贖罪③
ここで逃げ出さなかったのは、大人になったからなのか。
それとも、あまりに聞きたくなかった会話が、
体に痛みを呼び起こしたせいで、動けなかったのか。
拓海は、二人に背を向けたまま、ただじっと会話を聞いていた。
「いたっ。タカ、触んないで。今日は…ムリだって…」
「両手を出してもいい、頼むから…いいだろ? みこぉお」
「…そういうんじゃないの。はぁ……ちゃんと聞いて、ね?」
美琴は誰に聞かせているのか。
彼女が“お金で体を売っている”──
そんな事実を、こんなにも軽く目の前で俺は聞かされていく。
それを当然のように受け入れ、彼女に手を伸ばすこの男は、
俺なんか最初からいないみたいに、彼女だけを見つめていた。
美琴って……それだけ魅力的なんだ。
「アイツか?」
タカがようやく、俺の存在に気づいた。
ただそれだけで、全身が震え、心が、音を立てて折れていく。
「は? 違うわよ。あいつが公園で寝そうだったから、注意しに来ただけ」
「寝かせてやればよかったんじゃねえの?」「……はあ?」
「お前が気にする事でも無いだろ?」
「そんな事があったら、色々と面倒なのよ。
あと、あいつらが当分うろつくのよ。それでタカは本当に、大丈夫?」
「ハァ。そうだな。お前ってさ、冷たそうに見えて、本当は優しいよな。
そんなことしていたら、またストーカーに付きまとわれて襲われるぞ?」
「ああ、その時って本当にお世話になったわね。ありがとう。タカ」
とても嬉しそうに笑う美琴を見て、タカの顔が真っ赤に染まっていく。
「……俺、お前のこと、ずっと好きだから。気にすんな。
あのときの恩、まだ覚えてるなら──今すぐに結婚してくれ」
俺が彼女に言えなかった言葉を、この男はあっさりと口にする。
「アハハ、冗談?本当にうまいじゃない。で、それって何人目?」
「本気だぞ」
「本気なら、今度はパパの前で言ってみなさいよ。なら、考えてあげるわ」
「ああ…もうちょっとしたら…そう、もう少しで……って、違う!」
タカが目線を外したときに、美琴が自分の服に手を掛ける。
──ズル…
背を向けていた俺にも、わかった。
「おい…みこ…」
慌てたタカの声と同時に、彼女の香水の匂いが濃くなり、
二人の雰囲気が一気に変わる。
見ていない俺も、美琴がなにをしたのか、
ソレを見たタカが、どう思ったのかまで気付いた。
──ズル…
驚くように震える俺を見ながら、美琴は服を戻していた。
「ねぇ、わかった? いい?」
何処か冷たい声で、美琴が「何も言うな」と射るような視線を、
タカの先にいる、背を向けた俺に向け続けている。
「……ひでえな。医者、行ったか? …で、何があった?」
俺は、今すぐ泣いて謝りたかった。
誰が見ているか解らない場所で、
傷ついた姿を見せる羽目になった美琴に。
俺のせいで。俺が、あんなふうにさせた。
──ごめん、ごめん、美琴。ごめん、ごめん、ごめん。
すべてを謝りたかった。全てを終わりにしたかった。
お互いの中をすべて消して、自分の存在自体を世界から消したかった。
しかし、そんな事をしたら、
彼女が深い傷を追ってしまうと気づけるほどには、大人になっていた。
既に大人のタカは怒っているようだったが、
その声は妙に優しく、まるで、いたわるような顔で美琴を見ていた。
「大丈夫よ。田舎の犬にちょっと噛まれただけ。
タカは知らないと思うけど、虫とかも刺されると大きく腫れるのよ」
「……おい、お前。振り向いて、彼女の姿を見ていねぇよな。
もちろん、この話を誰かに言うつもりでもねぇよな…?」
「やめて、その辺で寝ようとしていた男よ…気にしないで!」
そのときの声と視線に、なにかが混じっていたらしく、
気づいたタカが、その視線の先にいる俺に向かって歩き出す。
「ちょ、ちょっと待って、タカ! 一般人を殴っちゃダメ、絶対にダメ!」
必死に手を掴んで止めようとする美琴。
けれど、タカは無言で、俺を睨みつけた。
「チッ……さっさと消えろ。ゴミクズが。目の前からキエロ」
戦う気なんて、最初からなかった。
俺は、都会でいつも通り、涙を浮かべながら彼の目を見返した。
そのとき──一方的に怯える俺を見て、タカが腕を振り上げる。
「わかったよ、タカ。この身体でよければ、相手をしてあげるから…」
「美琴?」「だから、ヤメテ!」「おい、本当はお前が何かしたな?」
何を犠牲にしても、必至に引き離そうとする美琴の態度を見て、
この男が美琴に何かをしたと、タカが気付いた。
「だから、やめて……お願い、やめてぇぇ……!」
「何だおめえ。そんな顔をして、俺になにか言いたいのか?」
「たかぁああっ、ダメ、ダメよ!やめて、本当にだめぇええ」
必死に泣きながら止める彼女を見ていたら、頭が真っ白になって。
パン…
気がついたときには──タカの頬を叩いていた。
「アハハハ、女に振られて八つ当たりか?
一般人だと、なんにも、できないもんなぁ。なぁ、チャンピオン?」
──この男が誰かなんて知らない。
彼女との関係も知らない。だけど、それでも。
美琴を困らせた。美琴を苦しめた。美琴を泣かせた。
原因は全部、俺なのに。
それなのに、俺はタカに八つ当たりをして誤魔化していた。
自分を罰する方法など、コレしかないと子供のように思い込んでいた。
贖罪③




