第三百三十六話 メルトロン
「マスター……」
アナトはマスターの顔を見上げる。
今回も、また彼に助けられた。
昔、彼女があるものを失って慟哭していた時と同じように……。
マスターは天使に向けていた冷たい笑みをかき消し、温かい笑みを浮かべてアナトを見下ろして言う。
今は、随分と自分を出しているようだ、と。
「べ、別にぃ。私はいつも通りよぉ」
慌てて首を横に振るアナト。
しかし、マスターは彼女がいつも自分に対しては敬語を使っていることを持ち出し、それを使っていないほど動揺していることを見抜く。
初めて会った時に戻ったようだと、マスターは笑った。
「昔のことは掘り下げないでよぉ……ください~」
アナトが顔を赤く染めて、マスターを見上げて抗議する。
取ってつけたように敬語を使うが、まったく誤魔化せていない。
マスターは、敬語なしの方が壁がない感じがして嬉しいと伝えて無理な敬語を止めるように言った。
「……もう~、仕方ないわねぇ」
口ではそう言うアナトであったが、何だかマスターと親しみやすくなったようで頬は緩んでいた。
彼女も、普段はギルドメンバーのまとめ役を買って出ているのだが、本当はもう少し甘えたかったのかもしれない。
そんな戦場には不釣り合いなほのぼのとした空間を作り出す彼らに、無粋に声をかける者がいた。
「おい、魔王。人工天使と会話をするのもいいが、私の質問にも答えよ。何のつもりだと聞いたのだ」
それは、もちろん天使であった。
彼からしてみれば、自分を攻撃してきた者が自分を放っておいて女とイチャイチャしだしたのだ。口を挟まないはずがない。
天使の尋問に、マスターも穏やかに微笑みながら答える。
大切なギルドメンバー……もとい自分の信徒を傷つけられて、黙っていられるはずがない、と。
相手が天使教の信仰対象なため、(望んではいないが)マスター教の信仰対象として答える。
それを聞いて、感動したように目を潤ませるマスター教徒たち。
もはや、取り返しのつかないところにまで来ていた。
「はっ!お前、望んで祭り上げられていたのか!?天から見下ろしていた時は、むしろ嫌がっているように見えたが……」
正解です。マスターは内心で頷いた。
しかし、いくら何でもアナトを……そして余裕があればマスター教徒たちも見捨てるわけにはいかない。
あと、天使教徒たちが不憫なこともあると呟いた。
彼らが慕っていた教皇デニスを殺され、信仰していた天使からは『ただ信じていればいい』と下僕のように扱われ……マスターの同情を買うには十分であった。
「マスター様!!」
「おぉぉっ!俺たちみたいな末端の存在までお救いくださるのか……!!」
「先ほどまで殺し合っていた私たちのことまで……!?」
マスターの言葉にマスター教徒が反応するのは当然のことだったが、天使教徒たちもざわめき立った。
散々侮辱までして敵対していたというのに、かばってくれたともとれる発言に天使教徒たちはうろたえた。
「これが、マスター様の素晴らしさです!!」
天使教からマスター教に乗り換えたオリアナ、唐突に現れる。
彼女は天使教徒たちの前で、マスターがいかに素晴らしくまた慈悲深いのかを演説し始めた。
少し前までなら誰も聞く耳すら持たずに襲い掛かられていただろうが、デニスも死に天使から裏切られた彼らは、オリアナの言葉に聞き入ってしまっていた。
「黙れ!!!!」
『ッ!?』
そんな彼らを硬直させたのは、天使の鋭い怒りの声であった。
彼はひとしきり天使教徒たちを睨みつけると、殺意が濃厚な目でマスターをねめつける。
「……貴様、私に刃向うだけに飽き足らず、信徒まで奪い取るつもりか?この盗人が!!」
自分の目の前で改宗を誘うだなんて、許されることではない。
彼の身体に、聖なる力が纏いだす。
「いいだろう。貴様のそのふざけた行為、地獄で悔い改めるがいい!!この私……メルトロンが、直々に貴様を屠ってやろう!!」
◆
天使メルトロンは光の槍を作りだし、翼をはためかせて急降下する。
その速度は天使の翼を使っているだけあって凄まじく速く、この戦場にいる大抵の者は風が吹いたとしか思えなかったほどである。
「死ねぇっ!!」
メルトロンの鋭い槍の突きが放たれる。
マスターはどこからか槍を召喚し、その突きを弾いた。
すぐにカウンターが襲い掛かってくるが、メルトロンも翼をはためかせてその攻撃を回避する。
「ほう。私の光の槍とぶつかり合って刃こぼれひとつしないとは……なかなかの槍のようだな」
メルトロンの言葉に、薄く笑うマスター。
彼の召喚した槍は、竜殺しの属性を持つ『レアンドル』であった。
かつて、玉を取り込んで暴走したクレイグを屠った槍で、天使と対峙していた。
メルトロンはドラゴンではないためその特性は活かせないが、その頑強さと鋭さはドラゴン以外にも有効である。
「だが、変哲もない槍なら、私に届くことはないぞ!」
メルトロンは無造作に手に持つ槍を投擲した。
ゴウッ! と唸りを上げてマスターに迫るその勢いは、人間の身体程度容易く貫通させることができるだろう。
マスターは『レアンドル』を横に構えて受け止める。
ギリギリと甲高い金属音が鳴り響き、しばしの間マスターの力と槍の勢いのせめぎ合いが発生する。
そして、マスターは光の槍を弾き飛ばすことに成功した。
「ほほう、やるな。私の投擲は、ドラゴンの鱗をも貫くのだが……」
マスターは痺れた手を見ていた。
なるほど、メルトロンが自画自賛するだけあって、彼の投擲はかなりの脅威になり得る。
もしかしたら、何かしらのスキルでも持っているのかもしれない。
さらに、このスキルを天使であるメルトロンが持っていることが厄介だった。
普通なら、投擲する物がなくなってしまえば、そのスキルを持っている者は大した脅威にならないのだが……。
「しかし、いったいいつまで防ぎきれるかな?」
メルトロンの両手に、光の槍が生み出される。
いや、それだけではない。彼の背後に控えるように、いくつもの槍が作り出された。
そう、天使は自身の魔力が潰えるまで槍を作り出すことができる。
槍はかなり強固だが、魔力の燃費もかなり良さそうだ。
「ふははははははははっ!!」
メルトロンは光の槍を次々に投擲する。
放物線を描くように迫ったり、地を這うような低い弾道から迫ったり。
しかし、どのような方向からも忠実にマスターの身体を狙い撃ちしていた。
マスターも『レアンドル』で槍の投擲を防ぐが、その威力にどんどんと押されていく。
ついには、マスターの身体の部分部分を傷つける槍も現れ始める。
「あぁ、もう~!あんまり無茶しないでほしいのにぃ」
当然、マスターにそんなことをされて黙っている『救世の軍勢』メンバーなどいない。
とくに、助けてもらったアナトは『ファンデルフ』で光線を放とうとするが……。
「我が下僕たちよ、今こそ私のために働け!その身体で以て、私に報いよ!!」
『う、うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!』
メルトロンの言葉に、天使教徒たちが一斉に『救世の軍勢』メンバーに襲い掛かった。
いや、攻撃を仕掛けるとかそういうことではない。
その身体を投げだし、メルトロンに攻撃が届かないよう文字通り肉の壁になるのだ。
「ちょっ!?こいつら馬鹿なの!?あんな酷いことを言われておいて、まだあんなクズのために死のうっての!?」
クーリンは理解できないと言いながら、迫りくる天使教徒をオーガに潰させる。
狼狽はしているが、やはりマスター以外へのえげつなさは変わらなかった。
「まぁ……分かるけどねぇ」
頭のねじが数本外れている『救世の軍勢』メンバーでも常軌を逸していると考えたが、その中でもマスター教というカルトを指導するアナトは理解できた。
宗教というのは……天使教というのは、彼らにとって精神的支柱なのである。
デニスのように、小さなころからずっと信じてきた者も多い。
そんな自分というものを構成する大きな要素である天使教を、天使が傍若無人だからといってすぐに諦められるほど、人は強くなかった。
ただ、アナトたちに襲い掛からない天使教も数こそ少ないが存在した。
マスターに庇われ、オリアナの演説も加えられたために踏みとどまった者たちだ。
だが、大半の者は迷いながらもアナトたちの足止めを行い、少ない数の者たちは喜んでその身を差し出した。
たとえ、天使が自分たちのことを下僕のようにしか思っていなくとも、狂信者たちは大喜びでその命を差し出す。それが、小さなころから教えられていたことだからだ。
むしろ、信仰対象である天使をその目で見られて、彼から直接死ねと言われて死ねることが幸福とさえ思っていた。
そんな死兵の相手に手間取り、マスターの元に助けに行けなかった。
「ふはははっ!いいぞ、死んだ後は、その魂拾ってやろう!」
自分の命令通りに動いた天使教徒たちに満足するメルトロン。
彼の手に光が集まり、それが解けると『スカリオーネ』に似た杖を持っていた。
「これは、まがい物の聖具とは比べものにならんぞ!!」
メルトロンはそう宣言して、その宝玉を輝かせるのであった。




