12 東二
模試の判定がAだった。嬉しくないはずがない。安心しないわけがない。
このまま積み上げていけば大丈夫だという安心感と、けれどともすれば崩れ落ちてしまいそうな妙な恐怖感があった。さしずめ、カーブを曲がりきれずに、崖下に落ちてしまいそうな、落ちる想像をしてしまったときのような、そんな感じだ。高速道路を走る車に乗っているときに、今この扉を開けて外に転がり出したらどうなるんだろうと考えるのと同じだ。
なんだろう、俺、破滅願望でもあるのかな。
入試が迫っていて不安定になっているのだろうと自己分析して、気にしないことにした。
青木が一緒に行こうと言うかと思ったけれど、言ってこなかった。断ろうと思っていたから別にいいのだけど、なんとなく拍子抜けだ。最初の頃こそ、俺の生活にずけずけと入り込み、何かと口出ししてきた彼女だが、今では少し遠慮がちに、こちらを伺いながら話してくる。俺がいちいち身構えているのが原因だろうとは思うのだけど、たいてい言われることは嬉しくないことだから仕方がない。けれどもなんとなく寂しいような、申し訳ないような気がするのもまた、仕方がないことのように思えた。いや、申し訳なさはいつでも感じているんだけど。
途中からだったけれど、やれることはやった。前日の今日は早く寝て、明日に備えるべきだ。近頃は俺の精神の電池もよく保っていて、気力をなくしたりなんかしない。当然だ、今そんなことをしている場合じゃない。
荷物の整理をして、いつもよりも二時間早く床に着いた。
明日はいつもの時間に起きて、駅から電車に乗る。駅までは歩いて十分で着くけれど、余裕を持って二十分前には家を出よう。会場には十五分前に着くバスがあるけれど、その一本前に乗ろう。そのバスに間に合う電車より、一本早い電車に乗ろう。多分、青木も同じような予定を立てているはずだ。鉢会うだろうか。どちらでもいいけど。
毎朝の習慣のおかげで、目覚ましよりも早く起きた。目覚めはすっきりとしていて、頭も冴えているように感じる。
顔を洗って着替えてから、タイマーで炊けた米を弁当箱に詰め、おかずを作る。いつの間にか二人分作っていて苦笑してしまった。作りすぎたおかずは朝食にすることにする。少し時間に余裕があったから、軽く居間に掃除機をかけて、そのあと持ち物の再確認をした。必要そうな参考書は入れたし、受験票は特に確認した。確認したあとしっかりとしまい込み、携帯電話を見た。
父親からメールが入っていた。しっかりセンター試験の日程は覚えていたらしい。簡単に返事をして、一息ついた。
立ち上がって、あらためて深呼吸をする。
今日からだ。
『頑張ろうね』
と微笑んだ青木の顔が浮かんだ。
自室に戻り、上着を着て、腕時計をした。
部屋を出る前に、自室の時計と腕時計の時刻があっていることを確認しようとして、
その時刻が出発予定の三分過ぎているのを見た。
……俺は椅子に座った。時計を見ながら、時間が過ぎていくのを眺めた。
持ったままの鞄を置いた。時計は、俺が乗るべきだった電車の時刻を指した。そして、電車が着くはずの時刻を、着いた駅から乗るべきだったバスの時刻を……そして、試験開始の時刻を。そこまで確認して、俺は上着と靴下を脱いだ。携帯電話の電源も切った。
「……なにしてるの」
彼女が現れたとき、俺は朝とほとんど変わらない姿勢で机にかけていた。
「なにしてるのって聞いたんだよ」
まだ黙っている俺に、彼女の声はいらだちを増していく。
「センター試験今日だったんだよ。もう、終わったんだよ。分かってる?」
「……関係ないじゃん。どうせ俺受けてもさ。数ヶ月詰め込んだところでろくな点とれないし」
今度は彼女の方が黙った。俺はその沈黙に耐えられなくて、言う必要のないことを、言ってはいけないことをべらべらとしゃべり続ける。
「お前の面倒見の良さはよくわかったよ。うちの親父とかに頼まれてるってのもあるだろうけど、こんなことまで気にかけなくっていいって。ダメになるの俺だけだろ。お前だって俺に付き合ってたらダメになるって。いい加減愛想も尽きたろ? もういいからさ、こうして見に来てくれなくても」
がしゃん、と音がした。正確にはばしゃん、だったかもしれない。びくりと彼女を見遣ると、足元にかばんと、そこから飛び出した筆記具や参考書が散らばっていた。
何か言いたげに大きく息を吸って、俺は彼女が怒りに任せて怒鳴るのかと思った。しかしその息を一瞬止め、それから長く長く吐いた。
「……もういい」
それだけ呟くと、しゃがみ込んで荷物をかき集め、そのまま踵を返して部屋を去った。
なんでこんなことをしたのか、俺自身分からない。けれど予定と少しずれてしまったことで、急に力が抜けた。余裕を持った時間設定だったし、いざとなればタクシーでもなんでも使えば間に合ったのに。
『数ヶ月詰め込んだところでろくな点数はとれない』
それも確かに俺の本音ではあった。模試でいい点が取れても、その考えは俺の中にいつでも燻っていた。
本気で頑張った、つもりだ。去年以上に。でも本気であればあるだけ、これが無に帰してしまうことが怖くなった。
これだけ頑張ってもだめな俺を、きっと青木はとうとう見捨てるだろう。父親だって、失望するに違いない。否、それならまだましで、自分が息子を構わなかったせいでと自分を責めるかもしれない。
そんな周囲の反応を想像して、俺は負けたくなくなった。
負けないために、戦うことをやめた。
つまり俺は、逃げたんだ。
遠くで玄関の閉まる音がした。青木は出て行ってしまった。
扉は閉められ、俺は再び一人引きこもる。
それでいいんだ。早く失望してくれ。
失望されることなんてわかってるんだから、最初から期待なんてしないでくれ。
日が暮れるにつれ部屋は暗くなっていったが、電気は点けなかった。そのまま布団に入って眠った。
負け犬田村