朝、女になっていた
女に縁がない。
これは謙遜でも卑下でもなく、ただの事実だ。二十五年間生きてきて、彼女ができたことは一度もない。合コンには三回呼ばれて三回とも空気になったし、社会人になってからは仕事と寝るだけの毎日で、そもそも女性と喋る機会自体がコンビニのレジぐらいしかない。
俺、田中(仮)は、そんな冴えないサラリーマンだ。
だから、その朝目が覚めて自分の体を見下ろした時、状況を理解するのに数分かかった。
ないはずのものが、ある。
あるはずのものが、ない。
布団の中で体を触って確認して、もう一度確認して、それでも現実が変わらないことを悟った時、俺は静かに天井を見上げて呟いた。
「……いや、待て。落ち着け」
パニックにはならなかった。正確には、パニックになる前に、脳のどこかが冷静にこう告げていたからだ――騒いだところで、何も解決しない、と。
鏡の前に立つと、そこには見知らぬ女がいた。いや、見知らぬわけではない。目とか輪郭とか、どこか自分の面影が残っている。ただし、全体的に線が細く、柔らかく、そして――余計な起伏がやたらと主張してくる。
「体は変わっても、俺は男だ」
鏡に向かって、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。中身は変わっていない。考え方も、性格も、好きなものも、全部そのままだ。だったら、これはただの一時的なアクシデントで、外側の見た目が変わっただけの話――そう思うことにした。
問題は、それでも会社には行かなければならない、ということだった。
女性用の服なんて持っていない。仕方なく、部屋着として使っていた少し大きめのシャツと、去年の忘年会の景品でもらったまま放置していたスウェットを引っ張り出し、なんとか外に出られる格好を整える。鏡で最終チェックをしても、誰がどう見ても女にしか見えないという事実は変わらなかったが、もう出るしかない。
そして、いつもの満員電車に乗り込んだ瞬間、俺は自分の判断の甘さを思い知ることになる。
朝の満員電車は、いつも通り地獄だった。
いや、いつも通りではない。今日に限っては、まったく別の意味で地獄だった。
ドアが閉まると同時に、四方から体が押し付けられる。普段なら「サラリーマンとサラリーマンが挟まっている」程度の圧迫感でしかなかったはずのこの状況が、今日は違う質量の視線と圧力を伴っていることに、田中はすぐに気づいた。
まず、匂いが違う。整髪料やタバコの匂いに混じって、自分自身から漂う、慣れないシャンプーの残り香。次に、当たる感触が違う。周りの誰もが、田中の体のラインを気にしているのかいないのか、やたらと体が触れる角度が多い気がする。気のせいだと思いたかったが、気のせいでは片付けられない視線もあった。
ふと、斜め前に立つスーツの男の目線が、妙な位置で止まっていることに気づく。
――胸元。
大きめのシャツの襟元が、押し合いへし合いの中で少し緩んでいた。田中は慌てて手で押さえようとしたが、両手はすでに吊り革と鞄で塞がっていて、身動きが取れない。
(見るな……見るなって……)
心の中で念じても、電車は無情に揺れ続け、シャツの襟元はさらに緩む。男の視線は動かない。
その瞬間、田中は自分の体に異変を感じた。
カッと、顔が熱くなる。首筋から耳の先まで、じわりと熱が広がっていく感覚。それだけならまだしも、体が勝手に縮こまり、肩をすぼめ、視線から逃れるように上体をひねろうとする。田中の「意識」はただ「見られている、気まずい」程度にしか思っていないのに、「体」はまるで別の生き物のように、過剰なまでに恥じらいの反応を示していた。
(な、なんだこれ……勝手に……)
理性では「別に減るもんじゃない、気にするな」と自分に言い聞かせようとしているのに、体はまったく言うことを聞かない。頬は熱を持ったまま、視線から逃げるための小さな身じろぎが止まらない。
斜め前の男が、田中の反応に気づいて、わずかに口角を上げたのが見えた。
その瞬間、田中は理解した。
――今、俺は、意図せず「恥じらっている女」に見えている。
中身は男のままだ。動揺こそすれ、羞恥そのものは感じていない、はずだった。なのに体は、まるで田中の意思を無視するかのように、勝手に「恥じらいの演技」を繰り広げている。
次の駅で、田中は逃げるようにホームへ降りた。本来降りるはずの駅ではなかったが、それどころではなかった。
人波が引いた後、ホームの端で息を整えながら、田中は自分の胸元を押さえて呟いた。
「……体、勝手すぎるだろ……」
この日、田中は始業時間に十五分遅刻した。
そして、これが「無自覚の恥じらい」との、長い戦いの始まりだった。




