第104話:Truth & Reality
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『誰よりも、高い空を跳ぶ。』
それがお前の目標なら
『誰よりも、速く翔け抜ける。』
それが俺の目標だ。
…でも、誰よりも速く走る事が何になる?
誰よりも速く走る事で、満足するのは自分だけ?
…さぁな。知ったこっちゃねぇ。
俺は勝つ。勝ち続けてみせる。
…それで誰かが喜ぶなら、誰かの雲を晴らせるなら。
俺は勝つ。勝ってみせる。
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「…巴月。」
珍しく、静かで落ち着いた蘭奈の声。
暑さは少し和らぎ、秋風が心地よく吹く駒沢陸上競技場。
その風に髪を靡かせ、巴月を見る蘭奈の目つきは鋭かった。
「…何?陸。」
いつもと違う蘭奈の姿に、巴月は少し怯えていた。
微かに震えた声で巴月がそう言うと、蘭奈は風で乱れる髪を掻き上げながら言った。
「…村上に勝って欲しい理由…"私も負けた事がある"って言ってた意味、教えてくれないか?」
巴月はその言葉に、目を大きく見開いてただただ呆然と立ち尽くした。
蘭奈の目は真剣そのものである。
不思議と、逃げられない呪縛のようなものを感じた巴月は、深いため息を吐いた。
「…覚えてたのね。あの時言ったこと。
…分かった。全部、話すね。」
そう言って、巴月は蘭奈に村上との間に起こった全てを話した。
終始、巴月の話を蘭奈は黙ってじっと聞いていた。
新人戦東京都予選大会。
この舞台で、蘭奈は必ず村上と再戦する。
その前に蘭奈は、インターハイでのリベンジを果たす為に、巴月が濁した話の真意を問おうとしたのだ。
巴月が事の全てを話し終えると、蘭奈は顔を上げて空を見た。
「…なるほどね。そういうことだったのか。」
蘭奈はそう言うと、顔を下げて巴月を見た。
全てを話し終えて尚、何処か釈然としない表情をしている。
「…ノアくん…だけじゃないの。」
巴月は思わず、そう口を滑らせた。
「…ん?村上だけじゃない?」
その一言に、蘭奈は思わず聞き返した。
巴月はしまったというような焦った表情をした。
蘭奈に言う必要のない事まで、思わず口を滑らせてしまったのだ。
巴月はまたも深いため息を吐くと、蘭奈に全てを打ち明ける覚悟を決めた。
もうすぐ蘭奈は、村上との再戦に向けた新人戦東京都予選大会男子100mの予選を控えていた。
これ以上、彼を引き留めてはいけないと思いながらも、巴月の中で消化しきれていなかった思いが、思わず溢れ出した。
「…跳哉くんの事、好きになってたの。私。
…それでも、彼にちゃんと想いを伝える事が出来なかった…。
どんどん強くなる彼に惹かれて、そんな彼への想いは、ノアくんの事を忘れさせてくれるって…勝手に期待してたの。
…でも、そんな邪な気持ちじゃダメだった。
ダメだって気づかされたの…。
…私結局、いつまで経っても弱いままだって…。」
巴月は、誰にも打ち明ける事が出来なかった秘めた思いの全てを、蘭奈に話した。
巴月がそこまで言いかけた時、俯く彼女の両肩を蘭奈がガシッと力強く掴んだ。
驚いて顔を上げた巴月は、目を丸くしながら蘭奈を見た。
そこにいたのは、速さに拘り、順位に拘り、勝ち負けに拘るいつもの蘭奈ではなかった。
苦手な勉強を投げ出したり、熱く大声で周りを鼓舞する蘭奈ではなかった。
蘭奈は、ただただ真剣な眼差しのまま、じっと巴月の目を見ていた。
「…うるせぇ、そこまでだ。
俺はごちゃごちゃした事はよく分かんねぇし、巴月の為になるような事を言える自信はねぇ。
…だから、黙って俺の走りを見ててくれ。
俺は、俺が勝ちたいから走る。誰よりも速く、ゴールラインを駆け抜けたいから走る。
…でも今、それが巴月の為になるとすれば…。
俺は、"必ず勝たなければならない"。」
蘭奈は強い口調ながらも、落ち着いた声でそう言った。
普段とはまるで違う蘭奈の様子に、巴月は黙って圧倒されるがままであった。
蘭奈はそう言い終えると、いつもの子どものような無邪気な笑顔を見せた。
「…俺に任せろって。
崩れ落ちそうだった俺の気持ちを、巴月が引き留めてくれたんだ。
…今度は俺の番だ。
巴月の気持ちが崩れ落ちそうってんなら、俺が引き留めてやる。」
蘭奈はそう言うと、ウォーミングアップに向かった。
巴月はその後ろ姿を、呆然と立ち尽くして見つめるしか出来なかった…。
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新人戦東京都予選大会。
ひと足先に始まっていた、男子棒高跳び決勝。
バーの高さは5mに上がった。
継聖学院より、皇次、江國、柏宮。
緑川学園より、森。
そして、羽瀬高より若越が同競技に参加している。
5mに挑むのは、またしても若越、江國、皇次の3人であった。
(…今日こそ、江國に勝ってみせる…。)
若越の胸の内にあるのは、その思いだけであった。
バックストレート側の観客席には、有嶋、綺瀬、綿井の姿があった。
他のメンバーは、睦小路の女子走り幅跳びとトラックでの100mの応援の為に、ホームストレート側の観客席にいた。
「…行かねぇの?幅見に。」
ふと、綿井は隣に座る綺瀬にそう言った。
綺瀬は黙って首を振ると、助走路脇に立つ若越の姿を見ながら答えた。
「…大丈夫。あっちにはちーちゃんがいるから。
…それに、私は若越さんの跳躍を見ておきたいの。
明日の私への、イメトレ。」
綺瀬はそう言うと、綿井にウインクをした。
綿井は少し引き気味に苦笑いをすると、黙って若越の姿に視線を送った。
(…それに、今日は私が代わってあげなきゃ。
…いつもの、"ちーちゃんの役目"を。)
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駒沢陸上競技場に集合した頃、綺瀬は黙ってポツンと佇む弓ヶ屋の姿が気になった。
睦小路と若越は、既にウォーミングアップに行っていてその場にはいない。
しかし、綺瀬の違和感はそれだけではなかった。
「…ちーちゃん、どうしたの?」
黙って俯いたままの弓ヶ屋に、綺瀬はそっと声をかけた。
その声に思わず顔を上げた弓ヶ屋は、目を少し赤く腫れ上がらせた顔で綺瀬を見た。
今にも、再び泣き出しそうな表情であった…。
「…秀ちゃん…実はね…。」
弓ヶ屋が事の次第を語るのを、綺瀬は黙って聞いていた。
「…なるほど。そうだったのね…。」
「…今日、どんな顔して跳哉さんに会えばいいか分かんないし…何なら会わない方がいいんじゃないかなって…。」
弓ヶ屋の声がどんどん小さくなっていった。
そこまで言いかけると、綺瀬はポンっと軽く弓ヶ屋の肩を叩いた。
「…分かったわ。今日は幅もあるし、棒高跳びには私が行くから。
ちーちゃんは、幅の方見ててあげて。」
そう言うと、綺瀬は優しく弓ヶ屋に微笑んだ。
彼女の優しさに触れてか、少しだけ弓ヶ屋の表情が明るくなったように見えた。
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(…茉子っちゃんが知ったらなんて言うか…。
…まあでも、あの子が知らないまま本番に向かってくれてよかった…。
少なくとも、試合に影響はないだろうから…ね。)
綺瀬は1人、胸の内でそう呟いていた。
そして再び若越の姿を見るなり、深いため息を吐いた。
(…全く、罪な男ですね。先輩。)
綺瀬の視線の先の若越は、左腕にテーピングを巻きつけながら、1人前の皇次の跳躍が終わるのを待っていた。
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ウォームアップエリア。
蘭奈は一頻りの準備を終えて、荷物をまとめていた。
「…よぉ。足、治ったのか?」
聞き覚えのある声は、確実に蘭奈に向けて発せられたものだという事を分かっているものの、蘭奈は無視して荷物をまとめた。
「…ちっ…てめぇ、聞いてんのかよっ!」
声の主…都大附属の村上は、苛立ちを隠せずに蘭奈に右手を伸ばした。
しかし、蘭奈はノールックでその右手を払い退けると、鋭い視線で村上を睨みつけた。
「…あ?ごちゃごちゃうるせぇんだよ。
人の心配してる暇あったら、自分の心配でもしてろよ。」
蘭奈は、落ち着いた低い声でそう言った。
虎の唸り声のような蘭奈に、村上は少し驚いたが、それでも尚挑発は止まらなかった。
「…"10秒38"。俺の支部予選通過タイムだ。
10秒43のお前に、心配しろなんて言われる筋合いねぇんだよ。
自分の立場考えて物言ったらどうだ?あぁ?」
村上はそう言って、蘭奈に詰め寄った。
蘭奈より背の高い村上は、蘭奈を見下ろすように睨みつけたが、蘭奈も負けじと村上に詰め寄った。
「…はぁ?だから何?
そんなに自信あるなら、本番で証明してみせれば?
…まあ、俺はお前には負けねぇから。」
蘭奈はそう言って最後に村上を強く睨みつけると、荷物を持ってその場を去ってしまった。
そこへ、同じくウォーミングアップをしていた、都大附属の不動が現れた。
「…あんな奴にちょっかい出すの辞めとけって、誠耶。
どうせお前には勝てねぇ。相手にする程じゃねぇよ。」
不動がそう言って村上を宥めるも、彼はただ真っ直ぐに蘭奈の背中を睨んでいた。
「…骨の髄まで…ボコボコに潰してやる…。
…蘭奈…陸…っ!」
「…何?すっげぇおっかねぇ顔してるけど…何かあった?」
控えベンチに戻るやいなや、先にウォーミングアップを終えていた紀良は、蘭奈の鬼のような形相に驚きながらそう言った。
「…別に。何もねぇって。」
蘭奈はそう呟くと、そのままの目つきで紀良を睨んだ。
「…まあ、深追いするつもりは無いけど…。
変に気負いすぎて、また怪我しないように気をつけろよ…?」
いつもと違う蘭奈の様子に、紀良は恐る恐るそう言った。
その言葉が蘭奈の琴線に触れたのか、彼は両手に持っていた荷物をその場に手放し、一直線に紀良に詰め寄った。
「…うるせぇ。俺は負けねぇんだよ。もう、2度と…。」
紀良の胸元を勢いよく掴んだ蘭奈は、自らの目の前まで紀良を引き寄せるとそう呟いた。
蘭奈から溢れるオーラの強さに、紀良は歯向かう様子もなくただ圧倒されるがままであった。
蘭奈は荒々しくその手を振り払うと、荷物を拾い上げて乱暴に自分のリュックの元へと投げ捨て、そのままその場を離れてしまった。
「…大丈夫?光季…。何?あいつどうしたの?」
心配そうに紀良の元に高津が駆け寄るも、紀良は呆然と蘭奈の後ろ姿を見ているだけだった。
高津の声で我に返ると、紀良はそのまま俯いて「…ふっ。」と鼻で笑ってみせた。
「…すげぇや…。多分今日勝つよ、あいつ。」
紀良はそう呟くと、左手で顔を覆いながら天を仰いで大笑いした。
高津はそんな紀良の様子を、不思議そうに見ているしかできなかった。
「…えっ、何?何がおかしいの?」
戸惑いながら高津がそう言うと、紀良は漸く笑いを止め、大きく息を吸った。
そして、改まって口を開いた。
「…俺たちがまだ知らない、"蘭奈 陸の本性"のお出ましってところだ。」
(…どうした、蘭…。何がお前をそうさせる…。
何がお前をそこまで奮い立たせる…。
…でも、紛れもない…今のお前が"本当"のお前だって言うなら…見せてくれよ?"本物の実力"ってやつを…。)
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男子棒高跳びは、バーの高さが5m10cmに上がった。
残るは、江國と若越。
5m05cmをクリアし、漸く公認記録を塗り替える事に成功した若越の顔には、まだ笑顔はなかった。
ここまで、殆ど正面しか見ていなかった若越がふと観客席に視線を送ると、有嶋、綺瀬、綿井の3人の姿が目に映った。
(…やっぱり来なかったか…弓ヶ屋。)
若越は、小さくため息を吐いた。
しかし、それは意図していない行為だったのか、若越は助走路の上で自らの行為に驚いた。
(…あれ?…俺何で今、少し残念に思ったんだ…?)
再び視線を正面に戻すと、審判員が白旗を振っていた。
若越は集中を取り戻す為に、両手にタンマグを馴染ませる事にした。
(…弓ヶ屋には申し訳ない事をしたと思ってる…。
…でも、俺はあの子に嘘をついたつもりはない。
江國に勝ちたいから…伍代先輩の記録に勝ちたいから…父さんの記録に勝ちたいから…。
…『誰よりも、高い空を跳ぶ。』って気持ちは、何よりも強いから…今、目の前の試合に集中したいってのは嘘じゃない。…その筈なのに…。)
若越は胸の内でそう呟くと、勢いよく顔を左右に振った。
(…そうだ。目の前の試合に集中しなきゃ。
…江國に、もう負けてはいられない…。)
何度もそう言い聞かせる度に、若越は胸の奥底に小さな針が何度も突き刺さるような感覚がしていた。
その正体を探る余裕も、ゆっくり考える暇もない若越は、ただ目の前の戦いに突き進むしかなかった。
(…今は余計な事は気にするな…。目の前のバーを越えれば…また1歩近づけるんだから…。)




