第71話:Block One's Way
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駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場
通称: 駒沢陸上競技場
第1~6支部の予選を勝ち抜いた者たちが集うこの競技場には、支部予選とは違う妙な緊張感が漂っていた。
「…さぁて、今日は10秒前半タイムで、上位入賞…いや、優勝してやるぜっ!!
跳哉はどうだ?」
「…"誰よりも高い空を跳ぶ"って感じかな。いつもだけど。」
競技場に集合するや否や、蘭奈と若越はそう会話を交わしていた。
いつもと変わらない様子の2人だが、2人の目の奥には確かな闘志の炎が宿っていた。
その2人の姿を見ていた紀良と高津は、2人の支部予選とは違う空気感を感じ取っていた。
「…いやぁ、2人とも仕上がってんねぇ。」
「まあでも、あいつらにとっては"大会"であり"通過点"って感じでしょ。ここで終わるつもりないよ、若と蘭は。」
そう言う2人が見つめる先にいる蘭奈と若越は、2人とも自信と闘志に満ち溢れている顔をしていた。
"ここで終わるつもりはない"。
しかし、それが簡単に成し遂げられる程甘くない世界と感じるのは、そう遠い未来では無いのかもしれない…。
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一方、会場入りした継聖学院高校陸上部の面々は…。
「…都大会ってだけで、支部予選と全然空気違いますね…大丈夫かな…?」
周りの他校の選手や、自校のチームメイトの顔色、立ち姿、雰囲気から、柏宮は唯ならぬプレッシャーを感じていた。
「そりゃそうだろ。東京都の上位ランカーがここで決定する。
それだけみんな、気合い入れて挑んでんだよ。」
怯えながら肩をすくめる柏宮に、腕を回しながら皇次がそう言った。
「…まあ、そう気負いするな。
…それに、皇次もそう言ってやるな。寛汰はこれが初めてのインターハイ都大会だ。
寛汰、焦る事はない。今回は結果を気にするより、場の空気に慣れる事が大事だ。
次の新人戦に向けて、自分のルーティーンを確立できたらいいな。」
皇次の言葉に萎縮する柏宮に、宙一は優しくそう諭した。
しかし、その宙一の様子が気に食わなかったのか、皇次は兄の顔を鋭く睨みつける。
(…兄貴の奴…そんな甘い事言ってる余裕あんのか?
新人戦の時みたいに、また足元掬われても知らねぇからな。
…もう、今回は"次"はねぇんだぞ…。)
気丈に振る舞う兄、宙一の様子に、皇次はやり場のない怒りのようなものを感じながら、黙って視線を逸らした。
皇次の視界に入ってきたのは、"羽瀬高"一行…。
(…若越…今回はもう調子に乗らせねぇ…。
…江國にばかり頼ってられるか。…俺が…俺が必ず…。)
握りしめる拳は、その力の強さに僅かな震えを帯びていた。
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競技が始まると、各支部の精鋭たちがより高いレベルでの戦いを繰り広げていた。
それは他でもない。男子棒高跳びも同じである。
男子棒高跳びも競技が進み、バーの高さは4m80cmに差し掛かっていた。
この高さの時点で、羽瀬高から伍代、若越、継聖学院から宙一、皇次、江國、緑川学園から田伏が残っている。
緑川学園の森は、4m75cmの時点で失敗に終わり、既に4m70cmを記録していた。
4m70cmの記録は、森の自己ベスト記録であった。
その記録に満足はしつつも、更に上の高さで戦う同級生や先輩の姿に、森は羨ましさを感じていた。
(…まだまだ遠い…ってことか。若越や江國には…。)
森は、自らの自己ベストへの喜びよりも、ライバルたちの実力の高さに悔しさを滲ませていた。
そんな森と同じユニフォームを着て、助走路に立っていたのは田伏であった。
何度もグリップの感触を目でも確認しながら、目の前の4m80cmのバーを見上げている。
(…自己ベストよりは高いけど…練習で何度も越えてきた…。やってやるっ!)
漸く決意が固まったのか、田伏はポールの先を高く持ち上げ、目の前の助走路に意識を集中した。
そんな田伏の脳裏には、ある男の姿が浮かんでいた…。
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それは、数ヶ月前。
桜並木から散る桃色の花びらが、ひらひらと舞い散る景色に包まれながら、偉大な先輩が1人、卒業していった。
「…田伏。」
その姿を、目に涙を浮かべながら黙って見ていた田伏を、卒業生は呼びつけた。
「…はいっ!六織先輩っ!」
そう声を上げる田伏の目から、既に涙が溢れていた。
六織は、涙でぐしゃぐしゃになっている田伏の様子を見ると、軽く口角を上げて鼻で笑った。
「…みっともねぇ顔だなぁ。そんなんじゃ、羽瀬にも継学にも勝てねぇぞ?」
六織はそう言うと、泣き崩れる田伏の額を軽く小突いた。
「…俺は勝てなかった。
都大会、コンディションが悪かったとはいえ、そこで勝てなかったのは、間違いなく俺の弱さだ。
それに、その後も俺はずっと、あいつらの下にいた。
…俺はこれからも競技を続ける。
しかし、所属が"東京大学"の名前に変わる。
"緑川学園"の六織としては、俺はあいつらに勝てなかった。
…お前に背負わせるつもりはないが…"緑川学園"として、"羽瀬と継聖学院"に勝つ姿、いつか見せてくれよな。」
六織は田伏にそう言うと、そこで初めて田伏に向けて、笑顔を見せた。
言いたい事を言って満足した六織は、そう言い残すと振り返って去ってしまった。
その六織の後ろ姿が、田伏の脳裏から消えた事は、今の今まで一度も無かった…。
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風向きが変わった。
田伏の背中に、強い風が吹き当たる。
「…行きまぁぁぁぁぁっす!」
そう叫ぶ田伏の顔は、覚悟が決まった表情であった。
(…今の俺は…"六織 京次の目標"を背負ってんだっ!
…負けて…たまるかぁぁぁぁぁぁっ!!!)
田伏の助走が速くなる。
勢いよくボックスにポールの先端を突き刺すと、地面を力強くけり蹴り込み、その身を宙へと解き放った。
ポールの曲がりに合わせて振り上げた足先を、バーの上目掛けて位置付けると、元の形に戻るポールの反発力を利用して、その身を高く放り出した。
目下に見えるバーに触れまいと、刹那に身を固めた田伏は、一瞬のうちにその上を身軽に越えて行った。
瞬く間に、田伏は背中に強い衝撃を受けた。
その上半身を起き上がらせると、審判員が振り上げた白旗が、その目に飛び込んできた。
「…よっしゃぁっ!!!」
シーズンベスト及び自己ベスト記録となる4m80cmを成功させた田伏は、マットの上で喜びの雄叫びを上げた。
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続く宙一、皇次、若越、江國、伍代も4m80cmを成功させ、続く4m85cmは田伏、宙一、皇次、江國が挑んだ。
若越と伍代の2人はこの高さをパスした為、2人は揃って観客席に近寄り、有嶋と桃木からアドバイスを受けていた。
2人はそれぞれ、お互いと距離を置きながら、それぞれ有嶋と桃木の視点からアドバイスを受けていた。
同じ学校で同じコーチ、マネージャーからアドバイスを受けるのに、一緒に受ければいいものの、2人は互いをライバル視する余り、互いの策を聞かれまいとしていた。
その様子を、少し離れた観客席から見ていた睦小路は、徐に弓ヶ屋に話しかけた。
「…なんか、先輩たちって普段は優しいのに、試合になると急に怖くなるっていうか…なんかギクシャクした感じになるよね…そう思わない?千聖。」
そう問われた弓ヶ屋は、すっかり目にハートマークを浮かべながら、視線を若越に釘付けにしていた。
不意に名前を呼ばれ、ハッと我に帰った弓ヶ屋は、睦小路の言葉の意味を全く理解できずにいた。
「…ん?そ…そう?」
最早弓ヶ屋に頼れたものではないと、睦小路は呆れた表情をしていた。
そこへ、2人の隣で見ていた綺瀬と綿井も、会話に加わってきた。
「…負けられないんだよ。お互いに。」
綺瀬は冷静にそう呟いた。
その言葉に、綿井も大きく首を縦に振る。
「…まさに、"強者の風格"って感じだよね。素人目線の俺ですら、痛い程に伝わってくるよ。」
綿井にとって、まだ慣れない陸上競技の試合の景色、選手たちの風格は新鮮であり、純粋無垢な彼にとっては強い刺激となっていた。
それが、都大会ともなると前回の支部予選大会と比べても大きくレベルが上がっている事に、綿井は興奮を隠せずにいた。
「…いいな、陸上って。綺瀬とか睦小路にとっては当たり前なのかもしれないけど、俺、陸上部入って良かったかもしれねぇ。」
綿井の心の底から放たれる言葉に、綺瀬と睦小路は改めて目の前の景色を見渡した。
「…ふふっ。綿井くんも、先輩たちみたいな戦いができる選手になれるといいね。これからも頑張りましょ。」
綺瀬はそう言って、目を輝かせながらグラウンドを見つめる綿井に微笑んだ。
一連の会話を側で聞いていた巴月は、1年生たちの成長の芽生えを満足そうに見守った。
(…流石だよ、跳哉くん。伍代先輩も。
2人の姿を見た1年生たちは、もう既に走り始めたみたいだよ。)
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4m85cmの試技は、宙一、皇次、江國が1回目にて成功。
2回目の試技を終え、田伏は3本目の試技まで縺れ込んでいた。
(…後がねぇ…。ここで負けたら…こいつらに置いていかれる…。)
田伏は大きな焦りを感じていた。
自己ベスト記録を更新しても尚、ライバルたちと肩を並べるには、もう1つ上の壁を越えなければならなかった。
練習では何度か挑んだことのある4m90cmの高さ。
しかし、そのバーの上を華麗に跳び越えられた事は1度もない。
無慈悲にも、力の差が田伏の前に立ちはだかる。
ポールを手に、助走路に向かおうとしていた田伏であったが、ふとその歩みを止めた。
(…ここで終われば、全て終わり…。)
田伏は、自らの足元を見つめた。
(…こんな時…六織さんなら…。)
ーなぁ、田伏。陸上競技にとって、1番の敗北ってなんだと思う?
それは、田伏が入部当初に最初にかけられた、六織からの言葉であった。
ーライバルに負ける事、記録が伸びない事、成長を諦めてしまう事。
色々あると思うが、それら全てを一言で言うとするならば…。
(…"自分に負ける事こそ、陸上競技にとっての1番の敗北"…でしたよね、六織さん。)
助走路の手前で立ち止まっていた田伏は、ふと顔を上げた。
その目はここまでとは違う。何か1つの大きな決意に溢れた、鋭い目をしていた。
田伏はそのまま、ポールを再び控えテントの骨組みに立て掛けると、審判員の元へと走った。
何かを告げると、審判員は慌てて補助員のスタッフへと声を掛けた。
「…では、田伏くんの4m85cmの3本目がパスとなりましたので、4m90cmへと進みます。」
4m90cm。
田伏はこの大きな壁を前に、勝負に出た。




