008 街の市場へ②
市場に一歩足を踏み入れれば、そこはもう別世界。
どこを向いても人で溢れ、たった今歩いていた場所ですらも既にどこかの店に並ぶ行列の一部へと変わっているほど。
お一人様から家族連れ、老若男女様々な人が市場を巡り……軒を連ねる店先ではドールを伴って接客をしている者から、完全にドールに任せきりの者まで多種多様。
それらの光景はまるで、今この場所に街中の人達が全て集まって来ているかのような……
世界を下から見上げる形となっている小さな少女の目には、自分よりも大きな者の姿で視界を遮られる事も多々あり……実際よりも人が多く、さぞ混雑した状況に見えた事だろう。
「━━こっち……かな?」
市場を流れる人にぶつからないよう注意をしつつ、少女がきょろきょろと周囲を見回しながらも歩いていると……突如として目の前に現れる、人の壁。ずらりと並んだその壁の先には、見覚えのある店の看板が置かれている。
……どうやら、ここがお目当てのパン屋のようだ。
少女はバスケットを持ち直し、さっそく壁の最後尾へ。よほどの人気店なのか、すぐさま後ろに人がついたが……相応に客の回転率も良いようで、行列は無駄に伸びる事なくスルスルと順番が進んでいく。
大した時間も経たないうちに前に並んでいた客達は皆買い物を終え、気づけばあっという間に列の一番前。
やや緊張した様子を見せつつも、バスケットから取り出したがま口の財布を手に、様々なパンが置かれた台の前へと少女は立つ……
「いらっしゃい!」
台を挟んだ向こう側……客からもらった代金をしまっていたパン屋の主人が、振り返りざまにこちらに威勢の良い声を投げかけてくる。
「これ━━」
「やあやあ、´奥さん´! 今日はどんなパンをお探しで?」
そこから続くパン屋の主人の言葉は、明らかに小さな少女へと向けられたものではない。
それを聞いた少女が財布を開こうとしていた手を止め、まだ自分の番じゃなかったのかな? と周りを確認する姿を見て……後ろに並んでいた女性は口元に手を当てクスリと優しげに笑う。
「ふふっ……私は次よ。それはこちらのお嬢さんに聞いてあげて?」
少し背を丸め、女性はそう言って自分の前に並んでいる少女へとパン屋の主人を促す。
「……ん? んんん? こちら? …………おおっと、こりゃあすまねえ! いらっしゃい、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんはどんなパンがいいんだい?」
客がパンを選びやすいよう奥が高くなっている台。そのせいで店側からは小さな少女の姿が影となっていたのか……パン屋の主人は店先まで出てくると謝罪し、両膝に手をあてる形で改めて小さなお客さんに言葉をかける。
「お嬢ちゃんじゃなくて、私はリリーよ」
そう返しながらも持っていた財布をパチリと開き、少女は中に入っていたメモ紙を掴む。
そしてこちらを待つパン屋の主人を見上げると、がま口の財布と共に少女はそれを手渡した。
「……これ」
「おっ、どれどれ……。よし、ちょっと待っててくれな。…………ほらよ、焼きたてのライ麦パンだ!」
紙に包まれたまだ暖かいパンを受けとり、バスケットの中にいるクマのぬいぐるみの隣へ。もちろん、返ってきた財布にメモ紙を戻すのも忘れない。
クマのぬいぐるみ……パン……がま口財布……バスケットにそれらがあることを確認し、少女は次へと向かうべく歩き始める。
「また来てくれよな!」
パン屋の主人の言葉に振り返り、頷きで返すと……残りの食材を求め、少女は市場の雑踏へと紛れていった。
━━空高く昇った太陽が世界を照りつけ、市場の中央に設置された噴水はその光を反射してはキラキラと輝く。
人々が集まり思い思いに腰を下ろす噴水の´へり´は通常よりも広く、座るのに丁度良い高さもあってかその場所は買い物を楽しむ人々の軽い休憩スポットともなっていた。
頼まれていた物を全て買い終え、他の買い物客と同様に少し休もうとそこに座っていた少女は……バスケットの中に入っていたクマのぬいぐるみを取り出すと、周りの景色を見せるように自分の膝の上へと座らせる。
……すぐ近くからは客の呼び込みを行っているドールの気っ風のいい声が響き、それを聞きつけた別のドール達が店先に並べられた品物の良し悪しや値段を吟味。
市場の外にある通りでは、美味しそうな匂いにつられる犬を必死になって止めようとするペットの散歩中らしきドールや……知り合いなのか、買い物カゴを下げたまま数人の住人達と立ち止まり談笑しているドールまで。
それらは同調率が低く一見してすぐドールとわかるもの、同調率が高く人間にしか見えないもの……
その姿形に差異はあれど、申請者の様々な思いが込められたその姿に対して、良からぬ偏見を持つものなどこの街には在りはしなかった。
隣人であり、友であり、家族でもある。……そんな存在として。
されど、中には[護衛用]の様に同調率を敢えて低くし、それでいて[家庭用]として扱うといった一部の酔狂な趣味嗜好の者達もおり、初めてそれを見せられた時の対応などなど……そこだけは若干の困りものでもあったようだ。
黒く小さな手を動かしてみたり、ふわふわなお腹をつんつんとしてみたり。
噴水の´へり´に座り、´ぬいぐるみモード´中のため微動だにしないクマのぬいぐるみへと時折ちょっかいをかけながら……少女は流れゆく人の波を眺めていると、ちょうど市場から出ていく様子の見知った顔の男性が目に入る。
方向的にもバジリカへ向かう通りに出るようで、バスケットの中にある牛乳を思い出した少女は悪くならないようにとその男性の後を追う形で市場を抜けていった。
…………少女の少し先を、男性が歩く。
後ろには気が付いていないようで、通りに面した家の花壇に植えられた草花に目を向けながらも男性はまっすぐと歩いていく。
「……っしょ、ん……しょ。…………むっ」
歩幅の違いからか徐々に開き始める距離に、少女は負けじと体の正面に来るようバスケットを持ち直し、その足に力を込める。
ふうふうと声をあげなから頑張る少女。それを指揮するようにバスケットの縁に手をかけ、顔をひょっこりと覗かせているクマのぬいぐるみ。
少女達のそんな姿は道すがらすれ違う街の人々を和ませ、次々と笑顔に変えていくのだった。
……通りの中程まで来ただろうか。ふと男性は通りから外れ、側にある脇道へと入っていく。
その場所に近づいていくにつれ……途切れ途切れではあるが、風に乗って聞こえてくるのは若い女性の声。
「……うん、うん。もう、大丈夫だって!」
おそらく、男性との会話の一部であろう。
それは少女が特段意識するようなものでもなく、通りを行く馬車や人の声に混ざりすぐに耳から離れていってしまう。
「……じゃあね、近くに来たらまた来るからっ!」
再度その声が耳元をかすめた後、少女が脇道の前までやって来ると……先ほどの男性がタイミング良くこちらの通りに戻ってくるところだった。
「こんにちは、配達さん」
「おや……こんにちは、リリー。こんにちは、ロッコ」
相変わらず大きめの鞄を肩から下げ、目深にかぶった帽子と共に制服を着た青年は、目の前に現れた少女とその手に持ったバスケットから黒い顔を覗かせているクマのぬいぐるみへと挨拶を返す。
「これからお出かけかい?」
「今から帰るとこ。ロッコとお買い物してたの」
「おっ。´おつかい´か、えらいえらい」
そう言って青年はバスケットの中を確認すると、少し心配そうに口を開く。
「重くないかい? どれ、近くだし持ってあげよう!」
「ロッコがいるから大丈夫よ。ありがと」
「……そうかい? 最近はあまり頼ってくれなくて少し寂しいよ」
肩を竦め残念そうな顔を見せる青年の気持ちを知ってか知らずか……少女はじゃあねといつもの様に言葉を送り、若いシスターが待つバジリカへと足を向けた。




