03
「実は妻の眼鏡で、うっかり踏んでしまって。怒らせてしまったんで、帰るに帰れないんですよ」
「そうか。わかった。唯、彼と話すから少し奥に行ってなさい」
「はーい」
老人と二人。しんと静まり返った部屋の奥で、彼女が動く音だけが小さく聞こえる。
「嘘だろ」
「えっ」
老人の目が真っ直ぐに私の目を貫く。身体が固まって、何度も目が背後の機械たちにブレては、また老人の目へと戻る。
「今どきは、人のことにクビを突っ込むってのは変なのかもしれんがな。俺はそれがひとつの道理だと思ってる」
「……あまり、面白い話じゃないですよ」
「期待などしとらん」
腕を組んで目を瞑る老人に、私は観念して口を開いた。
「……妻の、遺品なんです」
冬の終わり、春に差し掛かった日のことだ。見知らぬ番号からの無機質なコール音がオフィスを切り裂いた。
「事故でした。信号無視した車に突き飛ばされて……」
棺の中で白い化粧をして眠る妻に、手のひらに収まる程の大きさに変わってしまった妻に何の感情も動かなかった。不思議なことに、涙のひとつも流れなかった。
私や妻の両親が泣いているのが、その時の私には酷く羨ましくて、そんなふうに考える自分を、今すぐその場で首を掻き切ってしまいたくて仕方がなかった。
彼女の踊るような声、キラリと光る茶色い髪と目。
仄かな香水の香りと暖かさを、ひとつ眠るたびに忘れてしまいそうで、鉄の冷たさしか残らない焼却場の記憶に押しつぶされてしまいそうになる。
無味無臭な記憶に目が覚めては、無理矢理布団を頭から被って、音楽をスマホから爆音で鳴らして目を瞑った。それがそのとき私に出来る最大限の抵抗だった。
「妻に初めてプレゼントしたのがこの眼鏡だったので、これだけでも直せたら……」
高校の頃、僅かばかりのバイト代で買ったそれを、妻はずっと大切にしてくれていた。
何度も買い替えようと話したのに、妻はこれが良いの一点張りで、結局最後まで新しい眼鏡を買うことは叶わなかった。
妻は、どんな顔をしていただろうか。今ではもう朧げな記憶となってしまった。
「そんな目をしてる訳だ」
「……目?」
「死のうとしてる目だ」
どくんと心臓が跳ねる。壁に立て掛けられた姿見に目を移す。くたびれたスーツ姿。目は胡乱として焦点が合っていない。
「いや、これは疲れてるだけで……」
言葉を続けようとするも、乾いた喉に言葉が詰まる。
「あの子も昔同じ目をしていた。親を、両方亡くしてんだ」
老人は目を伏せて嘆く。
「あんたと同じさ。なのにいつの間にか自分で立ち直っちまった。まったく、強い子だ」
その手が白くなるほど強く震わせて、だらんと地面に落とす。
「きっと助けになってますよ」
「……世辞はいらん。奥で待ってな」
壊れた時計を手にした老人が机に振り返る直前。ほんの一瞬だけ、柔らかな表情を見せた気がした。
「お爺ちゃん、直してくれそうですか?」
「えっと、おそらくは」
機械の置かれた作業部屋と暖簾で区切られた部屋の中、ちゃぶ台の前に彼女は座っていた。
辛い過去を微塵も感じない雰囲気で、二つ置かれた湯呑みのひとつを私に差し出す。その目はまだ、心配そうに私の目を覗いていた。
「この眼鏡、お爺ちゃんが直してくれたんですよ」
彼女は自身の付けていた眼鏡を外して撫でた。何処が修理されたのか、言われても分からないほどに綺麗だ。
「だから、お兄さんのこともきっと助けてくれますよ」
「……君は優しいね」
「そんなこと、ないですよ。凄いのはお爺ちゃんですから」
その会話を最後に、手持ち無沙汰に時折お茶を飲むだけの時間となった。
襖が開いたのは、お茶をもう殆ど飲み終わったタイミングだった。
「終わったぞ」
老人の手からケースが渡された。
なんともあっさりと戻ってきたその蓋を開く。
妻の眼鏡だ。
細い透明なフレームに、台形のレンズ。
寸分違わぬあの頃の姿で、私を見ていた。
「あぁ、本当に……」
「言ったでしょ。お爺ちゃんが直してくれるって」
私は傷つけぬようそっと目線まで持ち上げた。あぁ、彼女が、彼女だ。まさにあの日、あの時の。
朧気だった記憶の引き出しの中から取り出したのは、高校の帰り道。鞄に入れた紙袋を忘れてないか、潰れてないか仕切りに確認する私の横には彼女が歩いていた。
「じゃあ、また明日ね」
「待って」
別れ道、背中を向けて歩き出す彼女を私は呼び止めた。
私は鞄から紙袋を取り出す。
「これ、誕プレ」
緊張から、上手く言葉が纏まらなかった。何度もこう伝えようと、授業中も考えていたのに。
彼女は何も言わずに受け取ると、中から眼鏡ケースを取り出して開く。
「これ、眼鏡?」
「うん。伊達眼鏡だけど。欲しいって言ってたから」
「着けるね」
彼女は顔を下に向けると、髪が重力に従ってはらりと垂れた。そんな髪の束に薄桃色の指を滑らして眼鏡を掛けた。
「どう、かな?」
照れた様に目線を斜めにずらして、彼女は頬を掻いた。
ざあっと吹いた風で揺れる黒い髪と、オレンジの光を反射する眼鏡が、私にはもはや現実のものには見えなかった。
「綺麗だ」
気付けば目から熱いものが込み上げてくる。妻の葬式で流れなかった涙が今になって、とめどなく溢れて止まらない。
あぁ、なんだ、私の心はまだ、死んでいなかったのか。
「ありがとう……本当にありがとう」
私はまだ涙の跡が残った顔で彼女に感謝を述べた。
「そんな、私はただここまでお連れしただけですから。凄いのはお爺ちゃんで」
「いや、君のおかげだ。君が私をここまで連れて来てくれたから救われたんだ。私が保証する。君は優しい子だ」
「言い過ぎですよ……でも、役に立てたなら……」
「ありがとう。本当に」
すこし名残惜しく思いながらその手を離した。
これ以上長く繋いでいては、天国の妻に嫉妬されてしまう。
「——それで、お会計は」
ここまで精巧な復元だとは思っていなかった。幾らだろうと払うつもりだ。
「いらん」
「え?」
彼は返事も聞かずに居間のさらに奥の部屋へと行ってしまった。財布に伸ばした手が行方を失って空を掴む。
「こうなったら意地でも貰わないよ」
「いや、そういう訳には」
「うーん、じゃあさ。また来てくれますか?」
「また?」
彼女はほのかに赤らむ目を細めて笑う。
「お爺ちゃんならその眼鏡の整備も出来ますよ。そうだ、お兄さんも眼鏡買ってみるのはどうですか?」
「私が、眼鏡?」
「はい。お兄さんなら、丸い眼鏡似合うと思うんですよね」
これからのことなんて考えたこともなかった。またここに来る。それはなんとも心地の良い話だ。
「……そうだね。そのときは一緒に選んでもらっても?」
「もちろんです!」
私は彼女に見送られながら、この地を後にした。
曇り空は気付けば快晴となっており、指輪に反射した太陽光はなんとも眩しい。
どうやら妻に会いに行くのはもう少し先になりそうだ。




