第二百八話 ワーウルフ
燃え盛る灼熱の黒炎。
その中には、魔王軍四天王が一人、イザッコがいた。
「おや。これは、少々マズイですかね……」
そして、彼の手下『ということになっている』ヒルデは、そんな彼を見てうっすらと笑っていた。
別に、彼は魔王に忠誠を誓ったわけでもなんでもない。
ドラゴン族に指令が受け入れられなくても、どちらでもいいのだ。
「ただ、イザッコさんも雑魚ではないですよ。性格に難はありますが、それでも四天王の一角を務めているんですからね」
ヒルデはそう言いながら、ごそごそと懐をあさって玉を取り出す。
「しかし、流石はリース。最強のドラゴンというだけあって、凄まじい力です。どれ、少しいただいておきますか……」
そう言って、玉の力を発動させようとしたときだった。
「おや……?」
ヒルデの手のひらに乗っていた玉が、ぎゅるっと空間が歪んだと思うと、消滅してしまったのである。
一瞬、目を見開くヒルデであったが、すぐに誰がしたのかを予測することができて笑みを深くする。
「あなたでしたか」
ヒルデが目を向ける先には、穏やかな笑みを浮かべながら手を向けてくるマスターの姿があった。
おそらく、玉だけを何かしらの魔法で消滅させたのであろう。
その魔法はさっぱり見当がつかないが、流石はマスターだとヒルデは思った。
ヒルデの身体には傷一つ負わせず、玉だけを完全に消滅させることができるだなんて、マスターくらいしかできないことだろう。
「ええ、わかりました。怪しい行動は、つつしみます」
変なことをしないようにと優しく注意されて、ヒルデは同じく笑って頷く。
穏やかな物言いだが、次におかしな真似をとろうとすると、今度は彼の身体が消滅させられてしまうだろう。
マスターはいつも笑みを浮かべて穏やかな気性をしているが、とくに敵に寛大というわけではない。
「今、死ぬわけにはいきませんからね」
『あれ』を復活させるために、こんなところで死ぬわけにはいかないのである。
だから、『マスターを目前にして殺してやりたい気持ちでいっぱい』になりながらも、ヒルデは自身の身体を必死に押さえつけるのであった。
「ねえ、マスター……」
ニッと、狂気じみた笑みを浮かべてマスターを見るヒルデ。
自分を見れば、思い出すだろう。
あの、『ラルド帝国』が滅んだ日のことを……。
マスターは、そんな笑みを浮かべてくるヒルデを見て思った。
――――――なにこの人、怖い。
◆
リースが険しい目を向ける黒炎。
それは、中に取り込んだイザッコを燃えつくさんと、激しく燃え盛る。
しかし、リースは確信していた。
イザッコは、生きていると。
あの全てを焼き尽くす黒い炎の中で、生きていると。
「オォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!」
「ッ!?」
黒い炎の中から、甲高い叫び声が上がった。
断末魔の叫びだろうか?
いいや、違う。これは、叫び声などではない。
これは、雄叫びであった。咆哮であった。
「……マジか」
思わず、リースはそんな言葉を呟いてしまった。
というのも、今の雄叫びで黒い炎が弾き飛ばされてしまったからである。
全てを焼き尽くす黒炎を、魔力が込められた咆哮でかき消してしまったのだ。
こんな荒業を披露する相手は、本当に久しぶりすぎてリースの頬にも汗が一筋垂れる。
「あぁぁぁっ!!くそったれ!熱いし、熱いし、熱いし!!本当の姿を、こんな所で見せる羽目になるなんてなぁぁっ!!」
かき消された炎の余韻である煙の中から出てくる人影。
軟派な容姿のイザッコ……ではなく、その姿は大きく変わっていた。
体格も二回りほど大きく、がっしりとしたものへと変わっていた。
灰色の硬そうな体毛がびっしりと全身を覆って、顔の形も人間のものから狼のものへと変貌している。
まさに、今のイザッコは二足歩行する狼であった。
そんな特徴を持つ魔族に、リースは心当たりがあった。
「そうか。お前は、ワーウルフか」
「おう!!」
リースの問いに、誇らしげに頷くイザッコ。
ワーウルフ。人間たちに名前の知られている魔族の一種である。
ほぼ完全に人間に擬態できることから、とくに恐れられている魔族でもある。
「癪だが、テメエが強ぇのは事実だ。だから、全力でお前を殺してやるよ」
「はっ。殺されるのは、お前の方だぞ」
イザッコとリースが睨み合う。
そして、次に動いたのもイザッコからだった。
しかし、その速度は今までと比べものにならないほど速かった。
「ちっ、速いな……っ」
一瞬で目の前から姿を消したイザッコに、リースは悪態をつく。
「テメエは遅ぇな」
「…………ッ!?」
イザッコが現れたのは、リースの背後であった。
すぐに反転して正眼に構えようとする彼女であったが、それよりもほんの少しイザッコの方が速かった。
「ぐっ……!?」
イザッコは、人間の形態をとっていたときよりもはるかに鋭く尖った牙をぎらつかせ、リースにかみつく。
リースはとっさに腕を差し出し、首から上を食らわれる最悪の事態を防ぐ。
なら、腕をさっさと噛み切って頭を砕いてやる。
そう考えて顎に力を込めるイザッコであったが……。
「(硬ぇっ!?俺にかみつかれる寸前に、腕だけドラゴンに戻しやがったのか……っ!!)」
イザッコは驚愕する。
あんな短い時間の間に、一瞬でドラゴンの鱗を部分展開するのは、流石最強のドラゴンと言うべきだろうか。
さらに、その黒い鱗も信じられないほど硬く、まるで鋼のようだった。
いや、鋼程度なら、ワーウルフの顎の力で簡単に貫いて砕くことができる。
それができないということは、リースの鱗は鋼よりも硬いということだった。
リースも、何とか部分展開が間に合って安堵のため息を漏らすが……。
「いつっ……!?」
鋭い痛みと、ずぶりと体内に異物が入り込む感覚を感じて、慌てて噛まれた腕を見る。
すると、イザッコの牙が鱗を砕いており、血が噴き出しているではないか。
イザッコはリースと目が合うと、ニヤリと笑った。
「こいつ、私の鱗を……っ!!」
なるほど、確かにリースの鱗は硬い。
世界で見ても、これほど硬い鱗を持つ生物は彼女以外に存在しないかもしれない。
しかし、イザッコの牙もまたこの世界で有数の攻撃力を秘めたものなのだ。
ワーウルフの牙というのは、彼らの最大の攻撃手段である。
さらに、イザッコは数多くの強力な魔族がいる魔王軍の四天王にまで上り詰めた、所謂最強のワーウルフである。
その牙は、最強のドラゴンの鱗をも貫いた。
「この……っ!!」
「おっと……」
リースはイザッコの顔に手を伸ばす。
引き離そうとしたところで、この男は腕から牙を抜かないだろう。
ならば、このまま頭を握りつぶしてやる。
しかし、そんな考えはイザッコにも容易に予測できた。
彼はさっさと牙を引き抜くと、ひらりと身をひるがえしてリースの手から逃れる。
「おらぁぁっ!!」
「ぐぁぁっ!?」
さらに、置き土産だとばかりにイザッコは爪を振るう。
その爪は非常に鋭いもので、名工が鍛え上げた業物の刃のような切れ味を誇っていた。
ワーウルフにとっては、爪は牙と同じくらい重要な武器なのである。
そんな高い殺傷能力を秘めている爪が、リースの肩を切り裂いた。
今度は、ドラゴンの鱗を部分展開することが間に合わなかった。
そうなると、リースの防御力は多少頑丈な人間と大して変わらない。
イザッコの爪はかなり深い傷となり、ドクドクと大量の血液が流れ出していた。
「ちっ。腕を一本もらうつもりだったが、無駄に頑丈さだけはあるなぁ、爬虫類女」
「うっ……」
少々不満そうに舌打ちをするイザッコ。
しかし、すぐに満足気な笑みへと変わる。
それもそうだ。先ほどまで、あれほど簡単にあしらわれていたのに、今はこちらが押しているのだから。
しかも、ダメージを負っているのは、明らかにリースの方である。
あれでは、片腕はもう使えまい。
「あっはっはっはっはっ!!どうだぁっ!?良い気になっていたテメエが、今は俺に殺されそうになっているんだぜ!?傑作じゃねえか!!」
イザッコは爪に付いた血を舐める。
人間以外の血や肉は好きではないが、今だけはこのドラゴンの血が最上のワインのような味がした。
「……ふぅ、そうだな。確かに、お前の言う通り、こんな様を見せていたらお笑い草だな」
「……あん?」
あっけなくイザッコの嘲笑を受け入れたリースを見て、彼は不審げに顔を歪める。
馬鹿にしたのだから怒ってもおかしくない。
というよりも、そういった反応を求めて挑発したのだが、こうもあっさりと受け入れられると拍子抜けである。
「……今更殊勝になっても遅ぇぞ?テメエを殺して、ドラゴン族は魔王軍の傘下……いや、奴隷だな。人間どもとの戦争に、全滅するまで駆りだしてやる」
「そうか。……まあ、ぶっちゃけアリス以外のドラゴンがどうなろうが、私の知ったことではないんだけどな」
あふれ出る血を抑えながら、リースはぼーっと空を見上げる。
かなりの出血量で、もし彼女がドラゴンでなかったら今頃気絶くらいはしていたかもしれない。
今のところ、リースは意識を保ってしっかりと立つことができているが、このまま血を流しているといずれ動けなくなるだろう。
そうなると、イザッコは次に誰に手を出す?
間違いなく、マスターだろう。
(一応)人間のマスターは、イザッコからすれば良質な餌だ。
彼は喜んで牙をむき、マスターに襲い掛かるだろう。
「(マスターが負けることが想像できないけど……)それでも、やらせるわけにはいかないよな」
「あ?テメエ、さっきからブツブツと何を言って……」
「なに。お前が本当の姿を見せたように、私も見せてやろうと思っただけだよ」
リースは追い詰められている当人とは思えないほど、勝利を確信したかのような笑みを浮かべる。
そんな彼女の身体からは、どんよりと黒い魔力が上りはじめていた。
イザッコはそれを鼻で笑う……ことはできなかった。
リースの言う本当の姿とは、当然ドラゴンの姿のことだろう。
他のドラゴンたちが本当の姿を現したところで、ワーウルフの正体を現したイザッコなら嘲笑って簡単に殺すことができる。
しかし、この女は違う。
人間の形態で、あれほど自分を追い詰めるほどの力を持っていたのだ。
本当の力を取り戻せば、いったいどういうことになるか。
「させっかよぉぉぉっ!!」
イザッコはワーウルフの脚力を活かして、猛然とリースに迫る。
リースは、多少のダメージは負う覚悟があった。
だから、逃げないで魔力を高め続ける。
イザッコの爪がリースの身体を捉えようとした時……。
「なにぃっ!?」
ガキンと、目に見えない魔力の障壁に阻まれて、イザッコの爪が彼女に届くことはなかった。
リースはその現象に目を見開き、ある方向を見る。
そこには、こちらを笑顔で見るマスターがいた。
……なんだか、イザッコを見る目が少し怖かったが。
「……ありがとな、マスター」
リースはふっと笑う。
本当の姿は、彼女自身が好きではなかった。
昔は、こんな禍々しい色ではなかったのに……。
しかし、マスターを守るために、彼女は今本当の姿を取り戻す。
リースの全身を、黒い光が覆ったのであった。




