14 聡実
ぼさぼさ頭によれよれの服。田村は何一つ変わってはいない。否、少し痩せただろうか。一瞬でそこまで観察して、我に返ったと同時に田村も身を翻し、人ごみの中に消えて行く。
もしかしなくても、
(今の……見られたよな)
仲良く手を振って別れた男女。少しだけおしゃれをしている私の服装。
誤解された?
かっと頭が熱くなる。
ほとんど無意識に私は走り出し、田村を追った。
駅の構内を出たときには、田村の姿はもう見えなくなっていた。もう直感で、かつて通い慣れた建物に駆け込む。
「失礼します!」
大声に、その場の全員がこちらを振り向く。その中に田村はいない。
今さらながら息があがって、とぎれとぎれに訊ねる。
「田村……見ませんでしたか」
「青木さん、どうしたの」
高村先生が気を取り直して私に話しかけてくるが、正直私には冷静に会話をしている余裕はない。
「田村見ませんでしたか?」
「田村くん? さあ……」
高村先生がそんなあいまいな返事をするなんておかしい。私は無礼にも先生を押しのけるようにして教室内に入り、まっすぐ突っ切って奥の扉を開いた。
「田村!」
びくりと身を竦ませた人影、情けない表情をした田村東二は、おそるおそる私を見上げた。
田村はソファに座っていて、図書室に入り戸を閉めた私を怯えた目で見ている。
「青木。久しぶりだな……」
私はそんなうわべのあいさつに取り合うことはなく、硬い声で問いつめる。
「なんで逃げたの?」
一瞬田村は固まったものの、すぐに返事をした。
「別に、逃げてない。馴れ馴れしげに話しかけたら、お前の『友だち』に誤解されるかと思って」
友だち、の発音がいやにわざとらしい。冷たく問うと、田村は再びぐっと言葉に詰まった。
「どういう誤解」
「いや……」
「どういう誤解?」
「……いや、俺が悪かったよ」
やはりびくびくと、田村は見当違いの謝罪をする。私はいっそう苛々して、さらにきつい口調になってしまった。
「勝手に話を終わらせないで。田村はどう思って、私を見ても無視してここに逃げ込んだの」
少し視線をさまよわせたあと、軽く息をついて、田村は思いのほか冷静な眼差しで話し出した。
「別に逃げ込んだわけじゃない。俺はもともとここに用があって、ついでに駅に買い物に寄ったら、通りすがりに青木を見つけた。それだけだよ。あいさつをしなかったのは悪かった。なんか親しげに話してたから、邪魔しちゃ悪いかなと思っただけだ。深い意味はない」
その整然とした台詞が、私は気に入らない。
「何の用」
「別に、何の用だっていいだろ。俺だって、お前の相手のことなんか、聞かないからさ」
それでいいだろ、と締めくくろうとする。お互い関わらずに過ごそうってこと?
ここでいよいよ、私の堪忍袋の緒は限界を迎えた。かっとなって叫ぶ。
「聞いてよ!」
田村の横に腰掛けて、その手を握った。痛いくらいに握りしめた。
「あの男は誰なんだって、追及してよ! 傷ついてよ! 私、田村があんまり頑張ってくれないから、私と一緒に大学通ってくれないから、それで浮気したんだよ! でも勝手に罪悪感感じて、振ってきたんだよ! なのに、なのに田村がなんにも思ってくれなかったら、私……」
間違いだったんだろうか。
私が田村だけを想い続けて、吉崎くんを振ったのは間違いだったんだろうか。この『浮気』には何の意味もなくて、田村は嫉妬も何もしてくれなくて……。
沈黙に耐えかねて、私はそっと田村を見上げた。
田村は目をまんまるにして、口もぽかんと開いて、
有り体に言えば呆然としていた。
「た、田村?」
急にキレたように見えただろうか。引いてるの? おそるおそる声をかけると、彼はようやっと口を動かしてこう言った。
「…………お前、まだ俺と付き合ってるつもりだったの?」
とっさに田村の右頬をひっぱたいた私を責められるものは誰もいるまい。
「いや、わかってたよ? 田村が多分、もう私のことなんてどうでもいいと思ってたこと! もうとっくに恋人らしい関係なんてなかったこと! でもそんな言い方ないんじゃない?」
「待て待て。お前こそ、もう俺のことなんか愛想尽かしてただろ。いい加減、親父への義理と俺への同情だけで……」
「それだけで、あんな面倒見てない!」
義理だって、同情だって。私、そんなに親切な人間じゃない。
ああもう、涙が出てくる。滲んだ目元に気がついた田村はいっそう焦って言い募る。
「だから、俺だって、嫉妬するし、悔しいし、なんであんなことしたのか今じゃあんまりわかんないけど、俺だって聡実と一緒に大学に行きたかったし!」
今度は私がぽかんと田村の言葉を聞いている。彼はその様子には気がつかず、必死の形相でしゃべり続ける。
「でも俺が腑甲斐ないから聡実は俺を見捨てただろうし、大学生になったらいっそうあか抜けてるし、なんか知らない男と楽しそうにしてるし! もうすぐ追いつけるって思っても、焦るに決まってるだろ!」
そこまで言って、「もう何言ってんのかわかんねえし……」と頭を抱えた。
私は何から手を付けて良いのか、頭の中は今の言葉を整理しきれずにぼんやりと反芻している。
聡実って言った。何年ぶりだろう。悔しい? 一緒に大学に行きたかった? あとなんて言った? ……嫉妬した?
「嫉妬したの?」
訊ねると、田村は一瞬止まって、頭を抱えたまま「うん」と言った。
「でも、田村、全然連絡してくれなかった。彼氏だなんて素振り見せなかったし」
「だって、現役で落ちたときからもう幻滅しただろうなと思ってたし、去年のセンター試験でとうとう無理だと思ってた」
「じゃあ、言ってよ、なんで、何も言わずに」
「だから!」
田村は私の言を強めに遮ったが、自分の勢いに怖じ気づいたようだった。続く言葉は小声だが、私を驚かせるのに十分だった。
「…………だ、だからその、合格したら、……俺から告ろうかと……」
「え?」
田村はいまだ彼の手を握りつぶさんとしていた私の両手をそっと外して、傍らの紙袋から、一枚の紙を取り出した。
『田村東二の入学を許可する』
田村の第一志望の大学の、入学許可証。それは取りも直さず、私が現在通う大学に、田村が入学を許可されたということで……つまり、……合格した?
私は二の句が継げずに、しばらくぱくぱくと口を開閉させた。
こんなの見たことない。こんな鮮やかな逆転劇。こんなもの見せられたら、
惚れ直すに決まっている。
「二浪してから、ちゃんとここに通ってた。青木が来たときは、急いでこの部屋に隠れて……情けない姿、見られたくなかったし。今日ここに来たのは、合格報告をするつもりだったんだ。青木が走ってくるから、慌てて逃げ込んじまったけどさ」
やっぱり逃げていたんじゃないか。そして呼び方がまた『青木』に戻っている。
でもいい。そんなことはどうでもいい。それよりも。
「じゃあ、言ってよ」
ぽつりとこぼすと、彼は、ん、と私の顔を覗き込んだ。
「何を」
「告ってくれるんでしょ。言ってよ、ねえ、東二」
ついでに、もう一度東二の手を握り直した。今度は優しく、包み込むみたいにして。彼はその手を一瞬見下ろして、そのあと視線を右にずらして、そのまま動かさなかった。目が合わないままじっと見つめると、ようやっと彼の口は開く。
「あ、ああー、うん。あのな……」
そのあと、もごもごと言うばかりで、全く要領を得る様子はない。
「はっきり言え!」
その声でばっと顔を上げ、大音量で、東二は叫ぶ。
「聡実! 愛してる!!」
私の目はきっと思わぬ言葉に丸くなっていただろう。「好きだ」くらいの言葉を求めていたのが、一足飛びに愛を告げられたのだ。
瞬く間に顔に熱が上る。どころか、全身が熱い。きっと彼からはわかりやすく赤面して見えるだろう。しかし表情だけはなんとか取り繕って、せいぜい不敵に笑ってみせた。
「よろしい」
私の方が一つ年下なのに、学年は一つ上になってしまった。でもまあ、悪くはない。訳知り顔で大学の案内をするのもいいだろうし、先輩面してあれこれ言いつけるのも面白そうだ。
さあ、楽しいキャンパスライフが私たちを待っている。
ちなみにこの部屋は少し大きい声なら筒抜けで、部屋を出ると苦笑する高村先生と睨みつけてくる浪人生に出会い、お互い赤面しながらそそくさと帰宅したのは余談だ。