32 彼女の響き 空気
仕事から帰った時、秋比古はまだ帰ってはいなかった。
桐珂だけがいつも通り静かに椅子に座って待っていた。
「お帰りなさい」
空夜が室内に入ると、すぐに彼女が声をかけた。穏やかに小さな端末のキーボードを打っている。きっと、何かユーリ・エバに報告することがあるのだろう。
目の見えない彼女が頼りにするのはキーボードの音だ。ひとつひとつ微妙に変えてあるキーの音を聞き分けて、彼女は自分の打っているキーが正しいものであるかどうかを確認する。
彼女が立ち上がりかけたのを見て、空夜が言った。
「そのまま続けて。お茶は僕が入れるから」
彼女はにっこりとうなづくと、また腰を落ち着けてキーボードを打ちだした。
空夜は台所に入ると、秋比古の分も見込んで多めに湯を沸かした。
「秋比古は一度帰ってきたわ。夜中に」
桐珂が静かに言った。
「そう」
「彼、何か分かったようなことを言っていたけど」
「なに?」
「分からない。言っていかなかったの。それからすぐにもう一度出て行ってしまったから」
空夜は部屋に戻って、桐珂の膝に毛布をかけた。
彼女はそれに気付いてにっこりとした。
「桐珂、ちゃんと寝た?」
桐珂の顔をのぞき込んでその顔色を見ると、空夜は尋ねた。
彼女は笑顔を残したまま、困ったような顔をして、
「ちょっと仕事があったものだから」
「ちゃんと眠らなくちゃだめだよ。もし、僕たちも秋比古のようにここから出ていくことになったら、体力をつけなくちゃ」
「連れて行ってくれるの?」
「もちろん」
彼女はキーボードから手を離すと、空夜の手を求めてその手をさまよわせた。空夜はそれを認めて彼女の手を握った。




