第百六十八話 子供は苦手
「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ……!!」
奴隷商人の男は、醜く肥えた身体を揺らしながら懸命に走っていた。
いつも馬車に乗り、雇った男たちに護衛してもらいながらのんびりと過ごす彼が、これほどまでに全力で走ることは久しぶりである。
今までの不摂生な生活のせいで、息もすぐに荒くなるし脂汗も飛び散る。
それでも、奴隷商人は脚を止めることはない。
当たり前だ。いくら苦しくとも、死ぬよりはマシだ。
「つ、着いた……っ!着いたぞっ!!」
そんな彼がたどり着いた場所は、商品たちを詰め込んだ馬車であった。
エルフ種は魔法に優れた種族だ。
エルフ種二人を捕まえるために、一緒に連れ来ていては大切な商材に傷がつくかもしれない。
決して、奴隷たちのことを大切に思っていたわけではなかった。
「あん?雇い主さん?」
膝に手をつきながら、ぜーぜーと荒い息をしている奴隷商人を、奴隷たちが逃げないために残していた少数のグレーギルドのメンバーたちが訝しげに見つめる。
近寄ってきて、まるでブタのように喘ぐ奴隷商人を見てニヤニヤと笑う。
「どうしたよ、雇い主さん?途轍もねえ化け物にでもあったような顔をしているぜ?」
「その認識で間違っておらんよ!!」
「はぁ?」
何を言っているんだといった表情の護衛の男たちのことは無視し、奴隷商人は馬車に乗りこむ。
そんな様子を見て、頭でもおかしくなったかとまた笑う男たち。
笑っていればいい。生き残るのは、自分と商品だけで十分だ。
「おいおい、本当にどうしちまったんだよ?エルフ種の女どもを捕まえに行ったんじゃねえのかよ。仲間も帰って来ねえし……」
「だから、言っているだろう!?化け物が出たと……っ!!」
何度言っても分からない連中だ。
だから、グレーギルドの構成員のような馬鹿共は嫌いだし、見下しているのだ。
とにかく、今はこんな連中に構っている暇はない。
一刻も早くこの場を後にして……。
「――――――化け物とは、私のことですか?」
「え……?」
「あ……?」
冷たい声が、奴隷商人の耳に聞こえた。
聞きたくもない、あの女の声だ。
目を上げると、護衛の男たちは何が起きたのかも理解できていないように、目を真ん丸と開けていた。
その目を中心にしたように、男の頭がクルクルと回る。
シュヴァルトに首を斬り離されていたからだ。
「まったく、失礼な。私は、マスターの所有物というだけですよ」
「……こんなことを言うダークエルフっているのね」
ブンブンと剣を振るう褐色肌のダークエルフメイド。
貴族の妻であろうエルフ。
そして、穏やかに微笑む貴族の男。
奴隷商人の言う、化け物たちがここに勢揃いしていた。
貴族の男……マスターの力について彼は理解していないが、これほどの力を持つ二人の女をものにしているのだ。只者であるはずがない。
「ひっ、ひぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
奴隷商人の男は、最早半狂乱に陥りながら馬に鞭を入れる。
これまでにないほど強く叩かれた馬は、激しくいななきながら動き出す。
「(この馬で、三人諸共ひき殺してくれる!!)」
奴隷商人の頭には、すでにエルフ種であるシュヴァルトとルーフィギアを捕らえようなどという気持ちは存在しなかった。
ただ、この恐怖から逃れたい。
そのために、馬で無残にひき殺すという手段も躊躇なく選ぶことができた。
しかし、そううまく事が運ぶはずもない。
どれだけ鞭を叩こうとも、馬は悲鳴を上げるだけで、一向に三人目がけて進もうとはしなかった。
「何をしている!?そら、動け!走れ!駆けろ!!」
しかし、馬車はビクともしない。
その異変を感じて辺りを見回すと……。
「な、なんだ、これは!?」
奴隷商人はギョッと目を見開く。
硬い地面であったはずの場所が、どろどろの沼地のように変化していたのだ。
馬は懸命に地面を蹴ろうとしているが、ぬかるんだ地に足をとられてまったく前に進むことができていない。
もちろん、こんな地面ではなかった。
となると、これをしたのは……。
奴隷商人の考えが正しいことを認めるように、マスターが穏やかに微笑んでいた。
「くそっ、くそ……っ!!」
奴隷商人はそれでもあきらめない。
転がるように降りて、慌てて逃げ出そうとする。
すでに、商品のことは捨てることを決めていた。
確かに、惜しくて仕方ないが、自分の命とはさすがに比べられない。
その思いから走り出そうとするが……。
「うひぃぃっ!?」
彼の眼前に矢が刺さり、彼の脚を強制的に止める。
不様に地面にへたり込む奴隷商人のことを、二人のエルフが見下ろす。
「……まあ、このブタの処分はあなたに任せますよ、ルーフィギア」
「ええ、任せて」
シュヴァルトは奴隷商人のことをルーフィギアに一任し、依頼対象であるエルフの子供たちが無事かどうかを確認に行く。
固く閉じられていた扉を強引に切り開け、中の様子を確認する。
中には、震えながらも生きているエルフの子供たちがいた。
依頼対象が無事であることを確認したシュヴァルトは、これでやっとルーフィギアと縁が切れると内心で喜ぶ。
エルフの子供たちは基本的にはどうでもいいが、依頼の内容上保護してやろう。
「あなたたちを助けに来ました。もう、大丈夫ですよ」
リッターと同じく愛想笑いなんてできないシュヴァルトは、目いっぱい優しい声でそう言った。
しかし、彼女は気づけなかった。
子供たちにとって、たとえいくら優しい言葉をかけられようとも、初対面の女が手に血まみれの剣を持って無表情でにじり寄ってきたら、とてつもなく怖いということに。
『ぴゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!』
「な、なんですか……!?」
子供たちが一斉に泣き出してしまうのも、不思議ではなかった。
何がいけないのか、まったくわからないシュヴァルトは激しく困惑し、まだ敵が残っているのだろうかと視線をめぐらせる。
「ま、マスター……」
何事かと様子を見に来たマスターを見つけ、すがるような目を向けるシュヴァルト。
助けてくださいとは口が裂けても言えないが、目が明らかに訴えかけていた。
この状況を一瞬で把握したマスターは、苦笑して子供たちの元へと行く。
子供たちの目線に合うようにしゃがみ込み、ニコニコと穏やかに微笑みかけながら頭を撫でる。
すると、次第に子供たちの泣き声は収まっていき、ついには全員を泣き止ますことに成功するのであった。
「…………」
流石はマスターと忠誠度を高めると同時、どうにも納得がいかずに顔をしかめるシュヴァルトであった。
◆
「ま、待ってくれ!待ってください!私は、私はこんな所で死にたくありません……っ!!」
奴隷商人は地面に頭をこすり付け、ルーフィギアに懇願していた。
相手の見た目が自分よりも若いものであったとしても――――エルフ種だから歳はかなり上だが――――男はひたすらに謝り続ける。
プライドより命。どれほど汚いことをしてでも、生き残りたかった。
「あの子たちを攫って、どこぞの薄汚い人間どもに売り飛ばそうとしていたくせに、命は助けてほしい?そんな都合のいいこと、許してもらえると思っているのかしら?」
しかし、奴隷商人の判断は誤っていた。
無表情に護衛を殺しまわったシュヴァルトならともかく、ルーフィギアになら頼めばどうにかなると思ったのだろうか?
逆である。今回のこと、シュヴァルトは別にどうとも思っていない。
もし、エルフの子供たちが死体で発見されていたとしても、彼女は何とも思わなかっただろう。
だが、ルーフィギアは違う。
エルフの子供たちのことを心から大切に思っている。
そんな彼女が、攫って奴隷にまで貶めようとしている男のことを、許すはずもない。
彼女の手に魔力が集まる。
「死になさい、人間。深緑の森のエルフに手を出したこと、地獄で後悔するがいいわ」
「あ、ぁ、ぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
その後、魔法が発動して一つの命が失われたのであった。




