13 聡実
帰宅すると、「おつかれさま」と妹が出迎えてくれた。
私の固い表情をどう捉えたか、試験の内容には触れず風呂の用意ができていることだけを告げた。
ひどくみじめな気持ちになっていた。のろのろと体を流してから湯船に浸かる。
無表情で椅子に座ったまま動かなかった田村の姿を思い出す。
どうしてこれまで頑張ってきたものをあっというまに捨ててしまえるんだろう。ただ時間通りに家を出て試験を受けるだけのこと、昨年は彼だってできていたことだ。これをすっぽかしたことでもう彼の一年は無になってしまったのだ。父親に迷惑をかけたくないのではなかったのか。大学でやりたいことがあるのではなかったのか。
「もう、いい」
誰にともなく呟く。
もういい。がっかりだ。もう知らない。
……って思うのに、なんで泣いちゃうんだろう。湯船の中に涙が落ちていく。ばしゃんとお湯で顔を叩いて、その温かさにさらに泣けた。
そのあと、一度も田村には会わなかった。隣家におかずを持っていくように言われることは相変わらずあったが、直接届けたくはなくて、ポストの中に置いておいた。自分で食べてしまおうと思ったけれどちゃんと渡したか聞く母親に平気で嘘をつけるほど私の胆力は強くない。次にポストを開けるときには前回のタッパが洗われて入っていた。
センター試験後、私は毎日朝から高村塾に通ったが、田村はそこにも現れなかった。高村先生に聞くことはしなかったし先生が私に何かを訊ねることもなかった。田村は塾の中でもいない存在みたいになっていた。それが悲しいような気もしたし、あんなやつにはそれでいいとも思った、とにかく自分がどうしたいのか、全く分からなかった。とにかく、目の前の問題を解いて、受験に集中しようとした。
そして私は大学の試験を受け、無事第一志望に合格した。
田村が昨年受けた大学、今年も受けるはずだった大学。
……いや、忘れよう。
気づけば自宅に入る前、隣家の二階を見上げる癖がついていた。通りに面した田村の部屋の窓は、いつもカーテンが引かれたままだ。
大学の入学式を翌日に控えた夜だった。
携帯電話が光っているのに気がついて、何気なく開く。メールの着信だった。
田村から。
入学おめでとう。
なんで、と思った。
なんで私の合格を知ってるの。
なんで今さらそんなメールを送ってくるの。
春になっても田村の家に父親は戻っていないようだった。
念願の大学生。
正直なところ、大学はあまり楽しくはない。難関大だというのに、あるいはだからなのか、一度合格すれば学生たちは浮かれきっていて、コンパにサークルにと遊び回っている。私は勉強がしたくて大学に入ったというのに。
かといって、じゃあ何が勉強したいのかと聞かれても、答えられなかった。それを大学で探したかったのに、大学で真面目に学ぶ人はそれを既に決めているようなのだ。
真面目にもなりきれないし、割り切って遊ぶこともできない。中途半端な大学生活はなんとなく苦しくて、それでやっぱり、忘れようとしていた彼の不在が、心中に浮かび上がってくる。
田村。
なんで、一緒の大学をちゃんと受けてくれなかったの。
私と同じ大学、行きたくなかったの。
やっぱり、私のこと、好きじゃないの。
田村と同じようにはなりたくなくて、意地でも毎日大学に通った。一日だってさぼらなかった。目的がなくたって毎日通っていれば教授の覚えも良くて、実力を伴わないまま私は大学で優等生みたいになっていた。
気がつけばもう大学一年の正月を迎えようとしていて、一年近く田村の顔すら見ていなかった。
私の学科では、一年の十月にゼミ選択を行って、希望人数によっては抽選や試験を受ける必要がある。そして十二月ごろにはゼミが正式に決まって、ちゃんと席が与えられるのは二年生からだけど、一年のうちから顔を出して、いろいろ学ぶのが通例となっていた。
私は第一希望のゼミに無事入ることができた。単純に教授の研究に興味があったからなのだけど、学生にはあまり人気のないところだったようで、抽選などもなしにあっさりと決定した。私と同じゼミに入ったのは、真面目そうな男の子数人におとなしそうな女の子が二人。それと、なんだか軽い感じの男の子と、その友人らしいぼんやりした男の子が目についた。工学系だからか、女の子の方が少ないようだ。
私はそのぼんやりした男の子、吉崎くんと少し仲良くなった。どうやら、軽い男の子(林くんと言った)に誘われてこのゼミを選択したものの、林くんはあまり真面目な学生ではないらしく、大学に出てこない。一人でやっぱりぼんやりしているところに、私が話しかけて、話すことが多くなった。
ぼんやりしている様子が、なんとなく田村を思い出させたからだ、というのは、吉崎くんには言えない。
多分、吉崎くんは私のこと悪しからず思ってくれていると思う。私はと言えば、もちろん吉崎くんのことは嫌いじゃないけれど、やっぱり田村のことが忘れられない。
でも、吉崎くんはぼんやりしていても、田村より真面目だ。ちゃんと大学に来るし。きっと一緒にキャンパスライフを送りたいなら、吉崎くんを選んだ方が確実である。
……彼氏って、別に、キャンパスライフを送るための道具じゃないけど。
年始に、ゼミの同期と一緒に初詣に行った。そういえば去年は行かなかった。一番大事な願い事をしたい年だったのに。夏祭りにお参りしたし、あれで良かったのかな。
何を願おう。別に神様にお願いごとしなくちゃいけないなんて決まってないけど。でもせっかくだし、田村のことでも……。
(やめたやめた)
あんなやつ。
吉崎くんがこちらを眺めているのが目の端に映る。うーん、彼とのことは、どうしたらいいんだろう。いっそ自意識過剰で、彼が私のことを何とも思ってなかったらそれはそれでほっとするんだけど。
もうすぐセンター試験だ。田村は今年は受けるんだろうか……。
やっぱり田村のことを考えながら、このあと飲みに行くという仲間と別れて帰宅した。吉崎くんは私を引き止めてくれたけど、断った。
春が来た。私は二年生になる。ここまであっという間だった。研究したいことも見つからない。ゼミの教授は人間工学系のことをしているから、私もそういう研究分野にはなるんだろうけれど。
田村はどうしているんだろう。大学に入学してからも、高村塾には何度か顔を出した。塾に行くと、まず周囲を見渡すのが習慣になっていて、高村先生は毎度苦笑していたけれど、いつ行っても田村は見つけられなかった。それでも頑に会話には出さない。
別に、田村が嫌いになったわけじゃない。憎いわけでもない。……思い出したくないというのは、あるかもしれないが。田村のことを考えると、今でも私は心を落ち着かせていられないのだ。
入試のための立ち入り禁止期間が明けてすぐ、ゼミの研究室の片付けをするからと先輩に呼び出された。二人が帰省中なのをのぞくと一年生は全員集まり、でも何をすればいいのかわからないから、主に先輩の指示でゴミを捨てに行ったり、資料を運んだりした。
昼を少し過ぎた頃に片付けは終わった。思っていたより早くて、なんとなく時間を持て余す。ゼミの新しい机は、まだ居心地が良くなかった。
「青木ちゃん。昼飯食べに行かない」
吉崎くんに誘われて、二人で歩いた。この一年で、もう何度も通った学食だ。大学に入って、料理をすることはほとんどなくなった。まだ母に、田村家へおかずを差し入れるように言われることはあるが、忙しさを口実に妹に押し付けるようになっていた。今のところ妹は素直に押し付けられてくれているが、まさか、その縁で妹と田村が……なんて、そんなわけないよな。自分で作り上げたあり得ない想像に、胸がざわざわした。
「青木ちゃん、聞いてる?」
「はい! 行きます!」
「本当?」
はっと顔を上げると、吉崎くんが嬉しそうな顔をしていた。さっき、彼は何と言ったのだったか。
「じゃあ、来週の土曜とかどう?」
「う? 来週……?」
「あ、都合悪い? 空いてるときでいいよ」
そんなふうに言われては、今さら断れない。わざとらしく予定を確認する素振りを見せてから、来週で良いと頷いた。
吉崎くんとうっかり約束してしまった土曜日の前日には、大学の合格発表があった。努めて田村のことを考えないようにしていたのだが、春になるとどうにもだめだ。受験関係のことが、どうしても耳に入ってしまうから。
田村、今何をしているんだろう。
私はあそこで彼を見捨てるべきではなかったのだろうか。もう一度、頑張ろうよと、来年があると、励ますべきだったのだろうか。でもそれこそ、私は田村のおかんのようになってしまうのではないだろうか。恋人として、突き放す必要があったのではないか。
……その恋人が、別の男と二人で会う約束をして、いいのだろうか……。
しかしその日はやってきて、私はそれでも一応少しは身ぎれいにしてきて、映画館の前で待っている。
「ごめん、待たせたね」
「いや、バスが早く着いちゃって」
こういう会話を、田村としたかったのに、私は!
いい加減田村のことばかり考えている自分が嫌になる。
……いいんだ、ふがいない田村には少しくらい痛い目を見せてやる。
浮気だ!
見た映画は面白かったし、そのあとの食事もおいしかったし、非常に楽しい一日のはずなのだが、あまり気は晴れない。
堂々と浮気をしてやると心中息巻いたものの、罪悪感がものすごくて、素直に楽しめないのだ。吉崎くんにもそれは気取られて、『具合悪い?』だの、『どっかで休む?』だの、いろいろ気を使わせてしまった。
私の最寄りの駅まで用があるというので、一緒に帰ってきた。というのは口実で、きっと送ってくれたのだろう。別れ際、向かい合って今日の失礼を詫びた。
「今日、ごめんね、なんか」
「気にしないで。調子悪かったの? 無理しなくて良かったんだよ」
「ううん、楽しかった」
そういうと、ほっとした顔をする。やっぱり、自意識過剰じゃないんだろうな。もし次に吉崎くんが口を開くなら、私の望んでいない言葉が出てくるだろう。
「こんなときに悪いんだけどさ」
やっぱり。
「うん?」
「俺、青木ちゃんのこと好きなんだけど」
「うん」
勢いですぐに頷いてしまって、それからどうしようと黙った。吉崎くんはもちろん私の返事を待っているだろう。
「うん……あの……」
「あ、いいよ、今すぐじゃなくても」
「ううん、今すぐ言う」
吉崎くんはいいやつだ。話もそれなりに合うし、顔も悪くないし、真面目だし。
でも吉崎くんは田村じゃない。
「ごめんね。私、好きな人がいるんだ」
彼氏がいるんだとはさすがに言えなかった。二股みたいだし、多分そろそろ、もう田村とは恋人同士じゃないことを認めるべきなんだろう。
「俺じゃなくて……って、当たり前か」
「ごめん……」
「はー、俺、ばかかな。これから同じゼミで顔合わせるのに、青木ちゃん気まずいよね、ごめん。できるなら、これからも友人関係は続けてほしいけど」
「それは、もちろん」
むしろ気まずいのは吉崎くんの方だろう。彼がそれでいいのなら、私としてもぜひ仲良くしたいところだ、友人として。
「そっか、良かった」
本当にいいやつだよな、吉崎くん。いい人どまりって、こういう人のことを言うんだろうか。笑って手を振る彼に、私も笑い返して、改札をくぐる彼を見送った。
そして振り返って、こちらを見つめている田村と目が合った。




