……。
「わかった、わかったから……ほら、これでいいんだろ」
大分歩いてから、ご主人はついに周囲の目から耐えられなくなったのか止まって私の頭を撫でてくる。
大きな手。でも、もうその手は冷たくない。温かいとまでは言えないけれど、少しずつぬくもりを取り戻しつつある手。
きっと、温かい手に戻してみせる。でも今は、今だけは……いっぱい私を撫でていてほしい。
「……もっと、もっと」
「ほら……」
「……ん」
わしゃわしゃと、少し無骨に頭を撫でてくれる。
頭、ミミ……撫でられるのが気持ち良くて、何度も何度もおねだりしてしまう。
「……しあわ、せ……んっ……」
大好きな人に、頭を撫でてもらえる……その安心感が、私の体から緊張と疲労をほぐしてくれる……。
そして……心地のいい眠気が私を襲う。この心地好さに耐えることなんて、無理……。
「ここまで! もう充分だろ……?」
「……もっと」
「バカ野郎、寝落ちしそうじゃねえか!
家に帰ってから寝やがれ!」
「寝たら、おんぶして……」
「おいてくからな」
「ひどい。ご主人は理不尽」
「約束を守らないお前の方が理不尽だと思うぞ?」
「……仕方がない。まだ全然足りないけれど、約束だから離れる。
でもねご主人……もう家の前だよ」
「な、にッ……!?」
私も今気付いたけれど、もう私達の家は目前。
もうくっついて歩く必要はないんだ。
……当然、家の中に入ったらまたいっぱい甘えるけれど。
「ご主人は、たまに間抜けだね……」
「こ、この野郎……!」
ご主人の声を無視して、私は家のカギを開ける。
……ご主人が留置される前に住んでいた家。狭くて、汚いけれど……でも、居心地の良い、私の家。
「お前、家の方はいいのか?」
「ん。朝に寄ってきた」
「……そうか」
私は今、ご主人の家に通う形で住んでいる。
ほとんどこちらに住み着いているようなものだが、ちゃんと実家にも毎日顔を出している。
最初お父さんとお母さんは反対したけれど、すぐに許してくれた。タテハが、お姉ちゃんだっていつまでも子供じゃないんだから、と説得してくれたらしい。……余計なことを。
……そういう関係には、まだなっていない。……今は、まだ。
この後、私達の関係がどう変化していくのかなんて、全然わからない。
でも、きっと……この距離感はずっと変わらない。
ずっと一緒にいるって、約束したから。
「ご主人……はやく家の中に入ろ?」
「……ああ、そうだな」
まだ何もない、さびしい家。でも、これからいっぱい物も増えていくだろう。
思い出をこれからいっぱい、ご主人と紡いでいく。それが、とても楽しみ。
ずっと、ずーっと……これから先……ずっと、一緒だから。
数奇な運命を辿り、やっとたどり着いた私達の幸せの形。
それは人から見れば、歪なものかもしれない。でも、今私は、幸せに生きている。
この首輪が、私の奴隷の証。
この首輪こそが、私の幸せの証。
私は奴隷ネコ。
気侭で、幸せな奴隷ネコ。
おわり。
あとがき(読み飛ばしてもらっても結構です)↓
やっと完結しました。いかがでしたでしょうか?
ここまで読んでくださっているということはおそらく全話読んで頂けているということ……だと思います。お疲れ様でした。
さて、今回の話は全編甘々な感じで書いてみましたが……どうにも慣れません。
ベタなのは嫌いではないのですがそれを書くとなると別問題で、やっぱり難しいものですね、恋愛モノって。
初期案では恋愛モノにするつもりはなかったのですが、妄想が暴走した結果こうなりました。割とご都合主義的な展開が多いのもそのせいだと思います。
後日談としておまけでも書こうかな、とか思っていましたが蛇足になりそうなのでやめました。とはいえこの後ヨミとご主人がどうなるかは想像に難くありません、よね?
最後になりましたが、ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。
私にとって評価を入れてくださるのは励みとなりますが、作品にとってはお読みくださること自体が何よりの喜びだと確信しております。作品を書いた者として、物語に代わりお礼申し上げます。
次回作でお会いすることがありましたら、その時はまたお付き合い頂ければ幸いです。
favony




