82 - 言葉一つ
気がつくと菜優は、どこか部屋の中で寝転がされていました。ひんやりした感触が、左の頬に押し当てられています。仰向けになってみると、見覚えのある天井と、こちらに向かって垂れ下がる紅蓮のような髪が見えたので、ここがルナーの孤児院なのだと分かりました。
「おはよ!ねえどう?大丈夫?顔真っ青だったけど」
その長い髪の持ち主であるエステルは、矢継ぎ早に質問を浴びせてきました。菜優はまだはっきりとはしない意識を無理矢理起こそうとしますが、そうすることにいっぱいいっぱいなのか、頭が上手く回ってくれません。エステルが何を言っているのか、言葉の意味は分かるはずなのに、何を聞かれているのかがよく分からないのです。なので菜優は、「んん、ん?ええっと……?」なんて、生返事をするのが精一杯です。
そんな様子の菜優の両肩を、エステルはがっちり掴んで、「ナユちゃん起きて!しっかりしてぇ!」なんて叫びながらにわかにがくがく揺らしはじめたものですから、菜優はまた気持ち悪くなってしまい、床に臥せり落ちていきました。
「やめてやってくれ、エステル姉。ナユは死ぬほど疲れているんだ」
奥から声が、かつかつという足音を伴って聞こえてきて、やがてその声の主、シノが現れました。シノは桶に水とタオルを入れて持ってきてくれていました。
「ステータスパネルを見せてもらったが、ひどいエーテル酔いに襲われてたみたいだな。何があったのだ?」
濡れタオルを菜優の額に載せながら、シノはそんな事を尋ねてきました。エーテル酔い。何があったか。エーテル酔いはええと、この剣を抜いたからで、あれ、なんで抜いたんだっけ……?
菜優の思考がまとまらない中、エステルが代わりに伝えてくれていました。イルミナ鮫とイルミナキャットに襲われたこと、イルミナ鮫のほうはエステルが殴り飛ばしましたが、イルミナキャットのほうはワンちゃんが撃退したのだとか。その時に、とんでもないエーテルの魔力を感じたことも、エステルは伝えました。
「エーテルの魔力?エステル姉、エーテルの魔法が使えたのか?」
「まさか。エーテルの魔力なんて使えたことないし、その時のあたしはもうへとへとで、マッチの魔法すら使えないくらいだったんだから。でもあたしでも分かるくらい、ぐわぁって感じのエーテルの魔力が溢れ出てきてて、もうすんごかったんだから」
「だよな。エステル姉、火の魔法以外からっきしだもんな。冷たい手の魔法くらい使えても良さそうなもんだが」
「でもちゃんと、郵便オウムの魔法は使えたもん!」
「こっちに届いた時には既に、こんな言葉の似合う有様だったがな。元、オウムだったと」
「そんなぁ!」
菜優は二人のやり取りを聞いて、ちょっとだけ頭が働くようになってきました。私がエーテル酔いを起こしたんだとしたら、それはほとんどの場合、エーテルソードを抜いたからです。実はエーテルソードの事は一回思い至っていたのですが、今の菜優の思考はぐちゃぐちゃのごちゃごちゃで、数秒前の事もまともに覚えられてはいません。さっきまで考えてたことが正しいかも分からん、とすら思っています。
そんなでもとりあえず落ち着いてきたので、「これよ、これ。こいつのせいで私は、こんななったん」と言いながら、傍に置かれていたエーテルソードを指差しました。二人はそっちに注目したのち、興味本位で少しだけ抜いてみると、まるで大嵐吹き荒ぶ中の大波のように、うねるエーテル魔力の波動がどどっと押し寄せてきました。シノが慌てて鞘にしまい込み、一つ息を吐きました。
「……こいつは驚いた。ナユお前、エーテルに酔いやすいっていうのに、こんな得物を提げていたのか」
「だってそれしかないし。すんごい呪いかかっとるらしくて、装備から外せやんし」
菜優が頬を膨らませながら言うと、シノは顎に手を添えて、なにか、考えるふうな素振りを見せました。
「これは……ナユには、身を守る魔法の一つ、教えておいたほうが良さそうだな」
そういうとシノは、どこからともなく一冊の本を取り出して、菜優に投げよこしました。菜優はそれを顔面で受け止めると、思わずおでこを抑えました。
「そこには初歩的な攻撃魔法の一つ、マジックミサイルの魔法が書かれている。それを読めば、十回程度はその魔法が使えるはずだ。水国語は読めるよな?」
菜優は渡された本を凝視しましたが、どういうことか、さっぱり読めません。文字はいつも依頼の看板で読んでいるものと全く変わらないので、文字そのものは読めますし、意味も分かるのですが、どういうことか、本の内容がさっぱり頭に入ってきません。文章と意味と、本が持っている目的とが全部てんでんばらばらにあって、それらが全然線で繋がらないのです。
「ごめん、なんのこっちゃさっぱり分からん。アクエティゼってなに?」
「……そこからか。水国語が通じるからと油断をしていた」
「アクエティゼが通じる?私に?嘘やん。私が話してるのは日本語で、この本に書いてあるのは日本語で……」
そう言いかけて、菜優ははっと気づきました。そしてもう一度、本に視線を向け直しました。文字と、それらからなる文章を読むことにはなんの問題もないのですが、よくよく見てみると、文字の形が日本語のそれとはかけ離れていました。全体的に四角い形をしていて、三つか、四つかの部首のようなものに別れた記号のようなものが、その本にはびっしりと書かれているのです。
それにシノのほうを見れば、「ニホンゴ……?なんだそれは……」とぶつぶつ呟いているようなのを見て、菜優はようやく、自分が日本語を話していない事に気づきました。今まで菜優が読んでいた文字は、全て菜優が日本語と思い込み、そしてまるで日本語であるかのように読めていた水国語であり、また、菜優が当然のように話していた言語も、同じく水国語だったのです。
その事をシノに伝えると、シノは目をまんまるに大きく見開きました。
「おまえ、水国語を話している自覚がなかったかのか……?」
「うん」
「オーマイガッシュ。つまりその、ナユは母国語で話していたつもりだったが、実態は違ったと。そういうことか?」
菜優は首を縦に振ると、シノはゆるゆると眉尻を下げ始めました。仏頂面と、ふざけている時に見せる不敵な笑みのよく似合う、それでいて、神を相手取っても不遜な態度を取りそうな。そんな幼い女の子には似合わない悲痛さを、その表情の中に垣間見ました。
「今も母国語で話せるのか?」
恐る恐る、シノが尋ねました。菜優はどうして、らしくもなく慎ましやかな尋ね方をしてくるのかを推し量りかねて、小首を傾げながら答えました。
「話せると思うけど、自信ない。かなり意識しやんと、多分水国語で話してそうな気がする」
シノは、そうか、と弱々しく呟いて、堪えきれないとばかりに目を伏せました。菜優と、二人を見比べるエステルの頭の中には、ハテナマークがどんどん生えていきます。
「……母国語が分からなくなるのは、つらいな」
シノはぼそりと、そう呟きました。その言葉の意味を、菜優もエステルも、飲み込めずにいました。
シノ「ちなんどくが、イルミナ鮫は水棲だ。地上で見かけることはないぞ」
エステル「マジで!?」




