足手まとい
メンテナンスの翌日、月本の目の前にあるのは、何も書かれていないテキストエディタの白い画面だった。カーソルだけが点滅している。
……書かなければ。
前夜、メンテナンス終了時間が未定であることだけは、桃山に言われた通りSNSに投稿した。だが、三ヶ月後の大型アップデートに向けて更新を抑え、その理由を説明する本格的な告知文は、何も書けないままだった。
一晩経って、誤配布の後始末とログの洗い出し、補填の段取りまで、新谷と冴川が朝から手際よく片付けていた。
自分が起こした事故の経緯と対応を、自分の言葉で説明する。それが筋だと思ってお詫びの文章作成に手を挙げたが、憔悴しきった月本を見かねた水木からの申し出で、引き取ってもらうことになった。
……お願いします。そう答えたあと、手元には何も残らなかった。
周りではキーボードを叩く音がしている。全員が今やるべきことに向き合い、動いているように感じる中、自分だけが取り残されているように思えた。
三ヶ月後の大型アップデートに向けたアイデアも何も浮かばない。キーボードに手を置いても、指が動かない。
せめて告知文の内容だけでも確認しようと、水木の席まで足を運んだ。メンテナンスの経緯についていくつか聞かれ、答える。自分が書くべき文書を、他の誰かがきちんと仕上げていく。
自席に戻る途中、冴川と楽しそうに話す福田の声が妙に耳についた。その輪に入る気にも、席に戻って作業をする気にもなれず、足が止まった。
「冴川くーん、飲み会で話してた例の女の子、週末に会うって言ってたじゃん? どうだったの?」
「飲み会の話を珍しく覚えてるんですね」
「ひどくない!? 前半なら私でも覚えてるよ! で、どうだったの。……っていうか、今日、顔色悪くない?」
冴川の返事が、一拍だけ遅れた。
「……大したことではありませんよ」
「その間がもう大したことあるやつじゃん。無理してない?」
「していません。ほら、福田さんこそ仕事に戻ってください」
「えー、写真くらい見せてくれてもいいじゃん」
「あなたに見せるような写真はありません」
最後の声は少し困ったような、それでいてどこか余裕のある、いつもの声に聞こえた。笑い声の中で、一瞬だけ冴川と目が合った。
一拍遅れた返事よりも、その話題にいつもの調子で応じていることの方が、今の月本には強く残った。
いつもなら会話に入って福田に反撃をしているところだが、今日はその気になれず、目を逸らした。
席に戻って、手持ち無沙汰にSNSを開いて、すぐに後悔した。
『もうサ終でいいよこんなクソゲー』
サ終、すなわちサービス終了。長井が残したものまで、そこで終わらせろと言われているようだった。それでも、画面をスクロールする指が止められなかった。見なければいいのに、目が離せない。
「亮太、今のSNSは見なくていい。真に受けたところで、良いことは何もないからな」
背後からの声に振り返ると、いつもと変わらない表情で桃山が立っていた。
「開発者も人間だってのに、顔が見えないと思って勝手なもんだ。ま、ちょっと時間が経てばすぐ忘れるだろ」
「あの、僕になにかできることありませんか」
「QAで最終確認が終わったらメンテ開けるだけだからな。まあ、年末のアップデートの話だと、ぜひお前に任せたいことがあるんだが、な」
そう言った桃山は一瞬言葉を止め、改めて月本の顔を見た。
「ただ、今のお前にゃ無理だ。疲れてる人間にまともな判断はできない。なんか飲み物でも買って、少し休め。休むのも仕事だ」
背を向けかけて、桃山が付け足した。
「全部一人でやろうとするなよ。こっちはもう収まる。三ヶ月ありゃ、なんとでもなる」
◆◆◆
一人になりたかった。だが、家に帰る気にも、仕事場から遠く離れる気にもなれなかった。休みたいわけではない。戻れる仕事も見つからない。
休憩スペースには人影がなく、空調の風だけがやけに冷たかった。フロアの音も、ここまでは遠い。
言われた通り、休憩スペースの自販機でお茶を買った。ソファに座り込み、ただ虚空を見つめていると、しばらくして冴川がやってくるのに気づいた。向かいに腰を下ろし、「月本さん」と静かに声をかける。
「大丈夫ですか」
大丈夫なわけがない。だがそれを言ったところでどうなるものでもない。月本は曖昧に頷いた。
「起きてしまったことは仕方ありません。今できることをやりましょう」
「……わかってる。でも、ここで踏ん張らなきゃ、プロジェクト自体がどうなるかわからないんだ」
「ええ。ですから、まずは私たちで目の前の問題をなんとかします。まだ三ヶ月あります。その後に、今後どうしていくかをじっくり話し合いましょう」
私たちで。その言葉が、妙に引っかかった。お知らせ文は水木が引き取り、冴川と新谷で技術的な部分は片付けた。今もチームは月本抜きで回っている。
「僕がやらなきゃだめなんだ」
冴川はすぐには返さなかった。簡単な言葉で片付けることをしない。いつも通りの彼だ。
「……気持ちは、わかります」
ようやく出てきたその言葉に、月本は思わず顔を上げた。
今できること。それを、迷いなく示してくれたはずの人間は、もうどこにもいない。
「健一郎は死んだんだ。もういないんだよ」
冴川は黙って聞いていた。
「わかるわけない、大切な人を失う辛さなんて」
短い沈黙のあと、冴川が静かに口を開く。
「……そうですね。全部わかるなんて、言えません」
冴川はそこで一度言葉を切った。その視線が、黙り込んだ月本を案じるように向けられている。そのこと自体に耐えられなくなった。
「……君は気楽でいいよ。こっちはそれどころじゃないのに、こんな時でも女の子のことを考える余裕があってさ」
冴川が話してくれた、あの女性のことだ。わかっていて、口にした。
冴川の表情が一瞬だけ固まり、何か言いかけて飲み込んだ。
「気楽じゃないですよ」
その声に、思わず冴川を見た。
「会えましたよ。でも、うまくいかなかった。だから今は、せめて仕事のことだけ考えていたかったのですが」
誰のせいにするでもなく、ただ淡々とした声だが、疲れは隠しきれていなかった。それでも、月本の胸の内では別の感情が膨らんでいった。
「僕がいなくたってチームが回ってるのに、どうしたらいいか分からないんだよ」
「そんなことはありません。元の企画書を書かれたご友人のことを、一番よく知っているのは月本さんです。貴方にしかできないことがあるはずです」
わかっている。それでも、胸の奥が詰まって息がうまくできなかった。
「でも、僕は文江先生みたいに絵がうまいわけじゃない。桃山さんみたいにチームをまとめられるわけでもない」
冴川は何も言わなかった。
「健一郎に少しでも追いつこうと思って、いろいろやってみたんだよ。でもダメだった。絵を描いたって、せいぜい同じ向きの似たような顔が描けるくらいだ。スクリプトだって、どんなに気をつけてもエラーだらけだよ」
「そのためにチームがあるんです。それぞれの長所を活かして、お互いを補えるように」
正しい。正しいのに、その言葉が何も埋めてくれない。
「プログラミングだってやろうとした。でもだめなんだ。黒い画面に文字だけ並んでるのを見るだけでめまいがしそうなんだ。頑張って読んでも、何がなんだかさっぱりだ」
「誰にでもできることではありません。それが専門の私や野間さん、新谷さんに任せてもらえれば、それでいい」
「僕がやらなきゃ、あいつが残したこの企画はどうなる? 炎上するだけして、サービス中止にでもなったら、僕はどう言い訳したらいい?」
長井の生きた証は、ただサービス終了したゲームとして、汚点としてしか人々の記憶に残らない。そして、二度とプレイすることすら叶わず、忘れられていく。
「まだ時間はあります。メンテナンスは私たちに任せて、改めて三ヶ月間どうするか、一緒に考えましょう」
気遣いだとわかっている。それでも月本には、自分の手からこの企画が少しずつ遠ざかっていくように聞こえた。
「あいつなら、こんなときどうしたらいいか教えてくれたはずなんだ! なのに、もうどこにもいないんだよ」
冴川の表情が、一段と曇る。
「生き残ってしまったからこそ、罪を抱えたまま生きていくしかないことも、あるんです」
生き残る、罪。雑に扱ってはいけない何か、深く抱えている何かを思わせる冴川の静かな声だった。なんのことだ——。だがその意味を掴む前に、月本の口が先に動いた。
「君はいいよ。いくらだって話してやり直せる、うまくいかなくたって、生きてるじゃないか」
冴川が息を吸うのが聞こえた。怒りを抑えるような、短い呼吸だった。
「こんなことになるなら、あいつが死んだときにあきらめていればよかった」
冴川は目を伏せた。膝の上の手が、かすかに握られている。
「月本さん。……それではあなたを信じてついてきてくれた福田さんや、桃山さん、チームの皆さんの気持ちはどうなりますか」
その問いには答えられないまま、言葉が溢れた。
「……僕なんかに期待したのが、そもそも間違いだったんですよ」
その言葉に、冴川の表情がはっきりと強張った。口にした瞬間、まずいと思ったが、それでも止まらなかった。
「君こそ、技術があれば活躍できるところはいくらでもある。海外にだって住んでたんでしょ。なんだってできるじゃないか! どうして……どうして、まだ僕なんかに構うんですか」
冴川は、はっきりと視線を外した。眼鏡のブリッジに触れ、何か言い返しかけて、いったん唇を閉じる。席を立とうとして、やめた。
呼吸を整えようとするように、冴川の肩が小さく上下した。
「……確かに、何でもできるかもしれません」
低い声だった。続く言葉は、わずかに重かった。
「ですが、人を見る目だけは、無かったようです」
言った直後、冴川自身も一瞬止まったように見えた。自分に向けられた失望だけが、鈍く刺さった。
「もう、私たちでやります。せめて、邪魔だけはしないでください。……足手まといです」
最後の言葉だけ、聞いたことのない冷えた声だった。口にした本人ですら、驚いているように見えた。
眼鏡をかけ直す手だけが、まだ微かに震えている。冴川は何も言わずに立ち上がり、休憩スペースを出ていった。
遠ざかっていく足音を聞きながら、月本は買ったお茶のペットボトルを見下ろした。表面についた水滴だけが、指先に冷たく触れている。
何かが、もう戻れないところまでずれた気がした。けれど、謝るべきなのか、追いかけるべきなのか、仕事に戻るべきなのかもわからない。ただ、ソファに座ったまま動けなかった。
そのまま、どのくらいそうしていたのかわからなかった。
◆◆◆
その日の帰り際、ポケットの中でスマホが震えた。画面に表示された名前は、長井加奈だった。
『亮ちゃん、今から来られる?』
短い文面だった。何を返せばいいのかわからないまま、指だけが動いた。
『行けるよ。どうした?』
ほどなく、加奈から次の文面が届いた。
『公式のやつ見た。兄ちゃんに頼まれてたもの、渡す。たぶん今だと思う』
ちょうどオフィスを出るところだった月本は、そのまま駅に向かった。久しぶり、元気、そんなやり取りを挟む余裕はなかった。
長井家に着いても、加奈は余計な近況を聞かなかった。リビングのテーブルには、小さなUSBメモリが一つ置かれていた。
「これ。中身、私は聞いてない」
加奈はUSBメモリを手に取って、裏側を見せた。色褪せた付箋に、見覚えのある汚い字で書かれている。
『亮太が参ってたら渡してくれ』
「……健の字だ」
乱雑で、癖が強い字。企画ノートに殴り書きしていたのと同じ字だった。それだけで、こみ上げてくるものがあった。
月本はUSBメモリを受け取った。こんなに軽いのに、手のひらの上でやけに存在感があった。
「兄ちゃん、これ渡すときはたぶんわかるからって。いつか必要になるだろうから、その時まで黙っててくれって」
「……今がそうだって思ったの?」
「うん。公式の投稿も見たよ。プロジェクト、うまくいってないのかなって」
月本は何も言えなかった。
「渡したら、一人で聞かせてやってくれって言ってた。中身は知らないけど」
月本は頷き、USBメモリをポケットにしまった。
長居はしなかった。今この場で何か話し込めば、余計なことまで口にしてしまいそうだった。
アパートに着いて、靴を脱いで、部屋の電気をつけた。ドアを閉めた途端、静かすぎて耳が鳴った。
椅子に座り、USBメモリを差し込む。フォルダの中にはファイルが一つだけ入っていた。
『亮太へ.mp3』
再生ボタンの上で、カーソルが止まる。
クリックすれば、もう聞けないはずの声が聞こえる。
部屋の中は静かだった。
月本は深く息を吸って、マウスを握り直した。
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