第1話 出会いは雨のバス停で
激しい雨だった。
世界が豪雨によって塗り潰され、自分が立っている古びたバス停だけが、白い世界の中心にぽつりと取り残されているように思えた。
一歩でも屋根の外へ踏み出せば、そのまま濃い霧と水飛沫の向こうへ消えてしまうのではないか。
そう錯覚するほどだった。
ルナはなぜ自分がここにいるのか、わからなかった。
気がつけば、いつもの白いスーツ姿のまま、ただこの狭い雨宿りの場所に佇んでいた。
バスを待っているわけでも、どこかへ行く当てがあるわけでもない。
記憶の糸がその場所の手前でぷつりと途切れている。
そして、その奇妙な空白の中に、もう一人の影がいた。
自分の肩ほどしかない、小柄な少年。
暗い赤紫色の髪を外へ跳ねさせ、黒いスーツ姿で立っている。
大きく見開いた目が、ひときわ印象的だった。
お互いの存在にはとっくに気付いている。
しかし、声を掛け合う必要はこれっぽっちも感じていない。
もしこれが、街角でよくあるただの雨宿りならばの話だが。
降り注いでいるのは、人体を容易く液状へ変える酸の雨だ。
化学薬品の刺激臭が鼻を突いた。
それを知ってか知らずか、隣の少年は退屈そうだった。
どれくらい時が過ぎただろう。雨は一向に止む気配を見せない。
ルナの思考はどこかぼんやりとしていた。
なぜここにいるのかという疑問すらも、激しい雨音の彼方へ押し流されていく。
長い沈黙の末、隣の影が動いた。
「こんにちは、雨がしとしと降っていましね」
「こんにちは、いましね」
ルナも相手の言い方にそのまま合わせた。
「思うに」
「はい」
「僕たちはなにか悪いものに捕らわれているらしい。降っているのはそいつの胃液か、怨念の涙か、よくわからん体液か」
ルナはスルーすべきかちょっと迷った。
「なんにせよ、危険な状態だと認識してほしい」
ルナがあまり動揺していないことに気付かない風で、少年はさらに言葉を続ける。
「で、まあ、見捨てるのはさすがに心が痛むので、助かりたいなら僕と一緒にくるといいよ」
少年は手をルナの前へ差し出した。
「名乗ったほうがいい? 僕は謎の少年A、よろしく」
「ルナです。提案ありがとう」
ルナはあっさりとその手を握り返した。
少年は上着を脱ぐと高く持ち上げ、豪快に振り回す。
どんな力が働いているのか、途端に一帯から雨が遠のいた。
「ふんふーんロウリュウー」
少年はそのまま、雨を弾きながら前へ歩き出そうとした。
頭上は彼の振るう上着によって完全に守られている。
しかし、足元にはまだ、人体を溶かす凶悪な酸が溜まったままだ。
「ふんふーん足ロウリュウー」
意味不明な歌を歌いながら、少年は勢いよく空を蹴った。
その風圧のような衝撃に押し出され、地面に溜まっていた雨もまた、周囲へ勢いよく飛び散った。
二人はそうして、頭上と足元の雨の危機を強引に回避しながら、白く煙る世界の中を進んでいった。
しかし、行けども行けども、周囲の景色は一向に変わらない。
元のバス停から遠ざかっているのか、それとも同じ場所をぐるぐる回っているだけなのかすら判別がつかなかった。
「どっちへ行きたいとかある?」
「そうだな……こっちかな?」
どこまでも続く雨の中で、ルナは迷いなく一方の虚空を指し示した。
「その心は?」
「なんとなくかな」
少年も特に口を出さず、ルナに先導させる形で進む。
しばらく歩くと、雨に煙る視界の向こうに、地下鉄へ続く階段がぽつりと見えてきた。
地下への階段は――
拍子抜けするほど普通だった。
営業前らしい地下街。
だが、駅名も店名も読めない。
書かれているのは文字ではない。
意味を持たない記号だった。
地下街には、同じ店ばかりが延々と続いていた。
コピーアンドペーストしたような景色だった。
少年は試しにそのうちの一軒へ歩み寄り、扉に手を掛けた。
特に力を入れている感じは微塵もなかった。
それなのに、鍵のかかった頑丈な扉がバキバキと豪快な音を立てて破壊されていく。
「こういう、裏側へ手を回してこそ本物のエンターテイナー」
少年はそう言い放つと、壊れた扉の先を覗き込んだ。
看板の色合いや店の外観から、そこはよくある居酒屋に思われた。
だが、暴かれた店内には、ただ底の知れない暗黒が広がっている。
照明の光すら吸い込まれるような純粋な闇だけが詰まった空間を前にして、少年はルナへ振り返った。
「ここはハズレらしい。また、そちら様の勘に頼っていい?」
しばらく歩いた後、ルナは気になる店を見つけた。
「そこかな?」
「そういう勘ってなんかあるの? オーラが見えるとかピキーンとくるとか」
ルナは少し困ったように笑うと、
「私じゃないんだ。多分、この子が導いてくれてる」
頭部に張り付いている白い人形を指差す。
「うん、それすごい気になってた。でも、突っ込んだら悪いかなって。そういう人かなって思ってた」
丸い頭部に、簡素な胴体と指のない手足がついた二頭身半ほどの白い人形だった。
縫い目はどこにも見当たらない。
「ニクシーって言うんだ。覚えてくれると嬉しいな」
「うん、覚えた。で、とりあえずここね」
少年はルナが指差した店の扉へ、迷わず手を掛けた。
どうやらガチャガチャ専門店らしい。




