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ジュリアンの傷心

 ――実はエレノアだったりしないよね?


 その言葉が高速メリーゴーランドのようにぐるぐると脳内を回っている。

 エレノアはぎくりとすらできないで全身ガチガチに固まってしまった。


「エリー?」


 表情が見えない分、傍目にはただ無言で佇んでいるようにしか見えないのかもしれない。

 ジュリアンの訝るような声に正気を取り戻したエレノアは、慌てたように首を左右に振った。


(どどどどうしよう! こんなわざとらしく否定したって疑いを持たれた時点で駄目じゃない!?)


「実は少し前、君とアメリア嬢がワーグナー事務所の入ってる建物から出てくる所を見かけたんだ」


(えっ! まさかジャスティンの所に話を聞きに行ったとか!?)


 正体と居場所がバレるような事は言わないでと頼んではあるので、ジャスティンに限ってうっかり話すようなドジは踏まないだろう、と思うもののエレノアは不安になった。

 エレノアの極限の焦りを余所にジュリアンは一人思考を整理するかのように話を続ける。


「ワーグナー弁護士はエレノアの家の顧問だったんだ。その彼に関わる書留が届いてね。僕も今まですっかり忘れていたんだけど、彼へ援助した分を丸々彼女から返されてしまったんだよ。だから出入りしていた君とエレノアを安易に結び付けてしまったんだけど、そっか、違うんだね。変なこと訊いてごめん」


(あれ? あっさり引き下がった? 申し訳なさそうだし、ちょっと冗談言ってみただけなのかしら)


 肩すかしを食らった気分のエレノアは、ここで閃いた。


(そうだわ、ここでついでに喧嘩しちゃえばいいんじゃない? 今度の夜会当日にいきなりハイさよならって告げてもしつこく食い下がられるかもしれないし)


 エリーとしてデート中もなるべく素っ気なく接してきた。

 世の中玉の輿と喜ぶ女性ばかりではないのだと、庶民エリーにとってジュリアンとの身分差は重圧なのだと、そう伝えてもあった。

 でも彼は実は拒絶されると燃えるタイプだったのかもしれない。


『でも覚えておいてエリー? この先僕が君を心から愛してしまったら、君のそんな躊躇や恐れが晴れるよう、君に今以上のアプローチをかけるから』


 と、そんな台詞が返って来た。ジュリアンには振られるという意識はないのかと、エレノアは唖然としたものだ。


(あの自信はどこからくるのかしら。まあイケメンなのは確かだし、社交界じゃ優良物件なのも事実だけど)


 以前の初々しさ奥ゆかしさよカムバック、と思わずにはいられない。

 質問の答えを聞いて用事は済んだのか、馬車の上で姿勢を正すジュリアンが今度こそ御者に合図した。


「じゃあエリー、引き留めるようになってごめんね。もう行くよ」


(あっまだ駄目!)


 咄嗟に動き出した馬車の車体に手を掛けたエレノアの大胆な行動に、ジュリアンが驚き慌てた様子で御者に停止を命じる。


「危ないじゃないかエリー!」


 怒られるのは甘んじる。確かに走り出す馬車に手を伸ばすのは危険行為だ。

 けれどエレノアの身を案じるために叱っただけで、次にはジュリアンは表情を優しいものにした。


「僕に話し忘れた事でもあった? 何もこんな危ない真似しなくても朝でも夜でもいつでも呼び付けてくれていいよ。何なら屋敷の方に来てくれたって構わないし?」


(いえそれは何か駄目でしょう。今とは違った意味で身が危ない気がするわ)


 心で突っ込むエレノアは、まあそれは置いといて、とまた自分で突っ込んでからジュリアンの方へと手を伸ばす。

 会話のために掌を……という意味だったのだが、不思議そうにする彼は何をどう思ったのか直後に身を乗り出すと,両手でエレノアの腰を摑むや馬車上に引き上げた。


(なっ、――!? !? !?)


 引っ張り上げた力が強かったせいで、二人して勢い余って席上に倒れ込む。


(――っ)


 思わず息を止めて体を硬くしたものの、ジュリアンが下敷きになってくれたおかげでどこも痛くはなかった。

 しかし放心のあまりすっかり彼に体重を預けて乗り上げる格好になってしまったエレノアは、しばらくは上から退けようという思考に至らなかった。

 無……だった。

 ただ幸いにしてジュリアンの方も、どこか呆けたようにして瞬きを繰り返している。きっと彼自身、予期せぬ転倒にびっくりしているに違いない。特に痛そうにはしていないので、怪我らしい怪我はないようだった。

 先に我に返ったのはエレノアで、彼が自分を護るように抱きしめてくれた両腕を外してくれないのに気付いて羞恥に染まったが、相手もまだ放心していたせいだと気付くと何とか気を持ち直した。

 手で小さく胸を叩くと、ようやく彼もエレノアの方を見て状況を理解したようで、ベール越しにじっと目線を合わせるようにしてきながらも腕の力を緩めた。


「君って……天使の羽みたいに軽いんだね。だからちょっと勢いが余ってしまったよ」

「……」


 天使の羽なんて持った事がないのでよくわからないエレノアは、先に身を起こしつつ彼が頭でもぶつけたのではないかと本気で心配になった。


「ああいや、単に僕に踏ん張りが足りなかったってのもあるかな。もっと鍛えないと」


 身を起こして席に腰かけ苦笑するジュリアンだが、女性一人をスツールなしに馬車上に引き上げただけでも男としては十分だろう。

 馬車は既に停まっていて、目を白黒させた御者が二人を振り返って気掛かりを滲ませていた。


(ところで、何でこの人は私を馬車に乗せたの?)


 自分の指で自分の手に文字を書くジェスチャーで会話の要請を試みる。

 素直に掌を差し出してくれるジュリアンは、エレノアが書く様子を黙って見守った。


 ――どうしてこんな事を?


「どうしてって、馬車に乗りたかったんじゃないの?」


(えっ!)


 まさかそう思っての行動だったなんて完全予想外だ。


 ――単に話をと思ったんです。


「え? あー……そっか、てっきり馬車に乗せてって催促かと思った」


(あの状況ってそう見えたっけ? ううんでもそう見えなくもなかった……?)


 自分でもついつい考え込んでしまうエレノアは、悩んでもしょうがないと意識を切り替えた。


(車上だろうと道端だろうと意思疎通ができれば関係ないわよね。よーし早速喧嘩始めるわよ)


 ――本当にびっくりしました。


「ハハハごめんごめん」


 拳を握り怒っている気持ちを表現すると、ジュリアンはその片方の手を取ってポンポンと宥めるように叩いてきた。


「本当に反省してるよ。よく考えれば僕こそ危険行為だった。怖がらせてごめんね」


 真っ直ぐな眼差しの真摯な謝罪を受け入れて、エレノアは宥められて……。


(って穏やかになってどうするのよ私ったら。どうにか喧嘩っぽくしないと)


 ベールの奥できゅっと唇を引き締める。


 ――この際だからハッキリ言いますけど、クレイトン様は酷いです。お試しであれ交際中の相手に対して前の恋人かなんて訊いてきて無神経です。女々しいです。


 嫌われる覚悟でエレノアは綴った。これで気分を害するに違いない。


(そうだわ、ついでにこの事も言っちゃえ)


 ――さっきの弁護士さんの話だって、勝手に彼女の知人に援助だからと言ってお金を渡すなんて非常識ですよ。よかれと思ってやったんだとしても、私が彼女だったら善意だとわかっていればこそ心苦しいし憤りもします。同情なんてされたくないです。


 ジュリアンとは一度本来の立場でジャスティンの云々を話したかったのもあって、つい熱くなってしまったエレノアだ。

 手を離して返答を待つ。

 やがてゆっくり彼は顔を覆った。頭を抱えるのに近い。


「あー、そうか、えー、そうなのか。僕はエレノアの神経を逆撫でしてたのか。同情なんかじゃないんだけど、そんなのは伝わってないなら僕がどう思ってても無意味だよね。それにエリーに対しても、確かに言われてみればかなり無神経だった。僕はどうしようもないね……」


 呻くように咽の奥で声をわだかまらせて、ジュリアンは酷く苦しそうな様子で気落ちしてしまった。


(こ、これは想定外の傷心。何も知らないくせにとか、生意気なとか、怒ってくれればいいのに、え、これどうしよう?)


「そりゃあ素っ気なくお金返してだってくるよね。僕は単にエレノアの身の上の諸々は僕の事も同然だって思ってたんだけど、まだ結婚もしてないのにやり過ぎか……。エリーも、本当にごめん」


 ジュリアンの素直なと言うか純情過ぎる性格を前にエレノアは衝撃を受けつつ、真意がわかって逆に罪悪感が湧いて来る。


(ジュリアンをむやみに悪者にして、私って何て酷いやつ……)


 彼の様子を窺えば、後光が見えるようだった。


(ああでもおろおろして絆されたら向こうのペースよエレノア。とにかく、ジュリアンは何だかんだでエリーをきちんと好きじゃないのよ。……まあどこからどう好きなのがきちんと好きかはよくわからないけど、そこを突いて喧嘩に持ってくのよ私……!)


 エレノアは再び手を取って伝える。


 ――私はちゃんと自分だけを好きでいてほしいんです。ですから身分の事がなくても、不特定多数をお好きなクレイトン様とは最初から無理なんだと思います。


 これでどうだ。トドメは決まったに等しい。


(ああでも無理とか酷い事言ってごめんなさい。本来恋愛は自由よ、私以外の誰かと頑張って!)


 ズキズキ心が痛かったけれど、エレノアは我慢した。


「そう……」


 ジュリアンは意気消沈ぶりは変わらずに、感情の薄い表情で呟いた。

 沈黙が続く。

 御者は静かな修羅場にも似た空気に声を掛けられないでいるようだった。


(何だか、喧嘩と言うより別れ話をしている気がしないでもないけど、それならそれで、ねえ?)


 何も言わないままのジュリアンは一人になりたいのかもしれない。優しいから降りろとは言えないでいるのかもしれない。だったらそろそろこっちから切り出した方がいいだろうかとエレノアが思った時だ。


「エレノアの、彼女の事情を知って上手く力になれないかなって頭を悩ませてたら、手遅れになった」


 ふと始まって、尚且つ初めて聞く鬱屈したような声には、自らへの苛立ちとか情けなさとか嘲りとかが綯い交ぜだった。


「夜も眠れない程恋しくなって後悔したのはエレノアの事以外にないよ。年下の女の子が全てを失ってどんな思いでいたのか……。今でもどうしてもっと毎日でも傍について思いやってやれなかったのかって、自分を殺したくなる。彼女が今もどこかで辛い思いをしているのかもしれないと思うと、とても苦しいよ」


 思いもよらない独白に、エレノアの両肩に僅かに力が籠った。

 それは胸の痛みを堪えるために無意識に入った力みだ。


(アカデミーの講義や課題だってあったのに、ジュリアンは十分に尽くしてくれたわ。ホント優しくてお人好しなんだから)


 肩を落とし口の端に諦観したような薄い笑みを浮かべる元婚約者の掌に、エレノアは幾分力を込めて指先を押し当てた。


 ――その人は、悲しかった気持ちを少しずつ乗り越えて前向きになっているかもしれません。少なくとも、あなたがそこまで思い詰める必要がないくらいには、きっとその人だって強いはずです。


「…………なるほど」


 彼は自嘲から苦笑へと笑みの種類をシフトさせた。


「エレノアは、うん、そうかもしれない、僕が思うよりずっと強いのかもしれない。今まで護る事ばかり考えてて、彼女の芯の強さとか、そういう面にまで考えが及ばなかった。ああ、そうか、そうだよなあ……あの子の事は一番近くで見て来たじゃないか……」


 ぐしゃぐしゃと前髪を掻き回して「ははは」と声を零すように笑うジュリアン。

 少しくらいは気が軽くなっただろうか。


「ありがとうエリー、励ましてくれて」


 顔を上げたジュリアンは、にこりとささやかな笑みを浮かべた。


「やっぱり僕の目に狂いはなかった。君と可笑しな形で始まった交際だけど、少しもやめたいなんて思えなかったんだ」


 両手を包み込まれるようにされて嬉しそうに見つめられる。


(あ……、えー…………)


 辛そうな顔をもうしていないのは良かった。

 けれど最後の最後で全てが裏返ったのだと悟ったエレノアは、溜息をつきたい衝動を何とか堪えるのだった。


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