9 トメさんを元気づけよう
葉月が竜遊舎兼トメさん宅で、寝起きをするようになってから三日が過ぎた。
仕事中、パソコンデスクの左手には電源代わりとなっている鞠蛍が二匹、ふわふわと柔らかく光りながら、風にそよいでいるかのように揺れている。数時間に一回、小さなふわふわした光の手を使って、ノートパソコンのプラグを渡しっこしている。可愛い。すごく可愛い。
葉月の右肩には、杏色のコザクラインコもといユカリが乗っている。時折、もっふりと膨らんで、ふわふわで温かな身体を葉月の頬にぴとっとくっつけてくる。声を掛けると嘴の先でこしょこしょとくすぐってくる。甘えてくれているのがわかる。可愛い。すごく可愛い。
沙流渡は予定していた通り、一日だけユカリの付き添いをすると、その夜には泊まることなく帰っていった。
「いつでもお気軽にご連絡ください」
と、名刺はもらっている。おそらく、ユカリのことでなにか起こったときに、担当者として対応してくれる、ということなのだろう。もちろん昨日も今日も、午前十時頃に一度ユカリの様子を見に竜遊舎を訪れていた。
――ユカリさんが少しずつグラスの扱い方にも慣れてきているし、ユカリさんが帰るときまで、あらためて連絡する機会なんてないかもしれないなあ……。
当のユカリは、グラスを使う練習をするとき以外は、小さなコザクラインコの姿になって、葉月がする仕事を、葉月の傍で大人しく眺めているだけなのだ。葉月に尋ねたいことがあっても、質問してくるのは仕事が終わってからだ。
ユカリが誤って炎を使ってしまうかもしれない、というトメさんの心配も杞憂のまま終わりそうだ。
葉月が心配していた仕事も、良いペースで進んでいる。それはもちろん、すぐ傍にもふもふがいてくれているからである。素晴らしいもふもふは素晴らしいもふもふインスピレーションを与えてくれるのだ。次から次へとアイディアがやってくるのだ。
今はユカリをモデルに、三羽のコザクラインコを描いている。黄、青、緑。葉月は知らなかったが、コザクラインコはとても色々な種類のカラーの子がいる。それぞれのパターンで、背中や尾羽などに色々な色が入っているので、とても綺麗だ。
そしてずんぐりむっくりしていて、もふっと膨らんでいると、羽毛のボールのようでとても可愛い。その子たちにふわふわなサンタ帽を被せるのだ。ときめく。
「はああ、ときめく……。可愛い……」
ときめき過ぎて、声に出して言わずにはいられない。自分のイラストに対してというより、イラストのモデルになっているインコたちに。それにもふもふモデルとなっている、ユカリと鞠蛍に。
ときめきがさらにブースターとなって、仕事が捗る捗る。
「はっ……!」
と我に返ると、夕食時間近。集中してると四時間五時間など、あっという間だ。
お腹も空いてきたし、夕食の支度しよう。葉月は拡げていた資料を片付け、パソコンの電源を落とした。電気を供給してくれていた鞠蛍を、そのふわふわな頭を指先で撫でて労う。
しかし椅子から立ちあがるより先に、葉月はあることに気がついた。
――あれ? そういえば、なんか静かじゃない……?
夢中になっていたために記憶は定かでなかったが、工房からトメさんが硝子を扱う音がうっと聞こえていなかったような。
おや? と首を傾げながら肩にユカリを乗せて、葉月は工房の和室へと入っていく。
「トメさん――」
葉月は思わず口をつぐんだ。
作務衣姿のトメさんが工房の和室で、こちらに背を向けてごろりと寝転がっていた。
露姫様がアシカかアザラシと揶揄する姿だ。トメさんは長身で体格が良いので、寝転がっていても存在感がある。さしずめ青いアザラシだろうか。
アザラシの赤ちゃんて可愛いよね。
妄想は留まるところを知らず炸裂した。
「……っ!」
葉月は声を洩らさず、一人静かに悶絶していた。トメさんのスカイブルーをした、もふもふなゴマフアザラシの赤ちゃんとかいたら、と想像したら、その子があまりにも可愛くて、悶絶するしかなかったのである。
不思議そうに顔を覗き込んでくるユカリへ、そのふわふわほっぺを指先でカキカキしてあげて、驚かせてごめんねと謝った。
ひとしきり悶絶してから、葉月はあらためてトメさんへ目を戻した。
様子を見ていると、どうやら寝てはいないようである。
そして心なしか、落ち込んでいるような雰囲気がある。悶絶している場合ではなかったかもしれない。
「トメさん、どうしたんですか?」
驚かせないようにゆっくりと近づく。
作ろうと思ったものが思うようにできなかったのかもしれない。トメさんは色んな意味で無敵を誇るドラゴンなので、体調不良ということもないだろうし、心を落ち着かせて気分を変えるために横になって休んでいるのかもしれなかった。
「お腹が空いてきたので、これからお夕食を作りますけど、トメさんは食べたいものはありますか?」
傍らにしゃがみ込んで尋ねると、トメさんは「ああ、そうだなあ」とぼそりと小さく呟き、ごろりと葉月へと寝返りを打った。
マリンブルーの眼差しで葉月を見上げてくる。葉月を映す、ほのかに緑がかったネオンブルーをしたその瞳は、きらきらと宝石のように煌めいている。
――何度見ても綺麗だなあ……。
これまでジュエリーにはとんと縁がなかったが、最高品質の宝石というのはきっとこんな感じなのだろうと葉月は思った。
「……俺にとってはどんな料理も新鮮な体験だから、葉月ちゃんの食べたいものを作ってくれ」
きらきらと煌めく瞳とは裏腹に、トメさんの声には元気がなかった。表情もどこかぼんやりしている。
「トメさん、大丈夫ですか? 悩み事ですか?」
「……まあな」
こんなに意気消沈したトメさんは初めてだった。
「もしかして、硝子が思うように作れないとか、ですか?」
トメさんは、うーん、と唸る。
「まあ、そういうのも、あるな」
「わたしで良ければ、悩みを聞きますよ。ほら、人に話すだけでも考えが整理できたり、気分が晴れたりするって言うじゃないですか」
トメさんは、またもやうーん、と唸る。
「……いや、大丈夫だ。ありがとうな」
ふわりと微笑んでくれたが、少し無理をしているように、葉月には感じられた。
「トメさん」
「ん?」
のそりと起き上がり、トメさんは葉月と向かい合って座り直した。
「トメさんは、インドカレーとか食べたことありますか? あとタイカレーとか」
「カレーに種類があるのか?」
トメさんはどうやら知らなかったようだ。不思議そうな顔をして、葉月の話に耳を傾けている。
「カレーっていうのは、ルーで作るヤツだろう?」
「そう、それです。でも、それだけじゃなくて、たくさんあるんですよ」
興味を持ってくれて良かった。葉月は笑って話を続けた。
「日本でカレーって呼ばれている料理は、インドという国から入ってきた、香辛料を使った料理が始まりですけど、インドだけじゃなくて、タイって国のカレーもあるし、入れる香辛料の種類や使い方、食材や調理法も、色々と種類があるんです。香辛料の調合も家庭や人でそれぞれ違ってくるし」
「へえ、そりゃ、面白えな」
よしよし、トメさんが前のめりになってきた。肩に乗っているインコ姿のユカリも、前のめりで葉月を覗き込み、黙って話を聞いている。
この家にはテレビやパソコンがないので、トメさんの情報ソースは露姫様か近所の商店街の方々からの世間話だと思われる。
葉月はにんまりした。美味しいもので、トメさんを驚かせてやろう。
「ところで、トメさんは辛いものは大丈夫ですか? ワサビじゃなくて唐辛子の辛さですけど」
「蕎麦にかけたりする七味に入っている、赤いヤツだよな」
「そう、それです。辛いのが大丈夫なら、ルーで作るのとは違うカレーを食べてみませんか?」
「葉月ちゃん、作れるのか。すげえな」
「あくまでもそれっぽいって程度の、インド風タイ風ですけどね。でも、今日はせっかくなので、商店街のお店で買ってきます」
サフェドハティというインドカレーのレストランがあるのだ。白い象の大きな置物が目印だ。
「ちょっと待っててくださいね」
しゃがんでいた葉月が立ちあがったとたん、トメさんとユカリが同時に一緒に行くと声を上げた。ユカリがすかさず人の姿――マキシドレスを着た金髪美女へと変化した。宝石のような水色空色と黄金色をまとった、美男美女が目の前に並んでいる。
――わあ、とっても目立ちそう。
正直なところそう思ってしまったが、すぐに葉月は気を取り直した。
二人とも、外の空気を吸った方が良い。
硝子工芸に没頭しがちなトメさんは、もとからあまり外出しないし、ユカリもここに来てから一度も外に出ていない。工房の裏口から神主である露木さん宅の庭に出ることはできるが、それとこれとは別である。
この街には露姫様の護りがあるので、とんでもなく目立ったとしても、そうそう困ったことにはならないだろう。
「わかりました。じゃあ、三人で商店街へ買い物に行きましょう。わたしは準備してきますので、二人も出掛けられるようにして、玄関で待っててください」
部屋に戻り財布、スマートフォンをトートバッグに突っ込む。部屋のなかでふわふわ飛んでいた鞠蛍さん二匹を、もふもふして愛でるのも忘れない。
「お待たせしました」
玄関へ向かえば、微妙な雰囲気を漂わせて、美男美女が佇んでいた。トメさんは草履、ユカリはサンダルを履いている。二人とも手ぶらなのは、人ならざるものはお金を使えないからだ。
それでもトメさんが困ることはない。商店街の人々はトメさんと仲が良いし、トメさんが作る硝子の工芸品を譲ってもらったり、ドラゴンの能力でなにがしかの問題を解決してもらったりするので、お礼やお裾分けとして食材や日用品などを白露神社経由でくれたりするのだ。
ユカリはあまり人と交流することがないようなので、買い物以前にそもそも商店街というものが、一体どういうものなのかすら知らないかもしれない。
そんな二人を連れて、買い物へ行く。ちょっとドキドキする。葉月は某子供が初めてお使いへ行く番組を思い出したりしていた。葉月という付き添いはいるけれど、状況としては似ているような気がする。
「じゃ、行きましょうか。二人とも、付いてきてくださいね」
二人は異口同音でわかったと頷いた。
引き戸を開けると、容赦ない真夏の太陽。じき午後六時になるというのに、陽射しはギラギラ、空気はサウナさながらに暑く蒸している。
しかし美味しいカレーのためならば、そしてトメさんやユカリが喜んでくれるなら、灼熱の暑さもなんのその。と思っていると、葉月の周囲にふわりと涼しい風が流れ込んできた。
竜遊舎の敷地から道路に出るころには、まるで冷房の効いた屋内にいるような爽やかな涼しさになった。
「俺やこいつはいくら暑かろうと関係ねえが、葉月ちゃんは辛いだろう」
「これ、トメさんが?」
「熱中症とやらも莫迦にならねえらしいからな」
「ありがとうございます。とても涼しいです」
なかなかに贅沢な外出である。初めての子供のお使いという連想は撤回しなければ。
葉月がそんな反省をしていると、眩しかった陽射しが、ふと陰った。思わず見上げて、トメさんが歩いているのとは反対側を見る。
すると、隣を歩いているユカリが片腕をオレンジ色がかった黄金の翼に変えて、日傘の代わりとばかりに陽射しを遮っていた。美しくも冷たい彫像のような無表情であったが、葉月に対する思いやりは伝わってくる。
「ユカリさん、ありがとうございます」
「うむ」
がんぜない頷き。姿は金髪美女でも、仕草はコザクラインコを彷彿とさせる。可愛くて微笑ましくなる。
並んで歩いているのが美男美女という以上に目立ってしまったが、二人の心遣いが嬉しかったので、商店街の人々に注目されても少しも気にならなかった。
インドカレーの店サフェドハティに入ると、客も店員も、トメさんと、とくに片腕を黄金の翼にしていたユカリに目を丸くしていた。
インド人の店員さんがユカリを「ガルーダ……!」と呼んでいたが、ユカリは「違う」と即否定していた。
あとで沙流渡から聞いた話だと、インド神話の神鳥ガルーダとよく間違えられるらしい。珍しくユカリは不機嫌オーラを丸出しにしていた。
それでも、五種類ばかりのカレーとナンやチャパティは、トメさんもユカリもとても気に入ったようだった。
「沙流渡にも教えよう」
どこか嬉しそうな声で、ユカリがぽつりと呟いていた。
トメさんはトメさんで、あの店のメニューを全種類制覇してみたい、と新たな野望を口にしていた。
夕食が終わるころには、トメさんはすっかり元気になっていた。
良かった良かった。嬉しくて、葉月は胸のうちで一人頷いていた。