85 - 希望が一つ
菜優は暗闇に閉ざした視界の中で、ずうっと、耳を澄ませていました。聞こえてくるのは、指輪越しに聞こえる姉妹喧嘩と、シノの嘆息、デールの乾いたような笑いと、しきりに吹いては戻される吹き戻しの、ぷぅという、気の抜けるような音も聞こえてきます。
スクルドとヴェルザンディの非難の応酬――たとえばそれは、十年近く前に作ったプリンを全部食べられただとか、勝たせなきゃいけない戦いをうっかりで負けさせただとか、未来の力は不確定要素が多すぎて使い物にならないだとか、現在の力は使い道が限定的すぎて使い物にならないだとか、毒っ気たっぷりのその言い草が気に食わないとか、大雑把で後先考えないその態度が気に食わないとか、腹黒女とかガングロ女とか――に至っては、もうしばらくずっと聞いているので、怒りを通り越して、呆れすら覚えているくらいでした。
まだ喧嘩しとんのかい。
菜優は口の中でそう独り言ちました。馬鹿馬鹿しい、あまりに馬鹿馬鹿しい。私はこんなにも頭に来て、口を開けば八つ当たりしかねないような不機嫌なのに、みんなそこに構うことなんかなくて、私を置いて馬鹿やってる。
気にしてくれてるのは、先程からずっと、頭を優しくなでてくれているデールだけだ。その他には、みんな馬鹿だ。あまりにも、あまりにも馬鹿馬鹿しい。菜優は口許にまでやってきたその言葉たちを、飲み込もうとしてから、飲み込めなくて、やがて唇と舌だけを器用に動かして、なるべく細く、細くなるように吐き出しました。
馬鹿馬鹿しいと菜優は詰りますが、同時に、菜優はそんな馬鹿馬鹿しい騒ぎのど真ん中で、デールに肩を叩いてもらいながら、ただ膝を抱いて不貞腐れているだけということにも、気付いていました。
私だって馬鹿だ。こんなに激昂してしまって、ヴェルっちを呼び出した目的なんて、さっぱりぽんと忘れてるんだから。怒るために呼んだんじゃない……いや、怒ってるけど。そうじゃなくって、私は、日本に帰りたいんだ。
菜優は僅かに視線をあげます。けれど、スクルドの姿も、ヴェルザンディの姿も、そこにはありません。指輪から伝わる声だけで、やいやい喧嘩をしているのです。全く迷惑な話だこと。
そんなバカバカしい声を聞いているうちに、ごうっと血の気がまた頭に登ってくるのを感じました。菜優は大きく息を吸って、吐いて、何とかその熱を外へ吐き出そうとしました。そうしてからまたもう一度息を吸い込んでから顎を腕に乗せて、口を尖らせながら言葉を紡ぎだしました。
「なあ、ヴェルっち、スクルドちゃん」
声を掛けましたが、返事はありません。互いに悪口雑言を浴びせ合うのに夢中です。一方でデールとシノが、その視線を菜優の方へと向けました。シノが首を傾げると、デールは頷いて。そして二人も、指輪の方へと呼びかけます。
それでも二人の口喧嘩はヒートアップしていくばかりで、止まる気配もありません。ヴェルザンディ達の姿がここにあったなら、きっとシノ達の手を借りながら、力づくにでも止めていることでしょうが、そんなことは叶いません。なにしろ、ここにはヴェルザンディも、スクルドも居ないのですから。
菜優は大きく息を吸い込みました。間もなく肩をトントンと叩かれたので、振り返ってみると、そちらには柔らかに微笑むデールの姿がありました。デールは人差し指を口に当てて、親指でデール自身を何度か指しました。任せて、と言いたいのでしょうか。菜優がゆっくり頷くと、今度はデールが息を吸い込みました。
「いつまで喧嘩しとるつもりじゃ!おやつ抜きにするかんね!」
デールの思わぬ怒号に、辺りは、水を打ったようにしんと静まり返りました。菜優は目を丸くしてデールを見つめていましたが、先程まで鬼のような形相を見せていたデールは、対照的に、してやったり、と言わんばかりに頬を引き上げていました。デールが菜優の背中をぽんっと叩くと、菜優は我に返ったように、がくがく何度か頷きました。
「ヴェルっち、スクルドちゃん、私さ、日本に帰りたいんやんな」
今度はヴェルザンディもスクルドも、黙って聞いてくれている手応えを感じました。菜優は続けて、尋ねてみました。
「やけどさ、私らにはさ、帰る方法ってどんなんなんか、そもそも本当に帰れる方法なんてあるんか、一切知らんのさな。なんか知っとらへん?」
『ニホンに、』
『帰る方法?』
指輪越しに聞こえた疑問符に、菜優は首を縦に振りました。そのあと、菜優はやや慌てたように、うん、と口をついて答えました。二人の姿が今見えないのと同じように、頷いた私の姿が、彼女達に見えていない可能性のほうが高い。そうでしょう?
二人はしばらく唸っていました。やがて指輪から聞こえてきたのは、ヴェルザンディの声でした。
『うーん……わかんにゃい。少なくとも、現在においては……流れ着き者たちがやってくることがあるってことと、ポータルってやつを通じて、イースティアでないどこかへ旅立った話があるくらいだにぇ。スクルドは、なんか分かった?』
ヴェルザンディの問いに、スクルドはけらけらと笑いながら答えました。
『見つけられるわけないじゃん。ちいねえ、未来がどんだけの数あるかなんてぇ、考えたことないでしょ。ちいねえの問いはねぇ、”何時何分何十秒、イースティアに何度朝日が登った頃に、ナユっちは元の世界に帰れるんですかぁ”っていうのと変わんないよぉ。一日先の未来を探すのでさえ、流砂の中から砂金を探すようなもんなんだよぉ。見つけられるわけないって』
ヴェルザンディがむっとして言い返そうとした気配を察して、菜優とデールは、異口同音にその名を呼んで牽制しました。ごにょごにょと口ごもるような声が聞こえて来ましたが、ここでまた口喧嘩が始まっては、面倒事が増えるだけです。少々我慢してもらうことにしましょう、お姉ちゃんなので。
スクルドはしばらくけらけらと笑っていましたが、その笑い声をにわかに止めて、少しだけ唸ってから尋ねました。
『んん?待てよ……ちいねえ、ポータルってやつがあれば、ナユちゃんは、イースティアではないどこかに行けるんだよねぇ?』
『嘘かホントか、作り話かただの伝説なのか、見分けつかないけどにぇ』
『そこんとこはおおねえなら詳しいんじゃない?』
スクルドの言葉に、ヴェルザンディも勢いよく賛同しました。
『ああ、その手があったにぇ。さすがスクルド、冴えてるぅ! 確かに姉貴なら、その伝承が正しいか分かるかもだにぇ』
「おおねえ……? 姉貴……?」
菜優は小首を傾げました。それもそのはず。この二人に姉妹が居るなんて、知らなかったのですし、それがどんな人なのか、未だに想像出来ないでしょうから。
『あっしたちは三姉妹でにぇ。スクルドが未来、あっしが現在の力を持ってるなら、姉貴は 「過去」を司ってんだ。けど……ううん』
『おおねえ、めんどくさい人なんだよねぇ。それに過去のことならなんでも見通せちゃうから、余計に質が悪い』
ため息をつく二人に、菜優は思いました。過去のことならなんでも見通せるのなら、今彼女たちが、そのおおねえとやらの愚痴をついたことも、お見通しなのではなかろうかと。後が怖くないのでしょうか。
おっと、そんなことはどうでもよいのでした。問題は、そのおおねえとやらに会うには、どうしたら良いのか、ということです。力になってくれるかは未知数ですが、せっかく手に入れた手がかりを、活かさないわけにはいきません。
「それで、そのおおねえって人は、何処にいるの?」
「おおねえは、シルヴァの森にある記憶の泉に篭もりっぱなしだとおもうよぉ。出不精だし」
「さっきからずっと一言多いね、スクルドちゃん!?」
菜優が思わずツッコミを入れたところに、ヴェルザンディが「コイツはこういうヤツなんだぁよ」とけらけら笑いました。
すると今度はスクルドが歯をぎりぎり軋ませるような音が聞こえてきたので、菜優とデールは、またも異口同音に、今度はスクルドの名を呼んで牽制しました。お互い差合わせた訳でも、打ち合わせた訳でもないのに、まるで双子かのように口を揃えて言ったのが、なんだかおかしくありました。




